天武は武側天の嫡子説

縄文家族天竜楽市ブログより引用~

 

武照はのち、唐三代皇帝高宗(天皇皇帝)の皇后になると実権を握りました。武皇后は天后と号し、高宗は皇帝から天皇に称号を変更させています(世界史上初の天皇)

 

白村江で唐に大敗した倭(ヤマト)は唐に占領された説がありますが、天智天皇(当時は大王=おほきみと称されていたと思われます)が行方不明になり、弘文天皇が壬申の乱で大海人に破れると大海人(武則天が『瀛』州で生んだ子という説もある、また鎌足の長子中臣『真人』という説も…大海人の和風諡号は「天渟中原『瀛真人』天皇」)が即位、ここで大和(ヤマト)国が滅び、日本国を建国し、大海人は唐の高宗に倣い初めて天皇を号したようです。

漢風諡号の「天武」は武(則)天に通じていますね…

 

因みに武則天の子である唐四代(六代重祚)皇帝中宗の諡号は「『大和』大聖大昭孝皇帝」

 

武則天と持統天皇は、共に690年一月に即位。唐(武氏の国号は周)と日本の両国に、同時に女帝が誕生しました。この年が伊勢神宮内宮最初の式年遷宮ですが、主祭神がそれ以前のタカミムスヒからアマテラスに変更されたとする説があります。(武則)「天」の名は「照」ですので、天照とは武則天を意味するとも云います。

 

また、もう一人の女系皇祖神である神功天皇の漢風諡号「神功」は、武則天時代の周の年号から採用されています。

 

天武持統期には公式に遣唐使が派遣された記録がありませんが、次代の文武天皇期から遣唐使が再開(武則天時代は正確には遣周使)され、主に武周時代の制度が日本に取り入れられていきました。

 

 「日本」の国号も武則天によって正式に(国際的に)認められています。

 

唐の皇帝が称号として使用した「天皇」号の使用は、のちの『旧唐書』で天皇まで遡って使用が認められていますが、旧唐書では「倭国」と「日本」を別の伝に立て、倭国の記述を648年で切り、日本を703年から記載し、白村江前後の経緯には全く触れていません。

あえて書かない(史書ではよくあること)理由があったかもしれませんね。

 

天武天皇は、古事記、日本書紀の編纂を命じていますが、壬申の乱以前の歴史はかなり改変されていると言われています。

 

古事記、日本書紀の初版が完成した時点では、まだ天皇の漢風諡号は定まっておらず、八世紀後半に淡海三船が選定したとされています。

 

然し、文武天皇の表記は、それ以前に記録されているようです。

文武は、唐の太宗「文武大聖大広孝皇帝」に倣ったのでしょうか?

 

また、聖武天皇は崩御の際、既に諡号が贈られていました。

「勝宝感神聖武皇帝」が正式な諡号で、明らかに唐に倣った長い諡号、そして皇帝を号しています。

次の孝謙天皇は即位の時点で「宝字称徳孝謙皇帝」と号しています。

 

天武、文武、聖武という、武則天(武氏)の血を引く?男帝に「武」の字が入っているのも、天武朝=武氏説の根拠になっているようですが

 

天武朝最後の男帝、淳仁天皇は廃された為、明治まで諡号がなく、淡路廃帝(はいたい)と呼ばれていました。

帝をテイと読まずタイと読むのは、隋の煬帝(ようだい)同様、悪帝とされていたからで、明治期に名誉が回復され淳仁天皇とおくり名されました。

逆に天皇として諡号が贈られていた神功天皇は大正期に皇后に格下げされています。当時は神功天皇=卑弥呼と考えられていたので、卑弥呼が中国の皇帝から王号を贈られているのはケシカラン((ヾ(≧皿≦メ)ノ))という理由があったようです。

 

隋に日出ずる処の天子として国書を贈ったアメノタリシヒコが天皇ではなく聖徳太子とされているのも、そんな理由かもしれません。

 

煬帝は「蛮夷の書、無礼なり」と断じていますが、煬帝は悪帝ですから、煬帝の方が礼を失しているとして書かれたエピソードかもしれません。

のち、裴世清が煬帝の使者として倭国を訪れた際、タリシヒコは「我は夷人にして、僻(かたよ)りて海隅に在り、礼儀を聞かず」と謙譲の意を示しており、儒教的には煬帝と対比して聖人である、という編者の意図も感じられます。

但し、契丹古伝によれば「夷人」は東族の自称のようなので、アメノタリシヒコノスメラミコトに謙譲の意があったかは定かではありません。

 

何れにしても、史書に記された背景というのは、様々な読み方があるので、自虐史観に偏らず、実は卑弥呼(神功天皇?)、アメノタリシヒコが中国の皇帝に対し一歩も引いた姿勢でなかったと考えても良いのでは?と思います。

ヤマトのスメラミコトは、東族の頂点に君臨し、中国に文明をもたらしたと…唐代あたりまでは中国にもそうした伝承が残っていたようですから。

 

淳仁天皇を最後に、天武朝の男系は絶え、天智天皇の男系子孫、光仁天皇に皇統が戻されています。

 

「光」のつく諡号は、後漢の光武帝に倣い、傍系から出た帝に贈られています。

皇統が天智系に戻ってからは江戸時代まで皇帝の諡号は使われなくなっています。

 

「光仁」「桓武」の二代で、当時は中国皇帝の中で最も偉大とされていた光武帝(秦の始皇帝贏政や魏の武帝曹操は漢民族の敵として蛇蝎の如く嫌われていた)に準え、平安京に日本文化が華開いていきます。

 

この頃の皇室が皇祖として伊勢神宮の天照ではなく宇佐神宮の神功応神を尊重していたことも、天照(=武則天)が傍系を示しているから、なのかもしれません