元号使用の歴史(日本)

一般に難波宮で行われた大化の改新(645年)時に「大化」が用いられたのが最初であり、以降、日本という国号の使用が始まったとされる。なお、即位改元は南北朝以後から江戸時代前半期の数例(寛永など)を除いて確実に実施されている[4]。

663年の白村江(はくそんこう)の敗戦後,朝鮮からの来襲をおそれた日本政権が国土防衛のため築造した山城。北九州から瀬戸内海沿岸の重要地点に,亡命百済人の指導で朝鮮様式に築かれた。筑紫国大野城・基肄(きい)城,対馬島金田城・讃岐国屋島城・大和国高安城などがある。多くは標高300〜400mの急峻な地形にある。稜線に沿って石塁または土塁を築き,城内に倉庫群があり,谷間に渓流が流れるか泉があるのが特徴。なお北九州・瀬戸内地方に分布し,宗教施設と考えられてきた神籠石(こうごいし)は,近年の発掘調査によって古代の山城遺構であることが確定的となった。

663年、朝鮮南西部の白村江(はくすきのえ)で、東アジアを揺るがす一大決戦が行われました。決戦の名は「白村江の戦」。唐・新羅(しらぎ)、倭国(九州王朝)・百済(くだら)の二つの連合軍による、朝鮮半島の権益を巡る一大決戦は、唐・新羅連合軍の勝利によって幕を下ろしました。この戦いにより、百済は名実共に滅亡し、新羅による朝鮮半島統一へと時代は動き始めます。この教科書でも習った白村江の戦が、実は日本にも多大な影響を及ぼしていた事をどのくらいの方がご存じでしょうか? 近未来の朝鮮半島有事にも少なからぬ示唆を与えるこの戦いの結末について、書いてみたいと思います。

倭国(九州王朝)は、かつて、北方の大国・高句麗と朝鮮半島で、その権益を巡って戦いました。なぜ、倭国、ひいては日本が朝鮮半島に古代から関わらなければならなかったのかと言う問題は、この際は抜きにしますが(いずれ取り上げようと思っています)、とにかく、倭国は事ある毎に朝鮮半島に一定のプレゼンス(影響力)を行使してきました。その帰結が先に挙げた「白村江の戦」なのですが、この戦争で負けた倭国・百済連合の一方の当事者・百済は名実共に滅亡し、その領土は新羅に併合されてしまいました。では、もう一方の当事者、倭国にはどの様な結末が待っていたのでしょうか?「倭国は滅亡していた」。

 

ずばり、それがこの答です。国が滅亡したと言う証拠は、「日本書紀」671年の条の、「筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)が唐から帰国した」(要約)と言う記事です。「筑紫君」と言うのは、「倭王」の事です。自らは、「日出づる処の天子」・「オオキミ」等と称していた倭王ですが、大和朝廷(日本国)側からは、筑紫君と呼ばれていました。しかし、この事が倭国の滅亡の証拠になるのかと思われる方もおられるでしょう。それが、証拠になるのです。

白村江の戦で、戦争が終結したのが、663年。倭王(筑紫君薩夜麻)が唐から帰国したのが、671年。その間、実に8年。一国の王(現代で言えば、天皇だとか首相)が他国に8年間もいたと言う事実。更に、倭国・百済連合が「敗戦国」だったと言う事実。これらが物語るものは一つ。それは、倭王が「戦犯として戦勝国・唐に抑留されていた」と言う事です。

敗戦国の元首(王)が戦勝国に抑留される。これは、先の大戦で満州国皇帝だった愛新覚羅傅儀(ラストエンペラー)がソ連、更に中国の撫順収容所に「戦犯」として収監された事実を見ても、明らかです。倭王の場合も、おそらく、傅儀同様、戦後、唐に抑留されていたものと思われます。そして、8年後、ようやく、「釈放・帰国」を許されたのでしょう。しかし、帰国を許された倭王に、帰るべき祖国は最早ありませんでした。

九州、かつて、東アジアの超大国、隋・唐に対して対等外交で臨んだ「倭国」の地は、倭国に代わって日本列島の新たな「代表」となった「日本国」(大和朝廷)の領土と化していました。そして、その新領土・九州を管理統括する為、「日本国」が設置したのが、かの有名な「太宰府」なのです。

太宰府と言うと、皆さんは単に朝廷(政府)の九州に於ける地方出先機関と言ったイメージしか無いのでは無いでしょうか? しかし、当時の太宰府と言うのは、現代人のイメージとは全く違った存在でした。倭国の異称・「九州」の意味を皆さんはご存じでしょうか? これは字義通り、「九つの国(州)」の事です。倭国は九ヶ国で構成されていたので、「九州なのです。

 

これは関東地方をかつて「関八州」等と言ったのと同じです。その九ヶ国の統治を朝廷に代わって代行したのが、太宰府なのです。これは東北(蝦夷)地方の統治を朝廷に代わって代行した「奥州鎮守府」と同じです。そして、近・現代史に当てはめれば、「朝鮮総督府」や「台湾総督府」と同じ、つまり、「新たな領土となった他国(植民地)経営の為の行政機関」なのです。その様な機関である太宰府が九州に設置されたと言う事実が物語るものは、一つ。やはり、「倭国は滅亡した」と言う事なのです。

白村江の戦がもたらしたものは「倭国の滅亡」だけではありませんでした。筑紫君薩夜麻らの帰国は、唐人2000人の「進駐」(日本書紀に記述)を日本側に告知する為になされた措置だったのです。つまり、先の大戦終結後、米軍が「進駐」してきたのと同様に、唐人が進駐してきたのです。更に、様々な資料から、唐人だけでなく、もう一方の戦勝国・新羅人も、亡国の民・百済人も、日本に流れ込んできました。日本側の史料では、彼らを日本に「帰化」したと書いていますが、実際は、日本に「進駐」したと言う方が正しいでしょう。その証拠に、その後の「親唐路線」や、朝廷内に於ける「帰化」系氏族の増加(彼らの多くが先の敗戦まで「貴族」としての特権を有していた)と言った事実が挙げられます。

もし、近未来の朝鮮半島で有事があった際、日本が日米防衛協定(現在調整中のガイドライン)に則って介入し、「敗戦」したとしましょう。おそらく、その時は、白村江の敗戦同様、中国人民解放軍が日本に進駐、五星紅旗をはためかせ、日本政府に中国人の閣僚を多く送り込み、「親中路線」と言うよりは、「中国の属国としての日本」を強要すると言う「悪夢」が現実のものになるのでは無いでしょうか? これが単なる「悪夢」ならば良いのですが、軍拡まっしぐらの中国・北朝鮮情勢・「歴史は繰り返す」と言う法則が重なり合い、「現実」にならなければと只々願うばかりです。



朝鮮式山城(読み)ちょうせんしきやまじろ
百科事典マイペディア「朝鮮式山城」の解説
朝鮮式山城【ちょうせんしきやまじろ】

663年の白村江(はくそんこう)の敗戦後,朝鮮からの来襲をおそれた日本政権が国土防衛のため築造した山城。北九州から瀬戸内海沿岸の重要地点に,亡命百済人の指導で朝鮮様式に築かれた。筑紫国大野城・基肄(きい)城,対馬島金田城・讃岐国屋島城・大和国高安城などがある。多くは標高300〜400mの急峻な地形にある。稜線に沿って石塁または土塁を築き,城内に倉庫群があり,谷間に渓流が流れるか泉があるのが特徴。なお北九州・瀬戸内地方に分布し,宗教施設と考えられてきた神籠石(こうごいし)は,近年の発掘調査によって古代の山城遺構であることが確定的となった。
 
日本人の先祖は朝鮮渡来人

「現在の日本人の90%以上は朝鮮半島から移住して来た人々の子孫」である。少なくとも、明治以前までの朝鮮は日本より先進国であった。日本の古代国家と文化を建設したのは朝鮮からの渡来人(上流階層の人々)であった。倭国へ移住した人々は大きく二つにわけることができる。一つは「王室を中心とした支配層」であり、もう一つは「下層民(韓半島では生きていけない貧困者など)」である。彼らに共通するものは、「朝鮮民族に対して怨恨と敵対心」をもっていたということである。勿論、渡来人は、縄文晩期から増え始め、弥生時代以降、倭国原住民と渡来人の人口比は「1対9.6」(埴原和郎説)になるほど、倭国での渡来人の移住民は圧倒的に増えたのである。しかし、倭国の姿を変貌させたのは、「白村江の戦い」に敗北して倭国へ渡来した百済の「王族をはじめとする上層階級」の渡来であった。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は倭国へ亡命し、百済再興に夢を託した。倭国を「日本」と命名し、自分たちを「日本人」として出発したのである。渡来人は「朝鮮隠し」を始め、秦氏・漢氏などは先祖を中国人系のものにしようとしたという。「古事記」「日本書紀」では歴史を造作し、「皇室側近の者たちが朝鮮と関係のある文書」を焼失させたりしているという。つまり、5世紀~8世紀ごろの渡来人は、朝鮮半島で生きられなくなって倭国へ渡って来た人々が多かったと言えるだろう。日本人が、朝鮮国に対して野蛮な行為を働き続けてきたのは、「朝鮮人が朝鮮人の怨恨を晴らす」という歴史的な意味が潜在意識として存在していたためではないかと言われている。

「朝鮮半島では生きられなくなって日本に渡った民族」という意識は、本国の朝鮮人にも見られる感覚だという。「国をすて、旧来の言葉を日本語化し、民族をすてた脱落者」とみなす感覚は、本国の朝鮮人の間にかなり広く見られるという。朝鮮人が日本に渡って二世になると相当に変わり、三世代からは日本人化してしまうように、「2000年前から渡来しはじめた朝鮮人の子孫たちは日本人化」してしまい、「自分たちの先祖は縄文時代の人々に始まる」と思っている者が多い。
「続日本紀」によれば、古代日本の首都であった「飛鳥」を中心とする高市郡の「総人口の80%~90%」が渡来人で占められていたという。「飛鳥」には百済系渡来人の神社や氏寺があり、漢氏(渡来人)の居住地だった所に「欽明・天武・持統・文武の天皇稜」が集中しているという。百済王 禅広の墳墓との説もある「高松塚古墳」は文武稜古墳の近くにあり、かってはこれが文武天皇稜とされていたという。「高松塚古墳」とそっくりな古墳が高句麗にあり、高句麗の古墳を体験した画家の平山郁夫は「日本のものは高句麗のミニチュア版である」と述べている。

「百済系渡来人である漢氏族の繁栄は巨大」なものであった。そして「その上に立っていたのが百済人の蘇我氏」である。亀井勝一郎は、蘇我氏について「飛鳥における政治の実権は蘇我氏の掌中にあった、この頃の天皇とは蘇我氏」のことであると述べているが、蘇我氏について同じように述べる学者は多い。蘇我馬子の墳墓とされる「石舞台古墳」は、権勢を振るった王者の墳墓を思わせるものがあるという。「石舞台古墳」は、朝鮮の青銅器時代に見られる「支石墓」に似ており、「支石墓」は朝鮮半島のほぼ全域に分布しているという。「蘇我馬子の墓と言われている石舞台古墳」は、この支石墓にそっくりであり、そういうものが倭国より約1300年も前から作られているのだから、日朝の文化の落差がいかに大きいかがわかる。支石墓は朝鮮南部に多く、九州の北西部にも点在しているので、朝鮮渡来人が増加し始めた縄文時代の終わりごろから弥生時代中期にかけて伝播して来たものだと言える。「蘇我入鹿」は天皇をしのぐ権勢をもちはじめたために、天智と藤原鎌足の陰謀によって暗殺された。その後、「藤原氏(百済人)」が大和朝廷の実質天皇となり、日本の歴史(政治・文化)は「藤原氏によって統合支配」されていった。

 蘇我入鹿の専横のため、天智と謀略して「蘇我入鹿を暗殺した藤原鎌足」の子「藤原不比等」は「大宝律令」の編纂の中心メンバーとなり、わが娘を文武天皇の夫人とし、さらに、文武の子が聖武天皇になるにおよんで「宮廷内での勢力を不動のもの」とした。後妻との間に生まれた娘を聖武天皇の皇后にさせるにいたって、「不比等は藤原氏繁栄の基盤を築いた大人物」とされている。その後、「藤原氏」は、千三百年にわたり「日本の政治・宗教・文化の頂点に君臨」し、「古事記」「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「日本三代実録」・・その他の史料のほとんどは藤原氏の手によって編纂されているという。

 「藤原道長(962~1027)」の歌「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることの無しと思へば」は、藤原氏のおそるべき権勢の大きさを示すものである。藤原氏は「明治・大正・昭和にいたるまで政財界唯一の実力者」で、藤原氏の歴史は日本民族の歴史・文化がどのようにして形成されてきたかを象徴的に物語っている。

徳川幕府崩壊直後の明治元年(1868)の内閣最高幹部 「左大臣藤原道隆 右大臣藤原家信 同従一位藤原実美 内大臣藤原実徳 内大臣正二位藤原忠順・藤原宗弘・藤原資宗・藤原雅典・藤原光愛・藤原胤保・・」などからも藤原氏の勢力がいかに強力なものであったかがわかる。

日本人の祖先が朝鮮人であることを証明する大和言葉

飛鳥地方に居住し朝廷につかえた知識層は、「宮廷文学(王朝文学)」の作者として言葉の文字化に貢献した。「宮廷文学」の文字言葉は、後々の種々の文学に継承されて発展し文学語として定着した。平安~鎌倉期「宮廷文学の系統をもついくつかの代表作品」には、「古今和歌集」「土佐日記」「枕草子」「源氏物語」「更級日記」「方丈記」「徒然草」「平家物語」・・などがある。これらの作品の言葉は、「江戸・明治・大正・昭和の文学作品の言葉(文字)の水源」となり今日に至っている。

これらの言葉が現在の大和言葉になっているということは、「百済王朝の言葉が大和言葉の水源」になっていることを意味している。一方、「日本語の母語(大和言葉)」と「朝鮮語の母語」の類似語がなぜ少ないかについては、百済国と新羅国の会談などにおいては、通訳がいなければ話が通じなかったと言われているように、「百済王朝語」と「新羅王朝語」の母語は方言性が強かったのである。つまるところ、「現朝鮮語の母語」は「新羅王朝語」を水源とし、「日本語(大和言葉)」は「百済王朝語」を水源としているので、両語の類似語を探すのは簡単ではない。しかし、「助詞」「擬音・擬態語」「数詞」はそっくりであり、その他「似ている単語」もあげれば結構な数になり、200語あまりしかないと言う説には賛成できない。

朝鮮語が日本語の源流であることを証明する著名な作家の論考をいくつかあげる

  ○ 朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。(国広三恵)

 ○「記紀」「万葉」は吏読表記(万葉仮名)で書かれている。(李寧熙)

 〇 日韓語はアルタイ語族に属する言語である。古代日本語は韓半島からの渡来人の言葉で形成されている。(金思燁 李  男徳 徐廷範)

日本の古代の文献は古代朝鮮語で書かれている。(松本清張)

〇 飛鳥~奈良時代の国宝は韓国の国宝とも言える。(柳宗悦)

〇 奈良時代における百済人の渡来がなければ、万葉集は生まれなかったであろう。万葉の歌聖 額田王 山上憶良 柿本人麻呂 山部赤人は朝鮮人である。                                      (金容雲)

〇 万葉仮名は朝鮮の吏読表記と同じである。(権叉根・国弘三恵)

〇 日本の古代文化、その風土の中に占めている朝鮮的要素を除去してしまえば、すこぶる貧弱なものしかあとに残らない。(金思燁)

〇 飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)

 〇 飛鳥は朝鮮文化をぬきには語れない(司馬遼太郎・上田正昭・金達寿)

〇 百済から来たばかりの高官「鬼室集斯」が学頭職<文部科学大臣>になったということは、言葉の問題がなかったことを意味している。
                                                    (佐々克明)

近畿地方に最初の統一政府をつくったのは渡来人である。(小山修三)
 
飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であった、宮中では百済語が使われていた。(金容雲)

○『古事記』『日本書紀』は百済の学者により吏読表記<百済の万葉仮名>で書かれている。(金容雲)

 〇『日本書紀』は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏<百済人>の都合がいいように整理されている。(上田正昭)

〇 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである、常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

〇 韓半島の言葉の上に、飛鳥、奈良時代の日本語は形成されている。    (李寧熙)

〇 古代朝鮮語と日本語は同じである。『大日本地名辞書』の第一巻の「地名総説」

遣唐使は朝鮮で行われており、渡来人によって形成された政府が同じことを続行した。    (金達寿)

 ○「大宝律令」の編纂の中心メンバーは鎌足の子 藤原不比等(百済人)。  (梅原猛)

 ○ 宮中の歌会はじめ 雅楽 御神楽 韓神の祭儀は韓半島の王室で行われていたもの。    (上田正昭・金達寿)

○ 飛鳥~奈良時代につくられた国宝 寺院 仏像 書画などは韓国の国宝とも言える。         (柳宗悦)

〇 日本語の系統は何かと問われるならばアルタイ語系に属すると言うべきである。     (塚本勲)

〇 新村出、泉井久之助、大野晋、服部四郎、李基文、金芳漢などの多くの学者が日本語は朝鮮半島から来たであろうとしているが、自分も日本語は朝鮮半島から来たと思う。(塚本勲)


朱鳥年間の出来事

  元年(686年)
        7月20日:朱鳥に改元する。(1月1日に遡る立年改元)
        7月20日:宮号を飛鳥浄御原宮と定める。
        7月:天皇のために諸王臣等、観世音像を造る。観世音経を大官大寺で読経する。
        9月9日:天武天皇が崩御し、皇后(後の持統天皇)の称制となる。
        10月2日:大津皇子、八口音橿、伊吉博徳、中臣臣麻呂、巨勢多益須、新羅僧行心、礪杵道作ら三十余人が謀反の疑いをかけられ捕らえられる。
        10月3日:大津皇子が自害させられ、妃の山辺皇女が殉死する。
        10月29日:皇子以外の大半の者は赦されるが、行心は飛騨国の寺に移され、礪杵道作は伊豆国に流される。
        11月16日:大来皇女が伊勢斎宮を解任され帰京する。
        12月19日:天武天皇のために無遮大会(かぎりなきおがみ)を大官大寺、飛鳥寺、川原寺、小墾田豊浦寺、坂田寺の五寺で行う。
        閏12月:筑紫大宰が高句麗、百済、新羅の三国の百姓男女僧尼62人を献じる。


「日本」と国号を変更したのは「持統天皇」

この「朱鳥」とは、一般に「四神」つまり「青龍」「玄武」「白虎」とならぶ「獣神」であり、「天帝」の周囲を固めるものとされています。その起源は「殷代」にまで遡上するとされ、その時点では「鷲」の類であったとされますが(※)、その後「鳳凰」やその意義を持った「雀」などの「鳥」とされるようになりました。

「臣某言:臣聞乘雲駕羽者,非以逸樂其身;觀風設教者,將以宏濟於物。故後予胥怨,幾望湯來,吾王不遊,?思禹會。伏惟天皇察帝道,敷皇極,一日二日,智周於萬幾;先天後天,化成於四序。雖鴻名已建,銘日觀而知尊,而膏澤未流,禦雲台而不懌。市朝之邑,天地所中,四方樞會,百物阜殷,爰降恩旨,行幸東都。然以星見蒼龍,『日纏朱鳥』,清風用事,庶彙且繁,桑翳葉而眠蠶,麥飛芒而?雉。…」《全唐文/卷0217》代皇太子請停幸東都表 崔融(唐)

「…東方木也,其星倉龍也。西方金也,其星白虎也。『南方火也,其星朱鳥也。』北方水也,其星玄武也。天有四星之精,降生四獸之體。…」「論衡」物勢篇第十四 王充

「…南方火也,其帝炎帝,其佐朱明,執衡而治夏。其神為?惑,其獸朱鳥,其音?,其日丙丁。…」「淮南子/天文訓」

 これらを見てもわかるように「天帝」を守護するとされる「四神」のうち「朱鳥」は「南方」にあり、色は「朱」つまり「赤」、季節は「夏」、また「火」を象徴するともされます。そのことは「炎暑の原因」とされることなど、「シリウス」についての伝承とよく重なるといえるでしょう。

 またこの「朱鳥」の起源は「殷周代」まで遡上するとされますから、時代的にも齟齬しません。後に別の星、「うみへび座」のα星「コル・ヒドラ」(別名「アルファルド」)が「朱鳥」の星であるとされるようになるのは「シリウス」が今のように「白い星」となって以降のことではなかったでしょうか。つまり、その色が「朱鳥」の名に似つかわしくなくなった時点以降「コル・ヒドラ」が「朱鳥」とされるようになったものと推測します。
 確かに「コル・ヒドラ」は「赤色巨星」に分類される星であり、「赤い星」と言い得ますし、また「シリウス」と「コル・ヒドラ」は天球上でそれほど離れてはいないことも重要な点です。「おおいぬ座」の一部は「うみへび座」と境界を接しており、また「シリウス」と「コル・ヒドラ」は天球上の離角で40度ほど離れているものの、春の夜空を見上げると同じ視野の中に入ってきます。このことからいわば「シリウス」の代役を務めることとなったものではないでしょうか。しかし「コル・ヒドラ」がそれほど明るい星ではないことは致命的です。周囲に明るい星がないため目立つといえるかもしれませんが、「天帝」を守護するという重要な役割を担う「四神」の表象の一つとするにはかなり弱いといえるでしょう。(2等級です)これが「朱鳥」として積極的に支持される理由はほぼ感じられなく、「シリウス」の減光と「白色化」よって急きょ選ばれることとなったというような消極的選定理由が隠れているようにみえます。
 
 ところで時代は下りますが、中国の「清」の時の書物に『歴代建元考』というものがあります。この中には以下のようにあります。

「持統天皇 吾妻鏡作總持 天智第二女天武納為后因主 國事始更號日本仍用朱鳥紀年 在位十年後改元一 太和」

 つまり、「日本」と国号を変更したのは「持統天皇」である、というわけであり、「国号変更」の時期としては「朱鳥改元」と同時であるようです。つまり「持統」に至って「国号」が変更されたとするわけであり、その時点で改元されたものが「朱鳥」というわけです。ちなみに、この時点において「朱鳥」というものに対する「倭王権」の認識は、「朱鳥」が「シリウス」を通じて「太陽」を指向したものであり、さらに「シリウス」が「火瓊瓊杵尊」であるとしたとき、「朱鳥」改元という事象が「皇孫」への「禅譲」という事実を反映したものと見ることもできそうです。つまり「日本」という国号変更と「朱鳥」への改元とは「太陽」と「シリウス」の関係に相当するものであると同時に「皇祖母」と「皇孫」との関係でもあったと思われるわけです。そのことは「鬼室集斯」の墓碑の記述から「朱鳥」の元年が「丙戌」となりますが、それは「朱鳥」の意義に対して「五行説」の影響を考えると「陽気」となる「丙」の年が考えられることと整合します。この年次はいってみれば「天下り元年とでもいうべきものだったのではないでしょうか。(これらについては後述)


(※)林巳奈夫「4神の1,朱鳥について」(『史林』77(6)一九九四年 史学研究会)