八柱神人間に入込日々の御守護

男神五柱は人間に取て男の理、一家に取ては夫の理。女神五柱は女に当る、一家に取ては嫁の理。しかし月日二神は人間に取ては総て主宰者辛故親主君或いは親方とか一家に取ては主人主婦父母等。人間のする事は一つもない皆神様なり、男神は男に入込み女神は女に入込み世界も身の内も同一に御守護下さる皆人間の自由用が神の自由用御働きである。神様と身の内と別々に思うて居ては天理は分らぬ。神は身の内に御座るなり。神様と身体を一つに考えされば悟り諭しは明らかに分らん。

 

一日の刻限にては午前二時丑の刻より寅卯辰巳午の刻迄八つ七つ六五四九つ女神様。人間に取て女に当る。午後二時未の刻より申酉戌亥子の刻迄八つ七つ六五四九つ男神様。故男の理也。(尤も目上目下内外等細かい処は別項参照)夜九つ子刻月様一年に取れば冬至丑八つ冬の土用、大寒大食天尊卯刻明け六つ春彼岸辰刻五つ春土用昼九つ午刻日様夏至未八つ夏の土用大暑かしこ根の尊、酉刻暮六つ秋彼岸戌刻五つ秋土用皆八社の神。人間も同一

 

一代に取ては生れて五年間子国常立尊。六才より十五才迄丑寅大食天尊、十六才より二十才迄卯雲読尊。二十一才より三十才迄辰巳国狹槌尊。三十一才より三十五才迄午面足尊。三十六才より四十五才迄未申かしこ根の尊。四十六才より五十才迄酉大戸邊尊。五十一才より六十才迄戌亥月読尊、皆八社の神人間も同一也。身の内は神様の物で有ると云う事が確かに分って腹に入れて居たら諭しは誠に容易なものである。

 

又我一人の身と云う小さい事に楽しむと云うは一代の苦しみ通りて居るも同じ事、世界を見て楽しむ親様の御心伺うて楽しむという、どれ丈大きいとも高いとも分らん、我が身は十分という心定めて堪能せにゃならんが道は十分と思うたらころりと違う、どうしても親様の思召しの処迄と云うどうでもこうでもしきりた日に遅れぬ様刻限に違わぬ様と云う是れを心に掛け楽しむと云う心なくばならん人間は目先の楽しみ日々食う事着る事又色々むさくろしい事を深く楽しんでどうもならん不足を思う故楽しみ深く感ずる。

 

例えば日々食う事に不足/\思うて居る者程食う事に深く楽しみ持つ又深く味わいを感ずると云う様なもの世の中に塩は塩の味と云う、味噌は味噌と云う塩は塩でよいのや塩が味噌と同じであれば間違うているのや、どちらが嘘で迷うて居る如し、それはそれ丈の事にして其の様を重きに置いて通ればよいそれを用よりも体体よりも想相よりも美と云う味と云う肝心の用が分らんようになる。

 

甘い物と云うと食い過ぎるが如く世の中の物何が一番結構か楽しみかと云う食物が楽しみと云う、それ段々貪りて見よ物に味あろうまい美食で飽きてとんと楽しみなく通りている者もあればまづい物でもおいしいと楽しんで居る者もある。

 

此れどちらが食事を楽しみしているか酒かと云うて酒につかりて勤めて居る者に取っては楽しみにして居らん其心と水飲んであゝ息ついたと云うて居るのとどちらが飲んで楽しみが有るか又色と云うて人間はつまらぬ一時の楽しみに心取られて命迄捨てる者有るかと云えば是を勤めている娼妓如きは何程苦しき事に思うているが如し。

 

すれば物に別はない又同じ心の理は八つ同じ身体で万人同じものなら一つ味と云う身上に別もない只心一つの治め方ばかりや。世上どんな物も眺めて見ればどんな堪能もつくと云う又堪能真から治めたら不足と云う心も起らぬ、別に望む心も出ぬ望まねば別に深くも感じぬ之れは之れの味と云うだけのもの楽しみとも苦しみならん。是れでなくてはならん、只天の拵え御与えの御心を喜ぶだけになる凡夫と云う物に楽しみある様思う者は物だけのもの、何程結構な物と云うても我に持っている心の理に依ては楽しみとならん事が分らん。

 

天の御心尽くしの理が分らん。金も砂の如く数あれば大切でない酒も水の如く多ければ大切と思うまい水も酒の如くせねば取れぬ物とすれば酒の価する、物より楽しみないと思うが凡夫真の楽しみを知らん者は其場/\だけのもの続かん様な楽しみ、酒を飲む飲んだら酔う酔うたら入らん入らんとなったら酒の楽しみあろうまい花を見る見たら一時楽しむ何程も見れば飽ける飽けたら花は楽しみとならんそれなら何が心に心から楽しい真かも嬉しい面白いと云う何が切れ目ないかというめい/\名が楽しみか誉められるが楽しみか、好き嫌い、此心は何処から出るか一つの癖とも云うめい/\因縁心とも云う。

 

人に可愛がられて好く者もあり人に立てて貰うて好く者もあり是れは十人/\皆違う中に高慢の人は可愛がられて喜ばんかわり立てられたら何よりの妙味を感ずる是れ高慢心有る故である。親様の御心はどうして貰うて喜ぶと云うでなく立ててくれはめい/\立てられる理を拵え共に理が賑やかになるで楽しみ給う何もめい/\にどうこう望み給うのやない思う理を返して下され返せば楽しいやろうそこで誠結構と心計る其心の喜ぶ理を見ようと云うより外に御心はない。

 

親様は人間に心一つを授け万物は親様の物それで心を受け取りて物を与え下さる是れ物に天の心の籠りたる御心ひとつに依りて天より如何なる事も自由用というそこで心一つを天へ供えて通る程誠はなし楽しみはなし心一つに日々恋しいと云う日々親の理を真から奉る心。

 

借り物が分れば心一つより我はあろうまい、神の魂云うても理を分けて八柱と云うて理は天の心天の力というて別に天より働いて居る働きは皆月日様の光月日様の力なり。日々互い互い助け合いと云う互いに人の為を思う人の楽しみ見て楽しむと云う心より誠はない誠の楽しみない是れが元々親様の思い付きとも云う、又此心が元となりて今日世が出来万物出来御苦労下され只此処に止まる是れより外はない。人間互い互い結構/\と云う心を使うから見て楽しみ楽しむ心を見て楽しみ下さる是より外はない。