十柱の神々と十種ノ神宝についての考察

天保九年十月二十六日夜、教組に十柱の神々が次々と天下った。神々といざなみの命といざなぎの命との約束の年限が満ちた九億九万九千九百九十九年の時を経て人類の表に出現した出来事であった。しかし元の神、実の神は、それまでは十種ノ神宝を御神体とする布留の御霊として現れ、日の本や世界、そして人類を裏から守護していたのである。物部一族は地場が出現する以前、はるか縄文時代より現在の地場の地となっている日の本、生屋敷にてこの十種ノ神宝を大切に代々祀り継承していた。

 


高皇産霊尊が伊弉諾尊であり、神皇産霊尊が伊邪那美尊でありこの二柱が太古よりの祖神・天照大神であった。

石上神宮は往古、天上皇大神宮と呼ばれ、中御殿には国常立尊を天照大神宮として祀り、西御殿には伊弉諾尊である高皇産霊尊を天照大神として祀り、また他の十柱の神々もぞれぞれの御殿で祀り、日の本の信仰の中心地となり民を治めていた


排尾の山とは桃尾の山のこと

饒速日尊は神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされる。それは現在の天理市、桃尾の瀧を有する滝本の山(桃尾山)といわれている。滝本の山が別名ニギハヤヒ山といわれていたことからも考察できる。

 

十種神とは十種類の神々であり、その神々は十種ノ神宝に御鎮座し、その霊力で死者すら蘇ることができたといわていた。つまり、人間に身体を貸している元の神、実の神である十柱の神々のことであったのだ。天保九年十月二十六日夜、天理教組・中山みきに次々と天降った神々は、裏の守護から表に現れて、万委細の元を人類に教え始める御宣託のための出現であった。


桃尾山龍福寺は、真言宗高野山派に属し、十一面観音菩薩を本尊としていた。当時の伽藍は東西1,100m、南北660mと広大で、明治初年まで学侶方、行人方に分かれて十六坊あり、堂々たる山寺をなしていたが明治時代の廃仏毀釈で廃寺となった。

「桃尾寺記」によると、奈良時代(和銅年間)に義淵(ぎえん)僧正がこの地に至り、小堂を建てたのが始まりとされている。その後建立から約20年後の天平年間には行基が義淵の後を慕ってこの地を訪れ、堂塔を建立し、大伽藍を完成した。しかし、後にその堂塔も荒廃し、約80年後の天長年間に弘法大師が訪れてその様を嘆き、新しく精舎を興して真言密教の大道場に再興した。行基も空海も物部族縁故の地に出自をもつ。

 

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大和の三大名刹と呼ばれていた桃尾山龍福寺、現在あるのは大親寺と寺名を変更している。天皇制神話(支配体制神話)の神武東征神話である「古事記」「日本書紀」にあらわれた神道を国体とするため、神武東征に先立ち、饒速日尊が降臨したと伝えられてきた桃尾山の寺院は明治政府に特に念入りに徹底的に破壊され、魂振りの神とそれに連なる神道や寺院は弾圧、破壊の対象となった

 

 

 

石上神宮から徒歩15分ほどにある内山永久寺跡にある案内版から塔頭、鎮守社を含め70以上の建物が確認できる。礎石もなく、草木が生い茂る永久寺跡。多数の堂塔を擁し栄え、大和の日光とよばれた名刹であった。内山永久寺には、創建時からの建物が数多く残っていた可能性があり、存続していれば一大国宝群や世界遺産候補になっていたと今もなお惜しまれている

 

藤原後期以降多数の堂塔を擁し栄えた名刹であった。その後、延元元年(1336)に後醍醐天皇が吉野に遷幸の途次、一時この寺に立寄られた。下って文禄四年(1595)に豊臣秀吉から九七一石の寺領を与えられ、法隆寺の千石に匹敵する大寺であった。境内は五町四方の広大な地域をしめ(萱御所・後醍醐天皇仮御所)、その他の堂塔十四、内山の神社・拝殿五)坊舎五十二坊を有していたが、明治八年ごろ廃絶し、いまわずかに田園の中に当時の面影を残すに過ぎない。国家神道と天皇制を結びつけ民衆を支配しようとする明治政府は歴代天皇ゆかりの地も容赦なく破壊していった。仏も神も自分達の都合で愚弄してきた人間の浅はかな歴史の証しが、日本史上の一大汚点といわれている廃仏毀釈運動における内山永久寺の徹底的な破壊であった。

 

 

 

 

 

くにとこたちの命は釈迦如来、をもたりの命は阿弥陀如来、をふとのべの命は弘法大師等と転生していたのだ。それは魂振りの神の内、八柱の神々が仏となって各時代に現れ、民衆を正しき道に導いていたのであった。この驚嘆する事実を中山みきは天啓により弟子等に神仏一体の理由であると教示していた。しかし、その教祖の目前で新政権の神仏を恐ぬ蛮行が強硬された

新政権は、僧侶に対して「肉食妻帯勝手なるべし」と、わざわざ命令して、僧侶に戒律を犯させ、仏法の教えにいうところの「破戒」をさせようと企図したことは明白であった。僧侶は、ほとんど全員が神官や官憲になり還俗することを強制された。

経典は、町方で包装紙として使われるというゴミ同然の扱いを受け、塔や仏は薪にするために僧侶自ら叩き割り、売りに出され、多くの宝物は、混乱に乗じた略奪等によって散逸し、二束三文で町方に出回ったといわれている。

明治政府は文明開化を掲げ、尊皇攘夷と連呼しつつ、権力を得るために天皇を利用し、権力保持のため国家神道を国民に強制した。

 

それまで仏教を信仰していた天皇家を天照大神の末裔と称し現人神に祀り上げ、渡来人である藤原氏一族が自らの正統性を担保するため、神代文字で残されていた各部族や神社に伝承されていた古史古伝を、権力維持のために利用できる箇所を漢文で翻訳し編纂した日本書記等を再利用した焼き直しが明治維新の本質であった。

松尾芭蕉も多数の堂塔と桜が織りなす大和の日光とうたわれた名刹を訪れ、「うち山やとざましらずの花ざかり」と名句を残した

この内山永久寺跡にたたずむと明治七年十二月、人類の母親・いざなみの命が転生した中山みきが、何故、歴代皇女が入寺していた山村御殿での皇族らとの話し合いより帰宅されてから全身に月日の社を強調する赤衣をまとい、元の神、実の神の教えを時の権力に迎合して曲げることを一歩も許さず、最後まで御神命を貫き通し帰幽されたのか。

文明開化、尊皇攘夷とラッパを吹きながら、なぜ先の世界大戦へと新政府が国民を崖っぷちへと道へ導いていったのか。

現代では人類が管理制御すらできない原発や核兵器、遺伝子組み換えの技術を利用したコロナウィルス生物兵器、遺伝子組み換えワクチンや食品など、権力と学問を使う者が本来持つべき心の置き所、守るべき人道の基準はどうあるべきなのか、自ずと心から理解することができる。