「筑紫君」「薩夜麻」について

「倭国」から「日本国」へ ~ 九州王朝を中核にして ~より

 

「筑紫君」「薩夜麻」という人物がいます。この人物は「六六一年」の「百済を救う役」で「唐」軍の捕虜になっていたと考えられ、(これは『書紀』等の倭国側史書に記載されていません「六七一年」に「唐」の軍隊と同行して帰国したのが初出です。(天智紀にあります)
 
 『書紀』にはその後「六九〇年」(持統四年)九月丁酉(二十三日)に「三十年間」「唐」軍の捕虜になっていた「軍丁筑紫国上陽羊郡大伴部博麻」が「新羅」からの使節に随行して帰還した記事があります。そしてそれに続けて、彼「大伴部博麻」を顕彰する記事があり、その内容は、彼が「六六一年」の「百済を救う役」で捕虜になり、その後同じく捕虜になっていた「筑紫の君薩夜麻」等を解放するために自分の身を売って金に代え旅費とした、という「美談」が書かれているものです。(「唐人の計」を本国に伝達するために国外に出ようとして相談したときの「大伴部博麻」の提案)

「持統四年(六九〇)九月丁酉。大唐學問僧智宗。義徳。淨願。軍丁筑紫國上陽■郡大伴部博麻。從新羅送使大奈末金高訓等。還至筑紫。」

「持統四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。■天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并■五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。」

 ここで「薩夜麻」のことを「筑紫の君」と呼んでいることが「キーポイント」となると考えられます。「君」という言い方(称号)は中央王権から見ると、彼らの制度に組み込まれていない、その地方の独立した権力者、という意味であり、「筑紫」の地域が独立した自治地域であり、「薩夜麻」がその「王」であったことを示しています。そして彼は、ここである意味非常に「不名誉」な立場で描かれているわけです。つまり、上の記事を見る限り、部下を「売って」帰国した王、というとらえ方は避けられないと考えられます。

 ところで、「大伴部博麻」が帰還したときの「持統天皇」の詔によると、彼「大伴部博麻」が捕虜になったのは「於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役」つまり「斉明七年の百済を救う役」となっており、「白村江の戦い」ではありません。彼はこの「斉明七年の百済を救う役」の際に倭国から派遣された「遠征軍」の中にいたものであり、この戦いで捕虜になったという事と思われ、彼と同じ場所(場所不明ですが、捕虜を収容する施設でしょうか)に「薩夜麻など他の四人」もいるというわけですから、彼らも「大伴部博麻」と「同時」(斉明七年)に捕虜になったという可能性を示唆されます。つまり、彼らは「白村江の戦い」それ以前に「捕囚」の身になっていたと推察されるわけです。
 ところでこの「斉明七年」つまり「六六一年」は「百済」が滅亡した「六六〇年八月」の翌年であり、「鬼室福信」など百済軍の残党が「統」「新羅」連合軍に対抗して抵抗していた時期です。この年に「倭国」から派遣された「博麻」は戦いの中で「捕虜」となったというわけですが、同じ収容場所に「薩夜麻」等がいるわけですから、彼等も「六六一年」の段階で「捕囚」となったことを示すと考えられます。
 その前年の「斉明六年」(六六〇年)には「百済」からの援軍要請に応え「新羅」へ出撃する命令を出しています。

「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…唐人率我螯賊。來蕩搖我疆場。覆我社稷。俘我君臣。百濟王義慈。其妻恩古。其子隆等。其臣佐平千福國。弁成。孫登等。凡五十餘。秋於七月十三日。爲蘇將軍所捉。而送去於唐國。蓋是無故持兵之徴乎。而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋。將爲國主。云云。詔曰。乞師請救聞之古昔。扶危繼絶。著自恒典。百濟國窮來歸我。以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動。倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等。其正發遣之時。見于七年。或本云。天皇立豐璋爲王。立塞上爲輔。而以禮發遣焉。」

その後軍備の確認をするためとして「難波宮」に行幸しています。

「十二月丁卯朔庚寅。天皇幸于難波宮。天皇方随福信所乞之意。思幸筑紫將遣救軍。而初幸斯備諸軍器。…」

 つまりこれによれば「難波宮」には「軍事」に関する倉庫などがあったとみられ、「軍器」つまり兵器や旗指物などが貯蔵されていたと推定されますが、このことは「難波」が軍事基地として機能していたことを意味します。(そもそもその形状としても「山城的」と思われるわけですから、軍事力に特化した都であるといえるものです。)そしてその軍事力を擁して「斉明七年」(六六一年)の「八月」に出撃したというわけです。(以下の記事)

「(六六一年)七年…八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津守護百濟。」

 この記事では「阿曇比邏夫連」と「阿倍引田比邏夫臣」の二人が軍を率いているようにも見えますが、「或本」の記事としてこの後に「大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津」の二人の軍も同時に出撃したこととなっています。その場合第三軍の将軍が「大山下狹井連檳榔」副が「小山下秦造田來津」ということとなるものと思われ、「三軍構成」となると思われますが、後の「軍防令」では「三軍」で全体が構成されている場合は「大将軍」一人を置くとされているのに対して、ここではそれが置かれていないように見えます。

「軍防令二十四 将帥出征条 …各為一軍毎惣三軍大将軍一人。」

 もちろん「軍防令」は『養老令』の一部であり、かなり後代のこととはなりますが、軍に関する規定そのものはこの当時からあったことは確実であり(そうでなければ軍隊として組織立った行動が取れるはずもありません)、この時点でも同様に軍の統括に関する規定があったものと推量されます。そうであれば「大将軍」がいないというのは不審であり、それは「持統天皇」の詔から明らかなように「大伴部博麻」が捕囚となったその場所に「筑紫の君」と呼ばれる「薩夜麻」がいたことは確実ですから、彼がその「大将軍」であったという可能性は高いものと推量します。つまりこの時の軍の中に「博麻」や「薩夜麻」などがいたものと考えられる事となるわけです。

 ところで、この「大伴部博麻」の記事には「不審」があります。彼は自分の身を売って「薩夜麻」達の帰国費用を捻出した、というわけですが、その「薩夜麻」は「六七一年」に「郭務悰」と同行して帰国しています。彼のこの帰国に当たってはたして「費用」を自前で用意する必要があったのでしょうか。


 彼は当時「百済」を占領していた「唐将」「劉仁願」の部下と考えられる「郭務悰」に同行して帰国したわけですが、彼のような「君」と呼ばれる「高位」の人物で「捕囚」になった人物は他には確認されていません。このことは「唐」ないし「新羅」側にしてみても、彼のような人物が(当初はともかく)正体がわかった後で、いつまでも「捕囚」として「拘束」していたかはなはだ疑問ではないでしょうか。彼は「捕囚」と言うより「客人」としての扱いを受けていたのではないかと考えられます。

 後でも述べますが、「二〇一一年」に「中国」で「百済禰軍」の「墓誌」というものが(「拓本」が)発見されました。この「墓誌」の解析によれば、彼は「熊津都督府」から「倭国」に派遣されていますが、この時の「百済禰軍」と「劉徳高」などの「来倭」の一つの目的は「薩夜麻」の追求であったはずです。
 この「禰軍」という人物は「百済」の「佐平」という位階を持っていたと「墓誌」に書かれていますが、「六六〇年」の「百済王」達が捕虜になった際に一緒に投降したものと考えられ、その後「唐」側の人物として活躍していたものと考えられます。
 彼は「百済」にいた際に「新羅」や「倭国」などの事情に明るかったものと推察され、唐側に立場が変わってからはその点を評価され「情報収集」と「折衝」を行うような職責にあったものとわれます。このような人物が「倭国」との「折衝」のために「派遣」されていたとしても不思議ではありません。
 「熊津都督府」から派遣された彼らは、「唐」・「旧百済」合同勢力とでも言うべきものであり、「新羅」の勢力とは別個に来倭したものです。その目的は「泰山封禅」に「倭国王」を引率(連行)し、「皇帝」(高宗)に対し直接「謝罪」させるというものであったと考えられます。

 この間「倭国」は「倭国王」不在となっており、また「天智」が「革命政権」を開き「天皇」を自称していたと思われます。
 「熊津都督府」では、これを聞き、急ぎ「旧百済」の勢力を「唐使」の「ガード役」として派遣したものと思われます。その目的は「天智」を説得し、投降させると共に、「唐」の「権威」を認めさせ、「捕囚」となっている「倭国王」を「泰山封禅」に連行するに当たって同行させるために必要な人員を派遣することであり、彼等と共に「唐皇帝」に直接謝罪させることでした。
 これを受け入れた「天智」が派遣した「守君大石」達と共に「薩夜麻」は「劉仁軌」により「連行」され、「高宗」に面会した時点で、彼は「高宗」に対し(やむを得ず)「従順」を誓い「臣下の礼」を取ったものと考えられます。(降伏の儀礼として「一旦称臣」と称するものであり、「捕囚」となりまた「奴隷」となることです。)
 このため、「唐」としても「倭国」が「絶域」(遠距離)であることも考慮し、それ以上の戦線拡大を止める意味でも、彼を真の意味での「「処罰」(流罪など)の事は考えていなかったのではないでしょうか。ただし「唐」と戦火を交えたわけですから、不問に付すことはできず、「熊津都督府」に拘留することで「流罪」の形としたものと思われるわけです。しかし今後のことを考えると形ばかりであったかもしれないものの「服従」の意思を示した「薩夜麻」が「倭国王」に復帰するのが「唐」として最も安心であり、また納得のいくものであったでしょう。

 このようにして「唐皇帝」の「臣下」としての扱いになったと思える「薩夜麻」については、その「帰国」に要する費用が「自腹」であるはずがないと思われます。
 このような場合、その後の関係を健全なものにするためにも「送還」に当たって「費用」が必要だったり、手荒な扱いであったりすることは決して無く、「要人」として相応の扱いをした上で、「警固」の軍をつけて送り返すのが常のようです。
 つまり、彼の帰国費用などについては元々「博麻」が負担すべきいわれはなかったと考えられるのです。
 そう考えると「大伴部博麻」の献身は「薩夜麻」を除く他の三名についてのものであったという可能性が高いと思われます。

 また、「氷連老人」は『書紀』に引用された「伊吉博徳」の証言に拠れば、「七〇四年」にならなければ帰って来れませんでした。「弓削連元寶兒」については「伊吉博徳」の証言による「別倭種韓智興・趙元寶」と書かれた「趙元寶」と同一人物という可能性もあり、そう考えた場合実際に帰国にあたって費用が必要だったのは「土師連富杼」だけであった可能性が強いでしょう。ただし「富杼等任博麻計得通天朝」というように「等」とありますから「富杼」以外の誰かも一緒に帰国したものと考えられます。
 「土師連富杼」が帰国した年次は不明ではありますが、帰国するのに「旅費」を必要とする、という文章からは「民間」の船(漁船など)に金を払って乗せてもらって帰国したのではないかと考えられます。このような方法で「至急」帰国したと仮定すると、帰国日時が正確に記載されないのも理解できるものです。ただし、帰還した「大伴部博麻」を顕彰した「持統天皇」の詔にある、「薩夜麻」達を帰還させるために「大伴部博麻」の献身が提案された年次である「天命開別天皇三年」というのが何年の事なのかについては、諸説があるものの、『書紀』中の他の「天命開別天皇の何年」という例は全て「称制期間」のことなので、ここでいう「天命開別天皇三年」も同様に「称制期間」と考えられ、「六六四年」のこととなると考えられます。この年次から余り離れていない時期(その年の内か)に「土師連富杼」は帰国したものと推察されるものです。