白村江の戦いの“信じがたい真実”…なぜ倭国軍全滅の戦争を起こしたのか?

 米ブラウン大学ワトソン国際公共問題研究所が昨年11月発表した調査結果によると、2001年9月11日の米同時多発攻撃を受けて始まった米国の「テロとの戦い」によりイラク、アフガニスタン、パキスタンで発生した暴力による民間人を含む死者が計約50万人に達した。

 

 昨年12月20日、米国の複数メディアがトランプ米政権はアフガニスタンから米兵数千人の引き上げを計画中と報じるなど、ようやく戦線縮小の兆しも見える。しかしこれまで払った犠牲はあまりに大きいし、「テロとの戦い」を掲げる海外軍事介入がいつ終わるのかもなお不透明だ。

 

 倭国と呼ばれた古代の日本も、海外で軍事介入に乗り出して大敗し、膨大な犠牲を払った苦い経験がある。白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いだ。

 

 朝鮮半島では655年、高句麗(こうくり)と百済(ひゃくさい、くだら)が連合して新羅(しんら、しらぎ)に侵攻し、新羅は中国の唐に救援を求める。唐の高宗は660年、まず百済に出兵してその都扶余を落とし、義慈王は降伏して百済は滅亡したが、各地に残る百済の遺臣たちは百済復興に立ち上がり、倭国に滞在していた百済の王子豊璋(ほうしょう)の送還と援軍の派遣を要請してきた。

 

 女帝の斉明天皇と息子の中大兄皇子(のちの天智天皇)は大軍派遣を決定。661年、中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫(現福岡県)に出征し、同地で斉明天皇が死去した後は天皇の座に就かないまま戦争を指導する。662年に軍を渡海させるが、翌663年、朝鮮半島西岸の白村江で唐・新羅の連合軍に大敗した。これが白村江の戦いである。

 

 白村江で唐・新羅連合軍は倭国水軍と4度戦い、倭国の船400隻を焼き払った。その煙と炎は天を覆い、海が赤く染まったという。唐の軍艦が陣を敷いていたところに、次から次へと倭国の兵が突撃し、両側から挟み撃ちにあって、多くの兵が溺死した。数万の軍はほぼ全滅だったとみられる。

 

 わずかながら帰国した兵や捕虜となった兵の記録が残っている。白村江とは別の新羅戦線に進軍した兵士たちとみられる。命こそ助かったものの、大変な辛苦をなめたようだ。

 

奈良時代の歴史書『日本書紀』によると、大伴部博麻(おおともべのはかま)という筑紫国の農民兵が690年に帰国した。あるじの豪族4人とともに唐軍の捕虜になったが、自分の身を売って奴隷になり、その金であるじを先に帰国させる。本人が帰国を果たしたのは白村江の戦いから27年も後だった。

 また、平安時代初期の歴史書『続日本紀』によると、讃岐国(現香川県)出身の錦部刀良(にしごりのとら)ら元兵士4人が白村江の戦いから実に44年後に帰国する。唐で賎民に落とされていたが、日本から来た遣唐使に偶然出会い、運よく連れて帰ってもらうことができたという。

 

 こうした幸運な例を除けば、捕虜となった人のほとんどは異国の地で亡くなったとみられる。

 

戦争に負けても構わない?

 倭国軍はなぜ敗れたのか。多くの歴史書では、唐軍が国家軍で、訓練されて統制のとれた軍隊だったのに対し、倭国軍は豪族軍の寄せ集めで、地方豪族が配下の農民を徴発して連れて行っただけだったことが敗因とされる。

 

 唐の国家軍は上下の統制、横の連絡が取れ、日常的に訓練を受け、作戦の浸透が迅速だった。一方、倭国軍は豪族同士の連携や連絡がなく、おそらく兵に武器も行き渡っていなかった。攻撃の練習くらいはしたかもしれないが、もともと農民だから、実際の戦場では戸惑うばかりだったと思われる。

 

 敗因に関するこの見方は、それなりに納得できるものだ。しかしそうなると腑に落ちないのは、なぜそのような無謀な戦争に乗り出したかである。豪族軍の寄せ集めでは唐軍に太刀打ちできないことくらい、事前にわかっていたはずと思われるからだ。

 

 日本史の教科書では、中大兄皇子は古くから交流のある百済を復興して朝鮮半島における倭国の勢力を挽回しようと考え、派兵を決断したと書かれている。だが、本当にそうだろうか。

 

 歴史学者の倉本一宏氏は、中大兄皇子が派兵に踏み切った時期は百済の遺臣たちが唐の進駐軍に対し各地で勝利を収めており、今から見れば無謀に思えても、当時の情勢としては勝つ可能性もあったと述べる(『戦争の日本古代史』)。そのうえで、派兵に別の目的があった可能性を指摘する。

 

 その目的とは、戦争に負けても構わないから、それを国内政治に利用することである。

 

 中大兄は645年の乙巳の変で蘇我氏本家を滅ぼし、大化改新と呼ばれる一連の政治改革で、天皇を中心とする中央集権国家の建設に着手している。戦争に負ければ、唐や新羅が倭国に攻めてくるとの危機感を煽り、国防を固めるため国内の権力を天皇に集中せよと主張しやすくなる。

軍事色の強かった奈良時代前夜の日本

 倉本氏はさらに一歩進め、派兵の真の目的について大胆な説を提示する。

 

 中央集権国家の建設を目指す中大兄にとって、一番の障碍になっていたのは、伝統的な権益を守るため、中央政府の命に容易に服そうとしない豪族だった。そうであれば、邪魔な豪族を戦争に送り込み、死なせてしまえばいい。突拍子もない考えに思えるかもしれないが、こういう考えは中国では「裁兵」といい、古来からあった。征服した国の将兵は反乱を起こしかねないので、負けてもいい戦いに投入して始末するのだ。

 

 事実、白村江の戦いから9年後に起こった内乱、壬申の乱では、白村江の戦いに参加した豪族の名はほとんど見られないという。

 

 白村江の戦いの後の668年、中大兄は正式に即位して天智天皇となり、中央集権化を急ぐ。670年には最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)が作成され、徴税と徴兵が行いやすくなった。白村江の戦いで地方豪族の勢力が大幅に削減されたことから、中央権力がかなりの程度、地方にまで浸透していく。

 

 もし朝鮮半島に大軍を派兵した真の目的が、戦争に勝つことよりも、地方豪族の勢力を弱め、中央政府の権力基盤を強化することだったとすれば、そのもくろみは思惑どおりに成功した格好だ。

 

 しかし、それが一般庶民にとって良いことだったとはとてもいえない。兵となった多数の農民が白村江や朝鮮半島の戦場で命を落とし、生き残った人も多くは異国の土となった。

 

 天智天皇の死後、壬申の乱を経て、奈良時代前夜の7世紀末、天皇と官僚を中心とする中央集権国家は完成に近づく。当時、北東アジアは平和を迎えていたにもかかわらず、戦争への危機感を煽って建設されたことを反映し、極めて軍事色の濃い国家となった。この中央集権国家の下で、庶民は苛酷な税や兵役に苦しむことになる。

文=木村貴/経済ジャーナリストニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2019/01/post_26492.htmlCopyright © Business Journal All Rights

 


白村江海戦の謎~戦ったのは大和朝廷ではなかった?~ 北村浩司 ( 壮年 広報 )18/09/27 AM00

○白村江海戦の謎
663年、白村江河口の海戦において倭軍は壊滅的な敗戦を喫し、支援していた百済は滅亡した。この結果、朝鮮半島南部(現在の韓国)は新羅の支配するところとなり、新羅と唐の同盟軍に挟み撃ちされる形となった高句麗も、5年後に滅亡することとなる。
この時代の東アジア、特に朝鮮半島の情勢は、「唐・新羅連合」対「高句麗・百済・倭国連合」の勢力争いであった。この争いが唐・新羅連合軍の完勝に終わったということである。
従って、敗戦国である百済・高句麗は国自体が消滅してしまった。問題はなぜ、日本だけが国として存続し、かつ、不可解にも戦争時点で軍最高司令官であるはずの中大兄皇子が敗戦後も国家元首(天智天皇)に就任することができたのかということである。
天智天皇については、もう一つの疑問がある。日本書紀によれば、天智天皇の業績に特筆すべきものはない。それどころか国力を傾けた百済支援は白村江の大敗によって、投下した兵力・武器・兵糧、つまり人材と資本をすべて失った。教科書的には、646年の大化の改新が挙げられるが、これは明治維新で初めて命名された(それまでは、乙巳の変と呼ばれていた)もので、公地公民が実施されたのは実際は670年以降である。つまり、実際は天武・持統以降である。
にもかかわらず、後の平安時代以降の天皇はすべて天智天皇の子孫であり、藤原氏も天智天皇の血筋である、という説もあるくらい、後の世において天智天皇は特別視されている。

本来であれば、天智天皇を「戦争責任者」として連行してもおかしくない唐・新羅も、日本書紀を見る限り丁重な態度であるし、実際に戦争責任を問題にしていないことは、遣唐使がほどなく復活し、遣唐使復活以前にも唐・日本間の交流(捕虜の返還など)があったことからも明らかだ。
以上の状況、つまり、日本国内において特別視されていること、かつて戦争した国から責任を問われていないこと。これらは、白村江の戦いの意味を考えれば、教科書に書かれている歴史には大いに矛盾を感じざるを得ない。

○白村江を戦ったのは日本ではなく倭国ではないか
ところが、唐の国書である旧唐書には、白村江の海戦までは、倭国に関する記事と日本国に関する記事が並立している。倭国は、かつての邪馬台国であり、さらに遡って後漢の時代に朝貢した倭奴国である、とされており、一方日本国は、「倭国の別種」とはっきり書かれている。つまり、倭国と日本は別の国として認識されている。
そして、白村江の海戦以降、「倭国」に代えて「日本」を国の正式な称号として認め、日本国天皇を承認している。その後、倭国に対する記述は登場しない。

これらの流れを、合理的に説明しようとすれば以下の仮説が成立するのではないか?
1.倭国と日本は別の国(勢力)であり、唐・新羅と戦ったのは倭国である。
そして倭国は戦争責任を取らされ、滅ぼされた。
2.唐・新羅が天智天皇の「日本」を優遇した(あるいは認めた)のは、白村江の戦いに参加しなかったからである。おそらく天智天皇は、白村江以前から唐・新羅と内通していた。
3.後世に評価される、天智天皇の最大の業績は、「倭国」から「日本」へ、日本列島を代表する政権を移したことにある。

日本書紀は680年から720年にかけて日本の正史として編纂されるが、書紀の大前提は、「万世一系の天皇家が、日本列島を代表する唯一無二の政権である」ということだから、天皇家以外の政権があったとしても「なかった」と書かなければならない。中国の史書を読めば天皇家ではない政権が歴代王朝に朝貢しているのは明らかなのに、それらの政権については書くことができなということではないだろうか?
そして、天皇家以外の政権はなかったという前後のつじつまを合わせるためには、前世代の政権から日本列島の支配を奪った天智天皇の最大の業績を、そのまま書くことはできなかった。だから、大化の改新については過大評価するし、後の時代にも特別視されているということではないだろうか。

 

壬申の乱

壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[注釈 1])に起こった古代日本最大の内乱である。

天智天皇の太子・大友皇子(1870年(明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱であった。

名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。

660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子に立てていたが、天智天皇10年10月17日(671年11月23日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家を申し出て、吉野宮(現在の奈良県吉野町)に下った。そして天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れたとされる。

12月3日(672年1月7日)、近江宮の近隣山科において天智天皇が46歳で崩御した。大友皇子が後継者としてその跡を継ぐが、年齢はまだ24歳に過ぎなかった。大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月24日)に吉野を出立した。まず、名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得ることに成功した。続いて伊賀に入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500で参戦した。そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流した(鈴鹿関で合流したとする説もある)。この時、大海人皇子は近江朝廷における左右大臣と御史大夫による合議のことを述べているが、大海人皇子は近江朝廷が既に破綻していたことを把握していたと考えられる[1]。さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日(7月31日)に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。

近江朝廷の大友皇子側は、天武元年(672年)6月26日には、大友皇子が群臣に方針を諮ったとあるが、近江朝廷の構成から考えて、その相手は左右の大臣と3人の御史大夫のみであり、既に大化前代以来のマヘツキミ合議体はその機能を完全に喪失していたと見られる[2]。群臣の中の4人の重臣(中臣金以外か)は、諸国に使節を派遣して農民兵を徴発するという、当時の地方支配体制の成熟度からは非現実的な方策を採択したことになる[3]。結局、東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。特に筑紫では、筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に出兵を断ったのだが、大友皇子はあらかじめ使者の佐伯男に、断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。が、栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため、暗殺できなかった。それでも近江朝廷は、近い諸国から兵力を集めることができた。7月2日(7月31日)には、近江朝廷の主力軍が不破に向けて進軍したことが見える。しかし、内紛を起こし、総帥的立場にあった山部王が蘇我果安と巨勢比等に殺され、果安も後に自殺した[4]。また、蘇我氏同族の来目塩籠は「河内国司守」として近江朝廷軍を率いていたものの、不破の大海人皇子軍に投降しようとして殺されている[5]。

大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍はたびたび敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して、吹負の窮境を救った。

近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。大海人皇子方と近江方を区別するため「金」という合言葉を用いた。[6]村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、7月7日(8月8日)に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して箸墓での闘いでの勝利を経て進撃を続けた。7月22日(8月20日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日(8月21日)に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。美濃での戦いの前に、高市郡に進軍の際、「高市社の事代主と身狭社に居る生霊神」が神懸り「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と言いそうすせれば大海人皇子を護ると神託をなした。[7]翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。

近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。

また論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。
乱の原因

壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。


皇位継承紛争

天智天皇は天智天皇として即位する前、中大兄皇子であったときに中臣鎌足らと謀り、乙巳の変といわれるクーデターを起こし、母である皇極天皇からの譲位を辞して軽皇子を推薦するが、その軽皇子が孝徳天皇として即位しその皇太子となるも、天皇よりも実権を握り続け、孝徳天皇を難波宮に残したまま皇族や臣下の者を引き連れ倭京に戻り、孝徳天皇は失意のまま崩御、その皇子である有間皇子も謀反の罪で処刑する。以上のように、中臣鎌足と少数のブレインのみを集めた「専制的権力核」を駆使して2人による専制支配を続けた結果、大友皇子の勢力基盤として頼みにすることができる藩屏が激減してしまった[8]。また天智天皇として即位したあとも、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指すなど、かなり強引な手法で改革を進めた結果、同母弟である大海人皇子の不満を高めていった。当時の皇位継承では母親の血統や后妃の位も重視されており、長男ながら身分の低い側室の子である大友皇子の弱点となっていた。これらを背景として、大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、それまでの反動から乱の発生へつながっていったとみられる。


白村江の敗戦

天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵し、新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済遺民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子が天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。
額田王をめぐる不和

天智天皇と大海人皇子の額田王(女性)をめぐる不和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は、『万葉集』に収録されている額田王の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推察した。
異説・俗説


新羅の歴史(新羅の高官はいつ日本に入ったか?)  田野健

新羅の歴史は不思議である。その歴史はまさに虎の威を借りた猫である。

三韓の発展形として国家に変遷したのであるが、文化的にも制度的にも最も遅れていた新羅が2世紀余りの間に半島を統一する国家に成長した。
唐、高句麗、百済という強国の中央に位置していながら、互いの利害を風見鶏のごとく利用し同盟国を乗り換えることで結果的に強国高句麗にも勝利する。また新羅はその成立過程からすでに高句麗の属国ともいえ、高句麗の人、文化との交流がかなりあったものと思われる。
百済と日本、新羅と日本の関係を見ていく場合、一旦この新羅の歴史の特殊性を押さえておく必要がある。

①【新羅の発生~高句麗の属国?】
新羅は辰韓の発展により4世紀初めに建国。同時に百済、伽耶も国に発展していく。4世紀末には勢力を増した高句麗の影響下におかれる。

②【新羅建国~百済と手を結ぶ】
高句麗の影響下で新羅は国力をのばすと高句麗と対抗していた百済と同盟を結ぶようになった。五世紀後半には新羅―百済で高句麗と対抗するようになる。6世紀には正式に新羅を名乗り当事者が王を名乗る。王は世襲制に変わって、安定してくる。法興王(514-540)のときに律令制を整え、中国北部の遼と関係を結び、仏教を公認した(532)。受容までかなり時間がかかったようで、百済や高句麗に比べて、三国の中ではもっとも遅く、日本に仏教が定着した550年頃までかかる。

③【三国の緊張関係】
百済が高句麗から奪い返した漢城を新羅が奪うことで、百済、高句麗、新羅の三国は決定的に対立するようになった。こうした中、新羅は伽耶を滅ぼしたり朝鮮半島北部の咸興平野までその領域を広げたが、566年に中国北斉に冊封された。

④【朝鮮半島統一~唐と手を結ぶ】しかし、新羅は泰安半島を支配したことにより、中国との交易路ができあがった。さらに善徳王(632-647)の時に三国統一の動きが始まった。百済との対抗が山場になったときで、金春秋(後の武烈王)を日本や高句麗に派遣して協力を求めたが、両国とも拒否したため唐に援軍を求めた。唐は高句麗を滅ぼしたかったので、新羅と結ぶことで南北から高句麗を挟むことができた。武烈王と次の文武王(661-681)の時に三国統一が行われ、唐との連合によって百済(660)、高句麗(668)が滅ぼされ、日本と百済が行った白村江の戦いにも勝利した(663)。

⑤【日本制圧、唐との戦争~停戦】
新羅の勝利で、百済・、高句麗から日本へは大量に人が渡来し、日本は新羅、唐に備えて急遽朝鮮式の山城を築くなど臨戦態勢に入った。唐は百済、高句麗を支配し、引き続き新羅を支配しようとしたので、新羅は671年、唐と戦争を行った(羅唐戦争)。しかし、唐は新羅を攻めきれず、676年新羅と唐が停戦した。

⑥【新羅の発展・栄華~高麗に敗れる】
新羅が三国を統一したことで、華やかだった百済文化の影響を受けて新たに発展した。特に仏教や儒教が発達した。935年高句麗の末裔である高麗に滅ぼされるまで270年間余り朝鮮半島を統一した。

※上記の年号を見ていくと日本と新羅の出来事に微妙な関連がある。
新羅が百済660ー高句麗668-日本663-唐671-676と戦争を繰り返す中、日本でも天智661-671 ⇒天武673-686と天皇が移行している。

白村江663の戦いの後、唐と新羅は九州に7年間(663-670)2000人の軍兵を置いて日本を監視している。大量の貢物を唐に贈る事で九州の攻撃を未然に防いだが、天武天皇はその3年後に即位している。あたかも唐が引き上げる条件として天武を唐の大使として日本に残したのでは?と伺わせる年号である。

また壬申の乱672は新羅が唐と戦った翌年に起こっている。
新羅が唐と戦乱を起こしている間を狙って天智天皇が天武勢力を解体するために壬申の乱は起こされたのではないか?
天武=新羅の高官説?はこの辺りからも浮上してくる。


天武天皇について

宗教政策

 

神道

天武天皇は日本古来の神の祭りを重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げた。神道の振興は、外来文化の浸透に対抗する日本の民族意識を高揚させるためであったと説かれる[79]。だがその努力は各地の伝統的な祭祀をそのまま保存することではなく、天照大神を祖とする天皇家との関係に各地の神を位置づけ、体系化して取り込むことにあり、究極的には天皇権力の強化に向けられていた。それぞれの地元で祀られていた各地の神社・祭祀は保護と引き換えに国家の管理に服し、古代の国家神道が形成された。

 その際、天武天皇は伊勢神宮を特別に重視し、この神社が日本の最高の神社とされる道筋をつけた[80]。壬申の乱のとき、挙兵して伊勢に入った大海人皇子は、迹太川のほとりで天照大神を望拝した。具体的には伊勢神宮の方角を拝んだことを意味すると考えられている。

 即位後の天皇は、娘の大来皇女を伊勢神宮に送り、斎王として仕えさせた[81]。4年2月13日には娘の十市皇女と天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)が伊勢神宮に参詣した。伊勢神宮の式年遷宮開始年については天武天皇14年(685年)と持統天皇2年(688年)の二通りの本があるが、いずれにせよ天武天皇の発意であろう[82]。また、伊勢神宮を五十鈴川沿いの現在地に建てたのは天武天皇で、それ以前は宮川上流の滝原宮にあったと推定されている[83]。

そもそも天照大神という神を造り出したのが天武天皇であるという説もある。無から創作したというのではなく、伊勢地方で祀られていた太陽神を、天皇家が祀っていた神と合体させて天照大神としたという説である[84]。これについてはタカミムスヒが旧来の皇祖神で、天武天皇がアマテラスに取り替えたという説もある[85]。斎王は、雄略天皇から推古天皇のときまであったと『日本書紀』『古事記』に記されているが、これについても実は大来皇女が最初なのだとする説がある[86]。

 他に、天武天皇3年(674年)8月3日には石上神宮に忍壁皇子を遣わして神宝を磨かせた。天武天皇4年(675年)4月10日には、竜田の風神を祀るために美濃王らを、広瀬の大忌神を祀るために、間人大蓋らを遣わした。後世まで両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされる[87]。この年1月23日に諸々の社を祭ったのを、祈年祭の始まりとみる説もある[87]。
仏教

天皇の仏教保護も手厚いものがあった。即位前には出家して吉野に退いた経歴を持つ。即位後、2年(673年)3月に川原寺で一切経書写の事業を起こした。5年(676年)には使者を全国に派遣して『金光明経』と『仁王経』を説かせ、8年(679年)には倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせた。『金光明経』は、国王が天の子であり、生まれたときから守護され、人民を統治する資格を得ていると記すもので、天照大神の裔による現人神思想と軌を一にするものであった[88]。本人・家族の救済ではなく、護国を目的とした事業である[89]。

天武天皇2年(673年)12月17日に、美濃王と紀訶多麻呂を造高市大寺司に任命し、百済大寺を高市に移して高市大寺とした。9年(680年)11月12日に皇后の病気に際して薬師寺建立を祈願し、自らの病に際しても様々に仏教に頼って快癒を願った。

天武天皇14年(685年)3月27日には、家ごとに仏舎を作って礼拝供養せよという詔を下した。「家」がどの程度の人数の単位なのかは不明で、有力豪族ごとに一つと解する説のほかに、「諸国の家」を国衙と解して国ごとに一つと解したりする説があるが[90]、仏教を広めようとしたのは間違いない。この時期まで畿内を除く地方に寺院は少なかったが、天武・持統朝には全国で氏寺が盛んに造営された。遺跡から出る瓦からは、中央の少数の寺院が地域を分担して建設を指導したことがうかがわれ、政策的な後押しが想定できる[91]。

天武天皇の仏教保護は、反面、僧尼に寺院にこもって天皇や国家のための祈祷に専念することを求め、仏教を国家に従属させようとするものでもあった。国家神道に対応する国家仏教である[92]。天武天皇4年(675年)に諸寺に与えられていた山林・池を取り上げ、8年(679年)には食封を見直して寺院の収入を国家が決定することにした。

中央統制機関としては、推古朝に設けられ十師によって廃止された僧正・僧都を復活して僧綱制を整えた[93]。加えて天武朝では僧尼の威儀・服装まで規制し、すべての寺院と僧侶を国家の統制下に置こうとするころまで国家統制が強まった[94]。

天皇の仏教理解、姿勢については、現世利益を求めた皮相的なものと説かれることがある。天皇が命じて読ませたのは護国の経典で、個人の救済が重視されたようには見えない[94]。天皇個人が仏教に求めたのは、皇后と自身の病気治癒で、仏教の自我否定や利他の思想を実践しようとするものではなかった[95]。
道教

天皇の宗教観には道教の要素が色濃く出ている。「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神、つまり仙人の上位にいる存在であったとの説がある[96]。八色の姓の最上位は真人であり、天皇自身の和風諡号は天渟中原瀛真人という。瀛州は東海に浮かぶ神山の一つ、真人は仙人の上位階級で、天皇も道教の最高神である[4]。天皇が得意だった天文遁甲は、道教的な技能である[97]。葬られた八角墳は、東西南北に北東・北西・南東・南西を加えた八紘を指すもので、これも道教的な方角観である。

道教への関心は天武天皇だけのものではなく、母の斉明天皇に顕著であり、天武没後も続く。天武天皇の、そして日本の道教は、神道と分かちがたく融合しており、独立には存在していない。影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれる。

人物像

天武天皇は、宗教や超自然的力に関心が強く、神仏への信仰も厚かった[98]。『日本書紀』には天文遁甲をよくするとあり[99]、壬申の乱では自ら式をとって将来を占ったが[100]、これらは道教的な技能である。『古事記』は、天武天皇が夢の中の歌を解き、夜の水に投じて自分が皇位につくことを知ったと記す[101]。

『日本書紀』では、壬申の乱のときに式をとって占い天下二分の兆しと解き[102]、また天神地祇に祈って雷雨を止ませたという[103]。占いも神助も現代の学者のとるところではないから、諸学者はこれらを天皇の権謀とみたり[104]、偶然の関与とみたりするが、このような予言者的能力によって天皇は神と仰がれるカリスマ性を身に帯びた[105]。即位後の政治にも宗教・儀式への関心が伺えるが、占いの活用や神仏への祈願で自らの目的を達しようとする姿勢が強い。

天武天皇の和歌は、蒲生野で額田王と交わした恋の歌、藤原夫人と交わしたからかい交じりの歌、吉野の「よし」を繰り返す歌、そして吉野の道の寂しさを歌う暗い歌が伝わる。漢詩を作ったとする史料はない。学者には伝えられていないだけとする人もいるが[106]、ここに彼の趣味嗜好を見る人もいる[107]。天武天皇の趣味は無端事(なぞなぞ)のように庶民的なものがあり[108]、天武天皇14年(674年)9月18日に大安殿で博戯(ばくち)の大会を開くといった遊侠的なものさえあった[109]。「#文化政策」で挙げた各種芸能者への厚遇も、天皇の好みと無関係ではないだろう。こうした側面に、民衆(より具体的には地方豪族層)の心をとらえるものがあったかもしれない[110]。

文暦2年(1235年)の盗掘後の調査『阿不之山陵記』に、天武天皇の骨について記載がある。首は普通より少し大きく、赤黒い色をしていた。脛の骨の長さは1尺6寸(48センチメートル)、肘の長さ1尺4寸(42センチメートル)あった。ここから身長175センチメートルくらい、当時としては背が高いほうであったと推定される[111]。藤原定家の日記『明月記』によれば、白髪も残っていたという[112]。