五下り目

一ツ  ひろいせいかいのうちなれバ  
   たすけるところがまゝあろう

という理は、世界の内に助る所というはどういう事
なら、身の悩みには医者も薬も助ける
所、拝み祈祷も
助ける所、まじないも
皆助ける所、諸神諸菩薩
の参り所も助ける所なり。
その数有る内に誠の助ける所は
この所より外なし。
この証拠というのはおびや疱瘡の
証拠の道明けに
助け道明け下される事をいうなり。
二ツ  ふしぎなたすけハこのところ  
   おびやほふそのゆるしだす

という理は、前にいうて有る通りおびや疱瘡の許し
された理を思案して実の親神様や親里やと思う心

違わんように真実思う事なら、親の諭し通り疑いなく
心の行いを行いをつけて日々陽気に定めれば、おびやは
元より
疱瘡は第一の大節なり、この元大層な事が
助かるなら
何につけても元が適えば身の内一条は心
次第でなに適わん
という事なしと悟りつく者は
第一神の自由自在ある事なり。
三ツ  みづとかみとハおなじこと    
   こゝろのよごれをあらいきる

という理は、水は神なり神は水なり、水は素直な物なり、
水は素直なれば神は素直なもなり、素直でも十分の徳
があるその人間は神の子なり。
人間はまたその神に
勝れた素直に無くば
自由適うはずなし、それに人間は
あざない者でも神の子でありながら、
神の心に従わず
して神を下目に見るより勝った
心を持つわが身がほしい
儘に近道慾高慢悪気強欲の心を先に立てて
親と水との
心にならぬ故親の守護が有るはずなし。

この理思案して神と水との心にまがれる者はこの理
を素直な水と神
とでこの度攻め切る事を心の汚れを
洗い切るというなり。
四ツ  よくのないものなけれども  
   かみのまゑにハよくはない

という理は、この欲というのは何だけでなし、
物に貪るのも欲、惜しいのも欲、隔て心も欲、
嘘追従も欲、
高慢も欲、恨み腹立ちも欲、
日々に心に変わるのも欲、案
じるも欲、
心配も欲、先の思案も欲、
人間は皆月日ニ柱の
心の細物なれば月日には
ただ一筋に世界を育てる
心ばかりなり、
その心なれば双親の心に適う者なり。
この事を神の前には欲は無いというなり。
五ツ  いつまでしん/\゛したとても  
   よふきづくめであるほどに

という理は、いつ迄というのは人間五倫五体の姿なり。
いつ迄というのはこの五体の理をいうなり、
信心という
のは誠の心なり。誠とうのは世界一れつ兄弟の心
を定めて
隔の見分け無き様に口も心も違わん様するを信心という。

また真実ともいう。信心というは信は同じ信心する中に
心次第に
理が分かる。理が分かれば咄しも真実に聞く、聞けば
聞く程胸が分かるに
応じて理が生えるその理に応じて実が
のることを陽気づくめで有る程にという事なり。
六ツ  むごいこゝろをうちわすれ  
   やさしきこゝろになりてこい

というり理は、このむごいというは天理にはずれいる
事をむごいとうなり。
天理にない事をいうのは、何事に
よらず世界兄弟の理を外して人はどうでもわが身さい

善ばよく心はみな天理にない事ばかり。またやさしきと
いうのはこの世には
皆八方八柱の神の守護なり。
世界を八柱の神の心に適う心に定めるのが世界の式なり。

よってこの理をやさしき心に成てこいというなり。
七ツ  なんでもなんぎハさゝぬぞへ  
  たすけいちじよのこのところ

という理は、何でも難儀する事なり。その心というは
わが身を大事と思うてわが身を捨て
る事ばかりの
心種を蒔く事なり。実にわが身を大事に思うなら
この地場は人間世界を始め
出したる所ならどんな事
でも皆教える事を聞き定めて懺悔をしてまた心を
澄ます事なら
何適わんという事なし。これを助け
一条のこの所というなり。
八ツ  やまとばかりやないほどに  
   くに/\゛までへもたすけゆく

という理は、この国々は何の理で国というなら人間は皆
九ツの道具の借物なり。その夫婦を
国という。その夫婦
に人間を宿し下される故、人間が広まるその人間の
住まう所を国とい
う。その国々を助け行くというのは
人間の身体の事を助けするのを国々という、また世界
中も
皆天理で教を広めて助けする事をいうなり。
九ツ  こゝはこのよのもとのじば  
  めづらしところがあらハれた

とい理は、この地場は人間世界を始め出しの地場
また人間には神の教えを聞いて心の地場
定る事を
いう。また珍しいというは人間の始めた屋敷を
知らして貰った事をまた、人間
には無い人間、
無い世界を始めた萬の元を知らして貰った事を
未だ話し一条でどんな事で
も皆助ける悪しき事
も皆現れる事も珍しい事が現れたというなり。
どうでもしん/\゛するならバ  
こふをむすぼやないかいな

とい理は、こうを結ぼうというそのこうは心のこう
なり。その講を結ぶには講社を結んで、そ
の話し
の理を聞いて心を磨がいてその心を定めて一ツの
講を立てて二ツのこをうを貰う心
を楽しむ事を
講を結ぶというなり。