五臓之訳

 胆臓は月様目に通じ心臓は日様鼻に通じ肺臓はかしこ根様口に通じ。肝臓は大食天様耳に通じ、腎臓は月読様、国狭土様皆裏表なり。

  胆は意、見るは表、意見、心臓は即ち心、肺は思う、肝は慮る、音響の耳より肝に入る。目の醒めるも肝が一番先き眠るも先き算術等の達者なるは肝が一番の働き、勘考、堪忍、肝の病は大食天で欲から起る疳の下には刃有り。

  疳が起ったらあぶない、腎臓は男女交合の時梅の木と同じ理にて夫婦一つに成った理、人間を造る源なり、嬉しい口三つは男女、胆から胃が生ずる。此四つが心、此の四つが1つに働いて心、此連絡は神の働き也。

  根心は月日とかしこ大食天、冬夏夜昼の理、腎の時は春秋の理なり、春秋の土用最も陽気のよき時期なり、男の臍大戸邊尊、女の臍雲読尊、男の方は秋彼岸勢気下がる理、女は春彼岸勢気上る理、男一の道具秋土用、女一の道具春土用、首より上夏冬、首よりに秋春有り、物が恐ろしうて、心細く/\なるのは胆臓が弱って居る物が案じられて心配でならんと云うは心臓が弱っている。

  胆は月様、胆の小さい者は月様の御心に沿わぬ、胆は月様の御心に沿うだけ太くなる、借り物と云う事が分って心が落ち着いたら太る、心臓は安心すれば丈夫になる、心太ると云うは神様の道を段々納めて安心が出来たら胆が据わるから太る、月日夫婦の理、胆が一番の元なれども世上人間は心が弱って居る故に安心からして太らせねば胆が養えん、それが元となって楽しむ心も喜ぶ心も出来る、喜ぶから楽しみ、楽しむから喜ぶ夫婦、物を知りて安心するだけ胆が据わるから心が太る、八埃が五臓の働き即ち神を無にする、五臓を腐らす心也。

 

人間は此の働き自由用が叶うから使い過ぎて迫る。又徳を積めば如何程でも徳は積める。心の使い方にて大なる相違となる故に御言葉に善悪二つの理は助かる道と死ぬる道と落つる道と上る道との理の区域をよく間違いのなきようにと仰せられる。

楽しみ勇む、安心喜ぶの四つが胸四つを養う心、此四つの心が信神信心という事なり、勇む心は胆の養い勇むは勇気と云う胆玉の小さき者は勇む心なし。

 

我が身も喜ぶ人にも喜ばす心を使うて居たら肺は痛まぬ、我が身安心人に安心させる心なら心臓は痛まぬ、それに嬉しいと云う心が腎臓を養う。人間は日々心の不足、喜べんのが天の理には一番重い、迫る。人間上では左程に思えぬ咎める事も出来ぬが、天の親神に之れが不幸の第一

 

  肺は思う、我も喜びに、人も喜ばすには六くな心でなくてはならん故、田の心と書く世界にて田は六くのもの、人体目ほと六くなものなし水なり誠なり六くは六物六台かしこ根様誠なり。

 

  喜ぶという心が天理に叶う第一なり。喜べんという心は欲が深いから、如何ほど結構でも結構と思えぬ不足から起る。

 

 自分が安心せずして人に安心させよと云うても、向うへ写らんから道が付かぬ如し。自分が嬉しい心なくては人に写らん匂いが掛らん。嬉しも楽しもしと云う心に花が咲く、其薫ばしき匂いを人に写すが匂掛けとなる、自然と人の心が写るなり、皆八挨から心が小さくなって神魂の徳を失う。

  又学問すればするだけ物事を覚えるだけ一つ学べば習うただけ心が広く太る。屋敷を広めるも同じ事、我が心の範囲を広くする、感心は心の養いと云うて苦労しただけ心が作れる。

 

小さい心では神の器には成れん。世界中の事を計り世界中の事を皆知ってこそ神の道具である、又勇気なく胆玉小さきは心に真実無き理なり、例えば昔の武士はまさかちがえば命を惜しまんと云う度胸有って胆が据わった如く一身を捧げて成すと云う真実なれば太る。心を作る事心を大きくする道を知らねば道は何年暮れても役に立たぬ、是れが天理の第一なり。

 

 世界中の物が天理故皆其元其神の理を心に治めて我が心の宝とする末代の宝心の財産である極意を治めねばならん、何にもならん、皆治めてしまわねば心澄まぬ理、故に八方の神様の括り治めは月読尊天理を皆読んで治める安神立命それが心を作る太らす道。

 

 どうかこうかと心に分らん、暗い心に定まらん内は心が小さい。又心の小さい胆玉の小さい者は世の中の役に立たぬと云うは如何なる訳で心の小さきものと大きものと分るゝかと云えば、身上は一列に神の借り物故、変りはなけれども心にて大と小高低の階級分れて各々其の神の守護、神の徳に相違を生ずる所以は只我が身我が家の食う事だけに心苦しめ人はどうでもかまわんという欲深くして神の徳を失うものが小さい(誠なき心より神魂の霊光を失うたるもの)。

 

神様の御言葉に大きい心になれ、小さい心ではにっちもさっちもどうもならんと仰せあるは大きい心とは欲しい惜しいもない苦労をいとわんと云う身欲のない真実の心を云う。又真の誠の心を以て力の及ぶ限り国家の為道の為を思うて尽くし運びをしたならば心に治まった理は末代の理なれど親が何ぼう宝を与えようと思うても心に相違あってはどうもならんと仰せられた。

 

五臓を胸と云う、六腑を腹と云う、六腑は脾胃大腸小腸十二支腸膀胱、胸は六つの根目耳鼻口飲食い息する道具六つ(命の親月日と身の親両親と食物)胸はあたまと云うも同じ、頭は月日様に八方八社の惣付添い下さる八という、頭のよいと云うも胸のよいと云うも同じ事なり。

最も心は胸が本根なるが只胸四つだけで心が働くと云うものではない、全身あって心が働く神は全知全能なれど、人間は身体を離れては心魂の働きは出来んと同じ、神より限られてある。