中野市兵衛と長滝の郷

天理教教祖となった中山みきが長男秀司の足痛のためこの長滝村修験者であった中野市兵衛の病状回復の祈願を頼みに行き、また自身も熱心に修行をされた場所、長滝村について探訪した。

 

長滝村に行く途中には、桃尾の滝から更に登ったとところに天理市の水瓶、天理ダムが広がっている。公園や遊び場もあり、天理市民の憩いのスポットでもある。


その天理ダム左側の道を更に進んでいくと、二股にわかれた道に左側に長滝の郷の看板、そこから少し登ったところに中野市兵衛の住んでいた長滝村がある。

 

市兵衛は、石上神宮の神宮寺である内山永久寺の配下の山伏であり、且つ西の日光と云われる大峯山を行場とする修験者の一人であり、権僧都阿闍梨理性院聖誉明賢法師の法号を持ち、当時46才の壮年であった。大峯山十二先達の一人として名声高く、殊に加持祈祷の法力においては、大和、伊賀十里四方にこの人と肩を並べる者のないという評判の者であった。

そまま進んでいくと左側に九頭神社に行く道があり、その坂の左側、丁度石垣の上にある家が中野市兵衛が住んでいたところだ。現在は家屋を継ぐものがなく、空き家となっている。

写真右側の家が中野家、跡継ぎの方は現在別のとこに住んでおられるという。

 自宅門の表札に中野の表札があった。

みきは神懸かりする前年天保8年より、この中野市兵衛に長男秀司への祈祷を何度も頼んでおり、またこの時みきは同方に49日の御こもりをするなど相当頻繁に通いつめていた。(復元30号17頁)。つまり、みきはこの長男の祈祷を通して、大峰山の修験者の先達であり、石上神宮寺で内山永久寺配下の山伏であった中野市兵衛の思想形成になっていた山岳信仰、神仏習合、縄文哲学に一番近いといわれる教えを学んでいた。

 更に大峰山12先達として、日輪天女降臨の太柱が立つといわれる大秘法「柱源神法(はしらもとかみののり)」の修法を市兵衛よりその思想をも学んでおり、みきの心が天に届いていたため、市兵衛はみきに加持祈祷の代役を任せることができ、天保9年10月23日よりその寄加持台の代役を勤めるにいったのである。


教祖の市兵衛を語る逸話「みちのだい叢書より(その九)②より

 

「教祖様は”三島は宿屋まち”と仰せになったそうで、祖母もいまの詰所の前身とも言うべき宿屋を開業されましたが、それも重吉祖父は専ら好んで百姓をされましたので、祖母は当時まだ十六才になったばかりの慶太郎舅(ちち)をこよなく頼りにされ、家事一切の相談をなされたそうでございます。余談になりますが、舅は生れた時、特別小さく、教祖様は『長滝村の市兵衛さんがかえったのやで』と仰ってよく懐に入れて外出されたそうでございます。祖母はこの長男である舅を特別頼りにし、尊重して育てられたのだそうでございます。それでは常々きかして頂いた祖母の話を断片的に書かせて頂きます」。

                                                            

 

 

 

この中野家の更に20mほど登った場所い九頭神社がある。中野家もこの神社の役員を勤めており、中野市兵衛もこの神社に参拝されていた。

 

後部の磐座が御神体である。

中野家代々九頭神社の役員でったようだ。

村民が寄進した石塔

石塔の左下に中野市三の文字、明治五年、中野市兵衛のご子息が寄進されていた。