加味兵四郎先生のお話

「『とうかい』十年にみる東海のあゆみ」より

 

・人は前から頭を下げられるよりも、後ろから手を合わせられるような者になるよう心かけねばならない。

 

・道理、道徳、義理、人情は、天保九年十月二十六日以前の人の通るべき当たり前の道。それより以後は、神一条の道である。これを一緒にしてはならない。

 

・とうじんの話し

 

とうじんとは、日本人ではない。からの人をとうじんと言っていた。だが、神様のお話は人の心を悩ましたり、我が心を病んで埃を付けて通る人が「お道」から遠い人であるから、とうじんであると言う。

神様は日本人、外国人の差別をされるものではない。但し、本当のお道の人ならば、借り物の御恩報じに我が身の事を忘れ、人のため、世界のために人を助ける心のある人である。

 

・そろばんの二二ヶ四の話し

 

二二ヶ四とは、初めの二は月日二柱の事。月日二柱が無い人間、無い世界をお拵え下さった理である。

次の二とは、いざなぎ、いざなみの二柱の事。月日二柱が無い人間、無い世界をお拵え下さる時、いざなぎ、いざなみの二神を種と苗代にお拵え下さった理である。四とは、その時分まだ四季、四方の季節、方位の無い時である故、月日二柱といざなぎ、いざなみの二神の御徳の理を四という。それ故、月日二柱と人間夫婦でも四という目安になし、又いざなぎ、いざなみ二神と人間夫婦でも四という目安がでる。又人間夫婦と人間の子供夫婦とでも、そのお徳により、四という目明日が出る。

 

二三ヶ六とは、二は前述通り。三とは、月日様が人間を拵え下された時、水、火、風の御守護下された理と、人間を三で産み広めて下された天の理である。六とは、その時分ではまだ六体の借り物、世界六字に治めて下された時ではない。水、火、風の御守護と、三で産み広めてくだされたるにより、六という目安になる。こえ人間夫婦であれば、男にも水、火、風の御守護あれば、女とて同じ事。その理で六になる、という事である

 

二四ヶ八とは、二は前記通り。四とは、月日様といざなぎ、いざなみの命様のお徳を四という。これは、数のよんではない。八とは、東西南北の全体の四方と、各角々の四方、八方より御守護下さる理が八つある。これも、数の八ではない。「くにとこたちの命様」より「をふとのべの命様」迄の八柱の神様が、八方取り混ぜ御守護下さる理。

 

二五、十とは、二は前々通り。五は人間は五輪五体である。十とは、この五輪五体の体を十柱の神様が十分の御守護下さる理である。つまり、ここまで来て初めて、無い人間、無い世界は完全に出来上がり、これから人間は月日二柱のふところ住まいをして、陽気暮らしをさせて頂くのである。故に、そろばんとは数をかぞえる為ではなく、親神様の御苦労をしり、それに対してお互い人間はいかにしてその御恩に報いかを悟らねばならないのである。お互い一人一人がこの理をしっかり心に治まれば、この世は「おだい」になるのである。

 

二六、十二とは二は前記の通り月日二柱の事。六とは、この時点では、すでに人間六体借り物、世界はろっくに御守護下さる理。人間は水火風の御守護下され、三で産み広めて下され、世界何処に限らず全て無しに御守護下さる理。「をもたりの命様」は、頭十二、一年は夜十二時、昼十二時の御守護の理を十二という。

 

二七、十四。二とは前記通り、月日様二柱。七とは天神七代の理。天神七代とは、月日様別にして、「くにさづちの命様」から「いざなみの命さま」まで、いざなぎ、いざなみ二柱は一つである故、これを七代の神様天にましますを天神という。人間が神様に連れて通ってもらう理とは、三度腹へ宿りて、一宮、二墓、三ぱらの場所へ、三度連れて通ってもらうた理。十とは、十柱の神様十分御守護下される理。四とは、四方四季の理。天神の七代と、人間七代生まれ変わってお連れいただいた七代の理で、十四という目安が出る。この理を、二七、十四という。

 

二八、十六。前記通り、月日様二柱。八とは、八方八柱の神様の御守護下さる理。十とは、十柱の神様の十分御守護下さる理。六とは六体借り物、世界ろっくに御守護下さる理。八方を八柱の神様が御守護下される理で、二八、十六という目安が出る。

 

二九、十八。前記通り、月日様二柱。九とは、人間九つの道具の借り物、世界は九で詰めてある世界。九の世界とは、水、火、風の御守護で人間お拵えくだされ、その人間、三で産み広めて下され、月日も又水、火、風の御守護して下される理を九という。九つの道具の借り物の九と、九の世界の九とで十八という目安が出る。この理、二九、十八という理。

 

過去八回に渡って、そろばんの九九の二の段のお話を連載しましたが、その理合いは、そろばんとは人間も世界も、八方八柱の神様がくるめて御守護して下さる理。九九とは、人間身の内は九つの道具の借り物。世界は、九でつめてある世界である。二の段は、無い人間、無い世界をお造り下さるについての、月日、元の神、実の神の御苦労のお心を申しているのであって、次の三の段では、いよいよ親神様が陽気暮らしを見て共に楽しみたいとの思し召しより、人間を産み広めて下さるという段に入るのである。

 

・人間の心と魂という理

 

人間の心と魂という理を説き分けする時には、魂というものは、人間身の内に治まってあるものである。心というものは、人間の心の使い方をいうのである。人間の心は、この処というて決まったところには無い故に、「こころ」と言うのである。目で見るときには、目で見る処へ心は行くものである。手でするときには、手でする処へ心は行くもので、足で行くときには、足の行くところへ心は行く。口で言うときには、 口で言うところへ心は行く。耳で聞くときには、耳で聞くところへ心は行くものである。

 

どんな事するときでも、心で思うところへ心は行くものである。この処と思う処へ心は行く故に、使い方を「心」というのである。心の行ってない時には、何事も出来ない。舟を動かす道具を「ろ」というてある。その櫓(ろ)の加減で、舟はどちらにでも動くものである。

 

・日輪、月輪という理

 

日輪、月輪という理は、日輪様は女である。人間も女の腹から子ができてくる。その子が一日一日と理が出来てくるので、その理によって腹の子が日々に成人してくる。地は、日輪の身体である。地から出来てくる物は、一日一日と理ができてくる。その理が廻りてくるので、日々、野の粒毛草木に限らず虫けらに至るまで、世界のありとあらゆる万物残らず、日々成人してくる事を日輪という。

日々三十日積めば、一カ月という。十二ヶ月に積めば、一年という。その年が重なってくると、いかなる木でも大木となる。いかなるものも成人するのも、これ皆日輪、月輪の理によって人間も成人すれば、世界にあるもの残らず成人する事をこれ日輪、月輪という理である。

 

・「理」と「理前」の話し

 

理とは、御教祖がお示し下された神一条の道の事である。理前とは、今お互いが通っている教会の事である。教会は、完全なる神一条の道とはいえない。つまり、道八分、世界二分でおゆるし頂いた処だからである。二分だけ世上の理が混じる。理前は、、悪いとは仰らない。通って当たり前の道だからである。これを分かりやすく申すと、理を今「お宮」とすると、理前は「鳥居」のようなものである。鳥居があると、誰でもその奥にお宮のある事に気がつく。だが鳥居はお宮ではない。お宮の付属物である。

天保九年十月二十六日までは、道理、道徳、義理、人情という「理前の道」であった。それより後は、神一条という「理の道」である。これを一生に考えては申し訳ない。

 

・神様のおわす場所の話し

 

仏は、お寺にのみ在わすとは限っておらない。神様は、お宮にのみおいでになるとは限っておらない。同様に、天理王命様は、「教会」にのみおられるとも限らない。皆銘々の身体の中にあって、日夜絶え間なく御守護下さっているのである。

 

・天という理

 

天は、人間御上からでも水である。しかし、地の底まで水はある。土を掘ると、大抵の処、水が湧く。その水の御守護は、水の徳、水の位、世界にこの上も無いから、天と地とをくるめて「天」という。天だけを見て天と言うのは、人間のはなしである。

 

・人間身の内と世界と同体の理

 

月日様は、人間を拵え下され、その人間に合わして世界を拵え下さったものである。身の内にあるものは、世界にすっかりある。身の内地の事を詳しく分かれば、世界何事の理も皆分かるなり。

今そのあらましを、ほんの一つ二つ話せば、頭は天にて、胴は地なり。その証拠に頭は冷たく、胴、足暖かければ身に不足無し。世界も天は寒い、地は暖かい。土地の高いところは寒い成れども、低い処は暖かいもの。天は月様にて水気なり。地は日様にて温みなり。

両眼は月日なり。左の手は「くにとこたちの命様」なり。右の手は「をもたりの命様」なり。又両足も、その理と同じ。手足の十本の指は、親指は月日なり。後なる八本は、八方八柱の神様なり。心は神なり。いかなる悪人に手も、元の性質は正しきものなり。その証拠に、人の物取るにも抜けつ隠れつするのは、元の正しき心をとがめるからなり。その正しき心は神なり。

 

人間の気は、世界の霧(もや)、霧のようなものなり。身は水なり。水気は水なり。温みは火なり。爪は世界の鋼はがね)なり。まつ毛は、世界の松なり。用木にならぬ雑木なり。髭は世界の粒毛。頭の毛は、世界の大木。前の毛わき毛は、世界の木の節。その他の毛は、世界の用木にならぬ雑木なり。口は世界の谷川なり。谷川に水は絶えぬも同じ理なり。口には、何処からともなく水は湧くものなり。身の内の筋は、世界の川なり。身のうちの四十八カ所の脈は、世界の湯の沸く処、即ち元湯なり。

 

身のうちの「をこり病」は世界の地震なり。「腫れ物」は、世界の水つき。熱病は、世界の日照りなり。腹の鳴るのは、世界の雷なり。へそは、世界の阿波の鳴戸。夜昼の区別あるのは、前後の区別あるのも理は一つなり。

天の川は、世界の背筋なり。七夕は、背筋の理よわきなり。世界の草木も、鼻が咲いて実がのるなり。それは人間にすれば、女の月やくは花なり。月やくがありて、子が宿るものなり。それも理は同じ事なり。大骨十二本は、一年の月数。小骨三百六十本は、日数なり。

節七十二は、土用七十二日の理。胸は梅。竹は、身の丈なり。人間生まれ出しは、五分からにして、五分五分として成人をしたとある。今でも「一寸の虫にも五分の魂」という。又勝負の勝ち負け無しを五分五分というなり。人間を計る物差しは、竹の差しが始まりなり。

 

・地という理

 

地という、土というものは柔らかい物で、水をかけたらどろどろになって、手で掴む事のできないものである。地から出て来る物は、昔から今に変わらん。世界助かる理は、昔から今に変わりた事はない。この変わらない心を「地」という。

 

・天理という理

 

人間の身体、出来てくるというのも、知らぬ間に腹に宿りて、十ヶ月の間に目も出てくれば鼻もでき、耳も出てくれば口もでき、手も出てくれば足も出来、男と女という身体も出来てくる。これ皆、親の見るまでに出来てある。人間の身体は、我が子というていれども、誰も知らぬ間に出来たものである。物を食べ、物を来ているといえども、知らぬ間に大きくなって、十五になれば一人前になってくる。野の粒毛作りているのも、人間は修理肥やししていれども、種を蒔けば知らぬ間に芽が出来、知らぬ間に葉ができ、花が咲き実が入ってくる。

 

皆、人の知らぬ間に出来てくるのが天の理である。世界にある物、草木、鳥畜類、万物出来てくるのも、皆知らぬ間に出来てくる。知らぬから、不思議というていたが、夜が明ければ昼となり、昼が暮れれば夜となる。これ皆知らぬ間になってくる。人間よい事出来てくるのも、雨降るのも、大風吹くというのおm,干ばつ、地震、雷、津波、流行病受けるというのも、これ皆人間思案でなるものではない。神様の残念、天の理でなってくるものである。

人間の難儀というのは、夫婦が離れ、親子が離れ、兄弟に離れ、貧になろうまいと思うても貧になり、病気になろうまいと思うても病にかかり、難儀するのも不自由するのも、これ皆知らぬ間になってくるものである。これ、人間の考えでなってくるものではない。残らず天の理に添うてないものである。髪の残念という。難儀するというのも、良い事に合うというのも、これ皆人間の心が天の理に添うてあるのと、無いのとの理によって、なってくるのが天のりというのである。

 

・正月中の行事についての話し

 

年の始まり、月の始まり、日の始まりを「正月」というのは、これは正しい。月様は泥海中の処より、正しい人間、正しい世界を造られたのをいうなり。正しい事を「正」という。暗がりの世界を照らす月様は先に立ってこの世界を造られた理をもって、この世界を「この日」とは言わず、「この夜(世)」というなり。

 

「三日の祝い」は、これは人間元々「さん」で産み広められて、日々身の内は、温み、水気、息の三つでもっている。又世界も同じ事。水と火と風とは台なり。身の内、温み、水気、息の三つが十分の守護あれば不足なし。この三つ変われば、身の内に不足出来る。よって、身の内の悩みを看るに、脈を看る。脈とは、この三つのやくをいうなり。この世界は皆三つの理、三つずつの理あり。天地人とか、上中下とか、又、月も三日月が始まりなり。三日芽でなくば見えかけぬとは、人間でも子が宿っても一ヶ月、二ヶ月のうちは、人から見てはわからん。三ヶ月目からちょっと見えかけるのも同じ事なり。「三日の祝い」の理は、これは、水、火、風の三つの理をもって祝うなり。

「一重の餅」は、天地の理。天地は丸きりものなり。丸きは正しきなり。「門松」の女松、男松は、これは女神、男神の夫婦の二神よりできたる理を示せるものなり。「ゆずり葉」をつるは、代々親は子を産み、子は親となりて、子孫に世をゆずり行く理をもつなり。「注連縄の七五三」は、七は天神七代、五は地神五代、三は「さん」で産み広められたる理なり。世界でいう天神七代は、これを神々七人のように思えど大いに違う。これは、な、む、あ、み、だ、ぶ、つの「くにとこたちの命様」より「たいしょく天の命様」迄の神々をいう。この七柱の神は、道具となってした理をいう。地神五代というは、これも世界では神々の思えども、ぢしん五体というて、皆銘々の身の内の事、五体の人間のできた事を言うなり。

 

「数の子」を用いるは、元々いざなぎ、いざなみの二神は、今のおぢばの甘露台を神々の身体の真ん中として、「なむなむ」と三日三夜に子数九億九万九千九百九十九人を宿仕込み、腹にや凭れた理をもって用いるなり。「まめ」を用いるは、無事にてこの世を送らそうとの、神の思し召しの理をするなり。「しめ縄」というは、しめとは、しめる事なり。なは、「くにとこたちの命様」月様の事なり。わは丸く取り巻く事をいうなり。これは月様は、この世界を輪の如くに取り巻きて、しめていられる理なり。よって「オめ縄」は、左なわに縫う物なり。その形は、月さまの本体、頭一つ、尾一筋の大竜の形なり。

 

「七日七草」は、元々人間は九億九万年泥海中に住まいたる時は、海草等を食べて通りた理をするものなり。「十四日のとしこし」という理は、十四日で月は満月とはいえぬ。十五日は満月なり。人間も男は十四才では一人前とはいえぬ。十五才よりは、男一人前なり。これで十四日をとしこしというなり。「十五日の小豆の粥」は、これは元々人間は、泥海中で住まいしたる理でするものなり。

 

・酒についての理

 

この酒を呑むについては、よほどの理がこもっている。これは、人間は元々泥海中へ住まいをして、この天地分かれかけてよりこの世へ上りしものなり。皆々他人というて更に無い。実の兄弟なり。その実の兄弟の理をして、酒を呑むなり。

茶の呑んだ茶碗でも、水を飲んだ器でもそのままでは一に出せない。必ずゆすがねば気が悪い。ところが酒ばかりは、呑んだら盃をそのまま向こうへ差しても別に何とも思わん。又呑みさしの盃を人に出しても、差し支えなし。なかなか他のものは、水も茶も酒も同じようなものなれど、それはできんなり。又人間の元は「ぎぎょ(岐魚)」という魚が、これは「いざなぎの命」も元のお姿、これ人間の父親なり。それからできた人間ゆえ、皆々実の兄弟なり。

 

よって、酒さえ出てあれば、野菜でも山菜でも「さかな」というなり。酒が出てなかったら、「さかな」とはいうまい。「いざなぎの命」は、「ぎぎょ(岐魚)」という魚、これ人間の父親なり。この理をもって、「さかな」の事を「とと」という。我々は父親の事を「とと」ともいうも、この理をもってなり。

酒を呑んで、腹を立てたり、嘆いたりするようでは、酒を呑んだとは申せぬ。酒は実の兄弟の理をするのであるから、勇まねばならぬなり。酒によって人といさかいをしたり、暴れたりするは、酔うたのではない。この酔うたというは、よは、段々説いたる如く、月さまなり。月様は水なり。そのよるの月様の心に添うた事を酔うたというなり。

 

・いろはの文字と本字について

 

世の中の人は、いろはの文字は後からできて、本字は先にできてある故に、本字を書くことが偉いように思いいるが、これは大いに心得違いである。何となれば、いろはの文字は、これは文字にするから違う。

 

この世界の人間が出来、ものを言いかけた時より、この四十八音はあるものなり。形の上のいろはの字はなかったが、言葉はありたるものなり。言葉はありて、形の上の文字の無かったのを弘法大師なる人は拵え、網綴りたもの迄の事なり。弘法大師は「をふとのべの命様」の現れたものとあり、引き出しの御守護ある神なり。よって、弘法大師はその魂なるをもって、いろはの文字を引きだされたる迄のものなり。言葉があって、文字が無かったので不便ゆえ、神様の御守護にて形を現せられたるなり。よって、いろはの文字の上から見ればつまらぬ物のように思えども、決して文字と一つに見るべきものではない。これは、言葉の元ななり。文字が先か、言葉が先かといえば、云うまでもなく、言葉有りて文字はできたるなり。

 

この四十八文字さえ知っておれば、いかなる本字にても、かなさえ打ってあれば読めるなり。いろはの字引さえあれば、いかなる本字に手も引き出されるなり。読むものが上か、読まれるものが上か。引き出すものが親か、引き出されるものが親か。使われるものが主人か、使うものが主人か。言うまでもなく、読むもの、引き出すもの、使うものは親なり、主人なり、上なり。本字を書いて、その字にかなをつけるのに、かなをその字の上へつけるなり。あくまでもいろはの方は上にて、本字と方を並べるごとき、軽きものではない。このいろは四十八文字は、言葉の元にて「かなめ」なり。剣道にても、相撲の手にても、四十八手裏表としてある。又、人間一人が住まいする道具も、四十八品さえあれば住めると言葉にいわさしてあるも、この理なり。

 

本字というと、本字と各から本字を元に思う。これは形の上、文字の上からは、本字の方は古いものなり。先にできたるものなり。なれど、これは本(もと)の字という訳ではない。手本にした字という訳なり。何となれば、本字は便利色分けの為に造られあるものなり。今その一つの例をあげれば、文字を書く時に用いる墨も「すみ」、物の隅も「すみ」、火におこす炭も「すみ」、物事の片づいた済も「すみ」、水の濁りたのを澄ますのも「すみ」。又、文字に書くときの紙も「かみ」、神も「かみ」、上も「かみ」。又、酒などを熱くしたのを「かん」といい、時候の寒いのを「かん」という。この通り、事は変われど、いろはの文字に書けば一つなり。書き誌せし本人にすれば分かれども、他の人が見れば分からん為に、火を炊く炭はこう、文字を書くときの墨、物事の片づいた済、水のすんだは澄と、手本として拵えたのは本字である。

 

これは銘々に身体ありて、それぞれに姓名ついてあるのも同じ理由なり。

「かな」というは、たやすき事を「かな」というなれど、かなというは日様の事、大地の事。なとは月様の事。何故かは日様、なは月さまという事は、ここでは説かず。「かな」は月日の事、「かなめ」の事なるのみ申しておく。

 

・人間元々泥海の中にてできたる理

 

この背かは元々は人間もなく、世界もなく、泥の海。その中より月日二神は先に立って、八柱の神を道具に使うて拵えたとある。これは元々も今も、少しも理は変わらんと仰るなり。

その訳は、今日の人間について話しすればよくわかる。元々泥海の中からできた証拠に、今人間のできるにも、男女の夫婦から子が腹に宿る。その子は明るい処でできるのではなく、腹の中の暗がりの中からできるものなり。又、母の胎内では、こぶくろの中に水の中でできて、十月、十二地の日満ちて生まれでるものなり。これも、理は変わらんものなり。

 

次に、その生まれだしの人間は、五分からうまれたとある。その証拠に、今に五分いうは何事にも通じる。勝ち負けのないのを五分五分とか、一寸の虫も五分の魂等、いわしあるなり。

次に九億九万年の間水中に住まいした証拠に、人間銘々足の裏に、土踏まずという処はある。その人間は、三尺にしてものをいいそめた、とある。これも今人間は、三歳に至らねば言葉の使い分けできぬも同じ理なり。五尺になって天地が分かりて、人間も陸へ上がりたとある。その証拠に、そろばんの玉でも、五つ置いたら必ず上へ収めてしまわねば動かされぬも理は同じ。その人間は、陸へ上がってから天から「ぢき持つ」を与えられた、とある。これは人間は、子を産むにも、子の生まれるまでは乳が出ぬもの。子がこの世へ生まれでると、すぐに乳房へ乳は下りてくるものなり。又、人間陸へ上がりてより段々と万の事を教え、仕込んで神が通りたとある。これは人間は子を産んで、一人前の知恵の付くまでの親は仕込みをするのも、同じ訳なり。

 

・九億九万年の間、水中に住まいをせるに付、その年限に付いての理

 

理の分からんものは、九億九万年の水中住まいの元の理を聞くと、その時は天地というものは無い時、夜昼の区別の無い時、夜昼の一日という区別も無ければ、一ヶ月という付きもできん。すれば、春夏秋冬の四季もできん。それに何故、九億九万年という年限はどうして勘定したものであるかのように思う。それはもっともなる事なれど、ここによくよく理を聞き分けねばならんというは、今度の教えを親神がせられるのは、この世始めてから説いて聞かした事の無い、誰も知らぬ話しを説いて聞かすものである。

 

これ迄、人間のしている事、知っている事とても、皆神が教えてきたのであるから、これ迄に神が教えて通った、今までに知っている事は聞かすに及ばん、教えるに至らん。知らぬ事や、無いことを教える。人間を造り、世界を造り、今に生きて守護している親神は、諭すのであると仰せられてあり。この世を造り、人間を拵えたる元の親神は、表へ現れ御教祖様の身に入り込み、口を借りて諭す。口を借りて、いさいを説き聞かすとある。神の諭しに千に一つも違うた事は無い。親は間違うた事は教えぬなり。

しかしながら、それだけでは心得できようまい。その親が言う限りは、それを本当に思わねばならぬもの、これも同じ事。無い人間を造る親がが説かれる限りは、これに間違いは更に無きものなり。

 

・世界一列兄弟の理

 

人間の上では、人種を分ける。しかし、元々人間はいざなぎ、いざなみの命様の種子、苗代一つのもの。今も同じ事。水、火、風は、皆昔から一つのもの。一人、又、一国毎に月日様はあるものではなし。昔も今も同じ事。一列兄弟には少しも変わりなし。世界並では、外国人は目が青い、毛が赤いと言っている。それは、皆人間の上で分かるようにして下されたるもの。人間一種子、一腹のものでも同じものは無い。これは皆、分かりよい様にしたものご教示頂く。人種、人名、人間が付けたものなり。

(以上)