嶋臺之訳

 大倭の国にて国式祝いと云うて婚礼酒宴の座にて第一の祝いとする嶋臺の理。それ人間は夫婦結婚を始めとす故に祝うべきなり大事なる祝いというなり。我々住居家とする国は嶋なり、臺なり水の中なる浮き島なり睦くなる台なり、敷島なり。

 松竹梅鶴亀老人夫婦の爺婆熊手箒男熊手女は箒を持って掃除する形を現わしたるは此の世の掃除をする程清き芽出度い事はなし、人間身体胸の内を掃くははくとは白にて白く清らか奇麗にするなり。

 

胸の内の悪しき埃を祓いたるを六根清浄潔白と云うなり、六根とは六つの根即ち胸にて六つとは目にて見一、鼻で考える弐、口にて言葉使う参、耳にて聞くが四、香い或いは臭気をかぐが五、飲み食いにて六なり、此の六つの本を司る根を胸と云うなり。根は水なり心なり男の心にて積む埃は大きく、女の心にて積む埃は細かなり。

男の埃は第一欲しい、腹立ち、憎い、高慢四つありて男神戒め給う、女の埃は第一惜しみ、恨み、我が身可愛、欲此の四つ女神戒め給う、右互いに男はあらき埃女はこまかき埃を祓うたらお前百までわし九十九迄共に白髪と成るまでもと云う様に長生きして子の代孫の代を安心して楽しむ理なり。

 

鶴は立つると云いて男一の道具の理なり、亀は続ぎの理にて女一の道具の理なり。鶴は千年亀は万年と古より唱えて寿を祝いするものなり。松は三代芽の真の立つを待つと云う理にて人間なれば孫の夫婦揃う迄じじばば揃うて長生きして其の三代芽の辛の立ちしを見て足納し喜んで往生するを待つという芽出度いと云うは三代目夫婦揃いしを爺婆見て喜びたるを言うなり。

 

松は三代芽の出ぬ先は古葉落ちぬものにて誠に目出度いものなり。竹は一年にて親と同一となる故に親子たけだけと云いて中節揃いしものなり、ちゅうは中にして、せつは節なり、ふしなりふしより芽出で枝生ず、一年も十一月中十二月節より即ち冬至小寒の中節、春は二月の中三月節にて始まり夏は五月中六月節夏至小暑の中節秋は八月中九月節にて始まりかくのごとく四季中節にて成長するなり。二代芽子といえども孫代となればだけだけの理なり。

  梅はふえる理なり。殖えるは陰陽和合夫婦交合にて子の宿り月止まると云いて泊まると云うも宿るというも同じ事なり。月様は陰なり男なり宿りし腹は日様也陽なり女なり。梅は芽出でぬ先に花咲きて匂い芳しく花は色匂いは情夫婦和合なり。色情とはいろかとゆいて花の香りと云うも同一にて花香りいろか梅の花は寒に咲くを常とす寒は一日にて夜丑の刻芽の出ぬ先、人間朝となれば目を覚まして見る事が一番先なり。なれ共、夫婦交合の時は見る事無くても行うもの花咲き情写る梅の実結びたるは人間子の宿りたる理なり。

 

 故に梅は殖える理にて目出度く祝うものなり。人間夫婦有りて子孫兄弟伯父伯母甥姪従兄弟と段々殖えて繁昌し村を成し郡となり国と成り世界出来たるなり。水の中なる島なり大倭は日の本島国にて往古はおのころしまと云い秋津州とも言い現今にて大日本という大和の国が国の始まり故日本を大倭と言う。