新説日本古代史研究より引用
今、天皇の生前退位をめぐっていろいろ議論されていますが、まずその前に、そもそもどうして天皇なるシステムがこの日本には存在するのでしょう。また、いつから存在することになったのでしょう。そして、どうして今に至るまで存在しているのでしょう。そういった、天皇に関わる基本的なところは日本人には一切知らされることはありません。天皇という存在の本質は、我が国の支配勢力にとってはトップシークレットなのです。ですから、その支配下にある日本人になど知らせることはありません。
天皇も含めて我が国の成り立ちに関わる本当の歴史は闇の中にあり、決して公開されることなどありません。この国に残されている歴史からは、決して真実に到達することはできません。唯一、中国に残されている史書を検証することによってのみ、我が国の本当の歴史に到達することができます。それによってのみ、天皇の本質も理解することができます。まずは、天皇がどのようにして誕生したのかを検証してみましょう。それには、中国の歴史を紐解かなければなりません。
紀元前4世紀にかけて、中央アジアから東アジアに遊牧騎馬民族がやってきました。そして、満州エリアに「東胡」、モンゴルエリアに「匈奴」、その西に「月氏」が、それぞれ拠点を構えます。彼らは、中国王朝から「胡」と呼ばれて激しく対立しますが、胡の民族間でも大きな抗争が起きます。紀元前3世紀頃、月氏と匈奴の間に争いが起き、さらに匈奴と東胡との間でも大きな戦いになり、東胡の王は殺され、東胡は鮮卑と烏丸に分裂します。東胡は、この激しい抗争に敗れ、その一部がこの列島に逃避してきます。
その後、匈奴に敗れた東胡の末裔である鮮卑が強大化し、紀元2世紀頃になりますと、逆に鮮卑が匈奴を滅ぼし、北アジア一帯は鮮卑の支配するところとなります。この頃、匈奴の一部が、それらの攻撃を逃れてこの列島にやってきます。永らく分裂を繰り返していた中国王朝ですが、楊堅が隋を建国し、589年に中国全土を統一しました。楊堅は、鮮卑系の北周の系列にあり、中国王朝は、胡の勢力の鮮卑によって統一されたことになります。
隋の第2代皇帝煬帝は、江南との運河建設や3度にもわたる高句麗遠征の失敗で、隋は大混乱に陥ります。その混乱の中で、隋の武将だった李淵は、隋の中央を掌握し、唐を建国しました。とは言え、隋も唐も同様に鮮卑族による貴族政治で、その王朝の担い手が代わったに過ぎません。今で言う「政権交代」のようなものです。
唐王朝第2代皇帝李世民の時代は、『貞観の治』と言われるほどに善政が行われたと評されてもいますが、第3代皇帝李治の時代になると、大きく治世が変貌していきます。649年、李治は、皇帝位に就くも病弱だったため、655年に皇后となった武則天が実質的支配者となります。
武則天は、624年生まれで、幼名、あるいは本名を『武照』と云い、14歳で第2代李世民の後宮に入り、その後李治に取り入ります。その李治との間に娘が誕生するのですが、武則天は、わが子を自らが絞め殺し、それを王皇后の仕業だとして、王皇后を皇后の座から蹴落とします。武則天は、自分が権力の座を仕留めるためには、わが子をさえも自らの手で抹殺するという残忍な手法を使っています。
この時点で、武則天は人間性を喪失しています。李世民は、武則天を遠ざけていましたから、あるいはその本性を見抜いていたのかもしれません。しかし、李治は、4歳年上の武則天に心を奪われ、周囲の反対の声も聞かず、武則天を皇后にしてしまいます。
皇后となった武則天は、その王前皇后等を虐殺しています。こうして、唐王朝の実権を握った武則天は、身内の武氏一族を重用しますが、冷酷非道に子や孫であろうと自らに反抗する者を容赦なく抹殺し、また密告により反対派を徹底して潰すなど、独裁的な恐怖政治を横行させました。ですから、漢代の呂后、清代の西太后とともに『中国三大悪女』と称されてもいます。
また、隋を滅ぼして唐を建国した李淵は、『天子になるであろう』という道教からの予言が、その行動の根底にあったとも言われています。そして、唐王朝初代皇帝となった李淵は、主要な3宗教に、『道教・儒教・仏教』という順位を付けて道教を推奨しました。それに対し、仏教徒は、太子李建成を支持して巻き返しを図ろうとするのですが、道教に推される李世民が李建成を廃し、第2代皇帝となります。
この道教を重視する動きは、第3代皇帝李治の時代になるとさらに強まります。当時の道教にあっては、錬丹術、あるいは外丹とも言われますが、丹、つまり水銀を服用することで不老不死の仙人になることができると考えられていました。辰砂などから取り出した硫化水銀を原料とする仙丹を、皇帝たちは不老不死の妙薬だとして求めていました。李治が病弱だったというのは、あるいは水銀中毒の可能性もありそうです。そして、李治の皇后となる武則天も、李世民が亡くなった時に女性道士となり、李治も武則天も、道教に大きく関わっています。
その道教では、天の中心を為す北極を『北辰』と呼び、宇宙の中心だとしていました。それが、神格化され、『天皇大帝』とも呼ばれていました。こういった考え方を基にして、660年、武則天は皇帝を『天皇』とし、自らも『天后』と改名しています。
ここにこそ、我が国の今にまで続く天皇の『ルーツ』があります。
天皇という名称をこの世に生み出したのは、武則天でした。ですから、我が国においては、武則天は、天皇の祖先「天照」として伊勢神宮で祀られています。それを象徴するように伊勢神宮の神紋は花菱で、別名が「唐花」と呼ばれています。
先にも述べましたが、武則「天」の幼名・本名は、武「照」で、まさしく「天照」です。その武則天は、自らが即位すると、「聖神皇帝」を名乗っています。聖なる「神」であるところの「武」則天で「神武」です。つまり、天皇の祖先が「天照」だとか、初代天皇が「神武」だとしているのは、我が国の支配勢力のルーツは、武則天にあることを伝え残していたのです。
ここにこそ、我が国の今にまで続く天皇のルーツがあったのです。
西山恒之
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利州都督武士彠と楊氏(楊達の娘)の間に次女として生まれ、諱は照。生家の武氏は、唐初時代の政治を担った関隴貴族集団の中では傍流に列する家系であったが代々財産家であったため、幼い頃の武照は父から高度な教育を与えられて育った。しかし、12歳のときに父が死去すると、武照は異母兄と従兄に虐げられる生活を送ることとなった。
637年、太宗の後宮に入り才人(二十七世婦の一つ、正五品)となった。ほどなく宮廷に「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を遠ざけていった。途中、李君羨という武将が「武が栄える」の「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑された事件があったが、太宗は李君羨の処刑後もなお武照と距離を置き続けた。
太宗の崩御にともない、武照は出家することとなったが、額に焼印を付ける正式な仏尼になることを避け、女性の道士(坤道)となり道教寺院(道観)で修行することとなった。
その頃の宮中は帝位を継いだ高宗のもと、皇后の王氏と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立し、皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃からそらすため、高宗に武照の入宮を推薦した。武照が昭儀(九嬪の一つ、正二品)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃からそれたが、王皇后自身も高宗から疎まれるようになった。
立后
永徽6年(655年)6月、高宗は武照を昭儀から新たに設けた宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、宰相の韓瑗と来済の反対で実現はしなかった。同年、中書舎人の李義府などの側近が皇后廃立と武照擁立の意図を揣摩し、許敬宗・崔義玄・袁公瑜らの大臣が結託して高宗に武照立后の上奏文を送った。高宗は、王皇后を廃して武照を皇后に立てることの是非を重臣に下問した。
この時の朝廷の主な人物は、太宗の皇后長孫氏の兄で高宗の伯父にあたる長孫無忌、太宗に信任されて常に直言をしていた褚遂良、高祖と同じ北周八柱国出身の于志寧、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の4人であった。下問に対して、長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣のみが皇后の廃立を消極的に容認した[3][4]。
10月13日(11月16日)、高宗は詔書をもって、「陰謀下毒」の罪[5]により王皇后と蕭淑妃の2名を庶民に落として罪人として投獄したこと、および同2名の親族は官位剥奪の上嶺南への流罪に処すことを宣告した。その7日後、高宗は再び詔書を発布して、武照を立后すると共に、諫言した褚遂良を潭州都督へ左遷した。
11月初旬、皇后になった武照は監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きに処した上、処刑した[6][7][8]。
垂簾政治
武皇后は高宗に代わり、垂簾政治を行った[9]。武皇后は自身に対する有力貴族(関隴貴族集団)の積極的支持がないと自覚していたため、自身の権力を支える人材を非貴族層から積極的に登用した。この時期に登用された人材としては、狄仁傑・姚崇・宋璟・張説などがいる。これらは低い身分の出身であり、貴族制下では宮廷内での出世が見込めない人物だった。武皇后は人材の採用に当たっては、身分のみならず才能と武皇后への忠誠心を重視した。姚崇と宋璟は後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いたが、張説は評価の分かれる宰相である。
顕慶5年(660年)、新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし、百済を滅ぼした。倭国(日本)・旧百済連合軍と劉仁軌率いる唐軍が戦った白江口の戦い(白村江の戦い)にも勝利し、その5年後には孤立化した高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)が、武皇后の暴政と営州都督の趙文翽の横暴により契丹が大規模な反乱を起こして河北へ侵攻するなど、遼東・遼西の情勢はかえって悪化した。
出自を問わない才能を発掘する一方で、武皇后は娘の太平公主や薛懐義・張易之・張昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思・武承嗣ら親族の武氏一族を重用し、専横を招いた。また佞臣の許敬宗などを任用し、底なしの密告政治により反対者を排除した。そのために来俊臣・索元礼の徒ばかりか周興と『羅織経』の作者らのような元々法律に通暁した「酷吏」が総じて反対派を監視する恐怖大獄を行った。この状況に高宗は、宰相を招いて武皇后の廃后を計画するが、武皇后は計画を事前に察知し、皇帝の権力奪還を許さなかった[10]。
弘道元年(683年)、高宗が崩御すると太子の李顕(中宗)が即位するが、中宗の皇后韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に、太平公主を使って中宗を廃位し、その弟の李旦(睿宗)を新皇帝に擁立した。睿宗は武后の権勢の下、傀儡に甘んじることを余儀なくされた。
武則天の専横に対して、皇族は男性・女性を問わず次々と挙兵に動いたが、いずれも打ち破られた上に族滅の惨状を呈した。民衆は武后に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの浮戸や逃戸を招いたが、農民蜂起が起こるほどの情勢ではなかったため、反乱軍に同調する者は少なく、大勢力には発展しなかった。この時に反乱軍の檄文を詩人の駱賓王が書いたが、その名文に感嘆した武則天が「このような文才のある者が(官職につけられずに)流落しているのは宰相の責任だ」と言ったという逸話があるが、そのとき宰相は黙って返答しなかった。
登位
唐の宗室の挙兵を打ち破った後、武后は女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また周代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った[11]。
天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ(国号は周であるが、古代の周や北周などと区別するためこう呼ぶ)。
即位後
奉先寺大仏
帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた[12]。
武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、高宗の時代から彼女が実力を見い出し、重用していた稀代の名臣の狄仁傑である。武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた[13]。また、治世後半期には姚崇・宋璟などの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの2名は玄宗の時代に開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は、狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった。
晩年
晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった(武則天は武姓にこだわって甥に帝位を譲ろうとしていたが、「子をさしおいて甥に譲るのは礼に反する」との狄仁傑の反対で断念していた。子とは即ち高宗との子であり、唐王朝の復活となる)。当時、武則天の寵愛を受け横暴を極めた張易之・張昌宗兄弟を除くために、神龍元年1月24日(705年2月22日)、宰相の張柬之は中宗を東宮に迎え、兵を発して張兄弟を斬り、武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせた。
これにより中宗は復位し、国号も唐に戻ることになった。しかし、武氏の眷属は李氏宗室を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築しており、武則天自身も太后としての立場を有していたため、唐朝再興に伴う粛清は太平公主や武三思などには及ばず命脈を保った。その後まもなく武則天は死去し、706年(神龍2年)5月、乾陵に高宗と合葬された。唐代の帝陵は、代始の大乱に勝るとも劣らない幕引きの兵乱のさなか、京兆尹の温韜にすべてが盗掘される羽目にあったが、乾陵のみは発掘予定の夏に激しい雷雨が数晩続き、不成功に終わったという。
1919年(大正8年)7月18日、天照大神と明治天皇を祭神とする「朝鮮神社」を創立し、官幣大社に列する旨が仰出された[1]。1920年(大正9年)、南山の頂の御用地20万坪、境内7000坪の地に、総工費150万円で殿舎の造営に着手、6箇年で竣成した。石階段の表参道の他、東西に2つの参道があり、伊東忠太設計の正殿、神庫、祝詞舎、瑞垣門、勅使殿、手水舎、社務所等があった。初代宮司は高松四郎[2]。
1925年(大正14年)6月27日、「朝鮮神社」が「朝鮮神宮」に改称され[3]、同年9月14日には鎮座祭の期日(同年10月15日)と例祭日(毎年10月17日)が定められた[4]。
1925年(大正14年)10月15日、園池掌典次長が勅使として御霊代を奉戴し、鎮座の盛儀が執行され、17日、園池勅使の参向のもとに初回の例祭が挙行された。以後、例祭ごとに勅使の参向があり、また本社の宮司は勅任待遇であった。
朝鮮神宮の鎮座直前に、今泉定助・葦津耕次郎・賀茂百樹(賀茂真淵末裔)・肥田景之(神職、実業家、衆議院議員[8])ら神社関係有力者や、後1938年に「海外神社協会」を組織する小笠原省三等が「朝鮮神宮には朝鮮国土の神を祀るべし」と主張し、1919年に政府が発表していた「祭神を天照大神・明治天皇とする」方針の再考を求め、政府・総督府と神社人の間で論争となった[9]。小笠原は『朝鮮神宮を中心としたる内鮮融和の一考察』『朝鮮神宮を拝して内鮮両民族の将来に及ぶ』を著して、神道は古来よりその土地の神や偉人を祀り、その土地の様式を入れた神社を建てており、天照大神は伊勢神宮とその系列のものであるから、朝鮮神宮には朝鮮の偉人を祀り、朝鮮の様式を主とした社殿を建築すべきであり、神職には朝鮮名家の由緒正しき人を任ずべし」と主張した[10][11]。神社人の間では檀君奉斎論が起こり、檀君を「朝鮮国魂神」として奉斎する主張へと発展したが、神社人の主張は受け容れられなかった[9]。神社新報社は「海外の新領土に天照大神を祀るのはヨーロッパ諸国がアジアの植民地にキリスト教を伴ったのに似ているが、日本の思想にはないものであり、神道の思想の変質である」と断じた[9]。
参拝の奨励・強要と神社参拝拒否運動
朝鮮神宮の建立以降、朝鮮総督府は「皇民化政策の一環」として神社参拝を奨励し、各家庭での神棚設置と礼拝を奨励した。さらに日中戦争が始まった1937年(昭和12年)以降になると、神社参拝を奨励した[12]。
この頃には、日米関係の悪化も関係しており、朝鮮のキリスト教徒に対する圧力も強まっていた。それまで植民地統治下にあって、キリスト教会内部だけは比較的、表現と集会の自由が容認されていた。これは堤岩里事件を引き起こしたことに対して、欧米から強く非難されたためであった。
カトリック教会への圧力が強まる中、1939年(昭和14年)には長老派教会が警察官立ち会いの下で神社参拝を決議した。これに反対した約2000人の牧師・教徒が、検挙・投獄された(神社参拝拒否運動)。この際、日本基督教団は神社参拝に反対する朝鮮の教会に赴き「国家の祭祀を要求することは改宗を迫るものではない」という趣旨で、反対派牧師たちを説得している。神社参拝拒否運動は、200あまりの教会が閉鎖されるという結末を辿った。