勤めの形式と内容について

 

  大教会長(松村義孝)

 

                      うちわけ(高安大教会発行)昭和四年正月號

 


 さて宗教として、それぞれみな儀式がありますが、本教の御神楽勤めのごとく、独特な、そして意義の深いものはないのであります。神様は、神楽勤めの理によりて病気を助け、りゅうけいを勇まし、世界一列をおさめるとまで仰せられたのであります。しかるにお道をよく知らない人にとっては、神楽勤めくらい、奇妙に見えるものはないのであります。「天理教も悪くないが、天理教へ入るとあの踊りをやらねばならんから嫌だ」等という人がちょいちょいあるのであります。

 

しかし、お道の者にとっては、これあるが為にお道は尚さらに結構なのであります。これがある為に陽気勤めをさして頂けるのであります。これを例えば最初、酒飲めぬ人は、酒独特の苦味を嫌うのでありますが、だんだん上戸になると、その苦味に言い知れぬうま味を感じてくるのと同じ道理であります。

 

思うに今日までの宗教でその儀式に舞踊を取り入れたという事はあまりないのであります。しかして、今日までの宗教に舞踊という形式がなかった為に、本教の神楽勤めを世間の人は不思議に思うのであります。そしてこれあるが為に、天理教を淫し邪教のように言うのであります。

 

しかしながら、御教祖は、儀式にこの手踊りを取り入れられた事については、「口と心と行いの三拍子揃う理」とも仰せられてたのであります。すなわち心で思って口に唱えるばかりでなく、立って舞うのは形に現す理で、口と心と行いとが合致する事であって、この三つが合致せねば本当の勤めではないと仰せられたのであります。

 

即ち、いくら立派な事と言うても、行わねばならんで、よしそれを行っても、嫌々したのでは何にもならんので、口心行の三つが合致せねばならんので、この三つの合致した究極の表現が、即ち神楽勤めとなるのであります。

 

何故ならば、人間の言葉が究極まで行くと歌となるのであって、人間の行いも、段々洗練されて行くと、所謂調子づいてくるのであって、この調子づく事が舞踊となってくるのであります。そして、人間の感情が頂点まで達した時には、手の舞、足の踏む所も知らずして、歌い舞うのであります。これを例えば、昔、女の人はよく、機を織りましたが、最初、機織は、機をおる事に非常に苦痛を感じる、しかし段々機を織る事に慣れてくると、身体に調子づいてくる、そして、しまいには、機織る事に何等苦痛を感じなくなる。そして身体は益々調子づいて来て、口からは鼻歌を歌うようになってくる。かく自分の勤めに調子づき苦痛を忘れて楽しく通るのが神楽三昧で、即ち、お道の陽気勤めであります。

 

しかして、神楽勤めは斯く、自分の心の喜びが形に現れたというばかりでなく、又神楽勤めを行う間に始め進まなかった自分の心が、段々進んで来て、所謂神楽三昧に入る事が出来るのであります。

 

世間では、普通、心に思う事があってしかる後、形に現れるものとしています。例えば悲しい心があるから泣く、嬉しい心があるから笑うのであります。しかしてこれが当然であります。しかし悲しい心はなくとも、泣く真似をしている間に悲しい心が起こってきて、ついには本当に泣くというような事もあるのであります。芝居の俳優等がよく悲しくもないのに、泣く真似をしている間に本当に涙が出てくるというような事もあるそうであります。

 

そすれば仮に、お互いに神楽三昧の心はなくとも、神楽勤めをしている間に、心に陽気が浮いてき、心が浄化されるのであります。そして、遂には神人合一の境にまで入るのでありますから、神楽勤めは誠に結構な事であると申さねばならんのであります。

 

さて、御神楽歌の内容と申すまでもなく、詩歌と音楽と舞踊のこの三つから成り立っているのでありまして、御教祖がお書き下された御神楽歌の詩を声を上げて歌い、そして舞うのが御神楽勤めであります。そして、その伴奏として鳴り物が奏せられるのであります。

 

御神楽歌は、ご承知の通り、百二十首の歌からなる所謂十二下りと、その十二下りのだし、即ち序歌としての八社さまと、八社さまのだしである「あしきをはろうてたすけたまへ」「ちょいとはなし」「かんろうだい」の三首の所謂序歌とから成り立っているのであります。

 

そして、最初の序歌の三首は、火水風の理でありまして、お言葉に「火と水とは一の神、風より外に神はない」とありますように、この三つは一切万物の根源の理であります。即ち始まりの意で、教理の根本の理となるのであります。

 

あるいは又、三は産、即ちお産の理ともいうので、これも物の始めの理で、意味から申して大差はないのであります。

 

次の「よろづよ」の八首の歌からなる八社さまとは、くにとこたちの命より、おふとのべの命に至るまでの八社八方の神様が順次に一首宛て詠まれたお歌であるから八社さまと申すのであります。

 

即ち「よろづよのせかい一れつみはらせど むねのわかりたものはない」と仰せられ、「よろづよの」時間的に「世界一列」空間的に、世界を見はらして、胸のわかりたものはないと仰せられたのは、お釈迦さんが「天上天下唯我独尊」と申されたと同じ心であって、父親なる神様くにとこたちの命のお息気を伺う事ができるのであります。

 

そして、次の句「そのはずやといてきかしたことはない、しらぬはむりではないわいな」のこの御歌はおもたりの命の御歌で、父親のきつい言葉に対して、母親の慈悲の言葉で、子どもをかばっていて下さる御心を充分悟れるのであります。かくして、八社の神様が一首ずつ歌われたから、八社さまと申すのであります。

 

次に「十二下り」は、日の神様であるおもたりの命は、十二の大蛇であるとの事から、その理によって御神楽歌は十二に分けられたとの事であります。そこでこの理によりまして、時間は十二時間を単位とし、月も十二ヶ月をもって廻り、年も十二支をもって繰り返されるのであります。

 

そこで、御教祖存命当時は「十二菊」と申して赤い十二の花弁のある絞りをお勤め着物に着けて、お勤めをせられたが、これも要するに御神楽歌の十二下りと同じ理で、日の神様の十二の理によりて、巡り巡りてご守護下さる理であります。

 

尚、一言付け加えておきますが、この十二菊は皇室の十六と似通うところがあるので、遠慮してその後使わなくなって、今日では、丸に梅鉢を使っているのであります。

 

尚、舞踊として御神楽勤めを見て不思議なのは、世界普通の「おどり、舞い」から申せば手と足とは、反対に出るのであります。手が前に出れば、きっと足は後ろに出す、それで身体の釣り合いがとれて、格好が良いのであります。しかるに、お道の御神楽勤めは手と足と同じ方に出ます。

 

例えば「よろづよの」「世界一列」(形をして見せる事)で、これは、神様は、手足が調子をそろえて一つになって働く理と仰せられた事があります。しかして尚、進んで行っては又退いては又進み出るのは、これは「つくいき」「ひくいきの理」とも仰せられたのであります。斯く考えますと、お道の神楽勤めは、誠に結構な事となるのでありますが、尚このお立ち勤めに付いては、御教祖は「理振り」ともおおせられたのでありまして、即ち、神楽勤めは理を振るのでありますから、お勤めの手を振る中より理を悟り、神様の思し召しを悟る事ができるのであります。しかして、又一面理を振るのであるから、をし、つんぼにも分かるよう、手まね、身まねで教えられると云う深い神様の思し召しも含まれているのでありますから、尚々尊い理のものであると悟らねばならんのであります。

 

以上は、御神楽勤めの一般について申し述べたのでありますが以下少し、御神楽勤めの内容に深く立ち入って、御神楽勤めの深い理について御話申し上げたいと思うのであります。

 

申すまでもなく、御神楽歌は六人の人衆によって立ち勤めをせられるのであります。しかして六人が立つのは、即ち六台の理でありまして、六台の理とは、人間御宿仕込みの六柱の神様の理で、くにとこたちの命、月よみの命、いざなぎの命の男三神、おもたりの命、くにさづちの命、いざなみの命の女三神、合わせて六柱の神様の理であって、すべての物事の創まる理であります。そこで昔は男三人、女三人が立ったのでありますが、こんにちは男のみでお勤めをすることになっているのであります。只しかしお勤めに立つ者は、この理をしっかりわきまえて、おろそかにならぬよう勤めねばならんのであります。

 

次にお勤めにおいては、所謂六人のお立ちの人衆の他に、九つの鳴り物の道具がいるのであります。しかしてこの九つの道具とは、男道具の、太鼓、笛、拍子木、ちゃんぽん、かつこ、すりかねと女道具の琴、琵琶、八雲の九つであります。しかし、このうち琵琶と八雲とは昔は、三味線と胡弓とであったのが、途中で変わったのであります。しかして、この九つの道具は、如何なる理かと申しますると、九つの道具は、九の胴と申して、神様は人間の身の内にも九つの道具があると仰せられたのであります。即ち、目、口、耳、鼻、両手、両足、男一の道具又は女一の道具で、この九つを九つの胴と申すのであります。しかして、この目口鼻耳の道具が調子良く揃って働くのが、とりもなおさず陽気勤めで、お勤めにおいては、九つの道具がちゃんと一つの調子に揃ってこそお勤めが立派にできるのも同じ事であります。身上の道具に一つの狂いが来ても、陽気勤めができないようにお勤めの道具も調子狂ってはならんのであります。故に、お勤めの道具人衆に出る人もよくこの理を悟らねばならんのであります。

 

尚、九の理については、人間身上を苦の胴というばかりではなく、この世界をも、苦の世界と申すのであって、これはない世界、ない人間を御創り下された時、神様が色々と苦をお重ね下された理により苦の世界と申すのであって、夜も子の刻は、九ツで、この九ツを最初にして九ツ八ツ七ツと昔の人間時というものを勘定するのも、苦で初まりの理があるからであります。

 

尚その他にも、九という理について種々ありますが、煩雑の為ここでは省略致します。しかし、ここに一つ私共が考えねばならん事は、太鼓、笛、拍子木、鐘等男道具は、ちゃんと調子が定まっているのであります。二上がり調子、三下がり調子、上げたり下げたりする事はできません。しかるに、女道具は、琴、琵琶、八雲、皆どんな調子にも合わせる事ができるのであります。ゆえに、この理を思案すると、女というものは元来、男に合わせて通れというので、お勤めの中で女の勤め方を神様はちゃんと教えていて下さるのであります。

 

ところが、近頃の女は中々どうした、男に合わすどころですか、男女同権等とひち難しい理屈を申します。しかし神様も「女松男松の隔てない」とも仰せられているし、元々温み五分、水気五分の五分五分の世界であるから、男と女とは五分五分かもしれません。しかし、私はどうしても五分五分とは思われません。その証拠に水と火とが、カチリコンとブツカッタ時は火の方が消えるのが天理であります。この時、火が消えなかったらどうです。火事だというので、水をかけても火が消えなかったら世界は黒焼けです。故に、私は、水の方が強い水の力が六分なら、火の力は四分だと思います。即ち、男が六分で女が四分、その証拠に、四つよめさん、六つむこさんと申します。その四つが六つに勝とうとする、小が大に勝とうとするから、しよかち等という病気を病まねばならんのであります。

 

話が妙なところへ、それて行ってつまらん冗談を申し上げましたが、女の鳴り物道具がお勤めにかかる前、先ず調子を合わさねばならんというのは確かに深い理があるものと思うのであります。

 

尚、お勤めの道具に関連して、序に御話申し上げておきますが、それはお勤めに使う扇子の事であります。ご承知の通り、世間普通の扇子なれば、大概骨は、十一本であります。然るに、お勤めに使う扇子の骨は、八本であります。こんな事まで、お気づきのお方がそう沢山なからうと思いますが、お帰りになれば、教会の扇子の骨八本とはどんな理かと申すに、これは月日の両神を除いた他の八柱の道具神様の理であります。そして、日の丸の白地は水で月様であり、日の丸は、日様を現しているので、結局扇子は十社十柱の神様の理であります。

 

然して又、十柱の神様の守護を一つに集めているのが、扇子の所謂要で、これが、即ちお互いの心であります。そこで、神様のご守護を頂くには、心が要であります。故に、骨一本折れても、痛んでも、一々要を取り替えねば修繕できません。換言すれば、心取り替えねば助からない。そこで心を立て替える理が身上助かる理になるのであります。

 

以上はお勤め形式、又はお勤めの道具の理から思案して私の考えているところを御話申し上げたのでありますが、尚、お道具に関連して申し上げておきたいのは、御教祖が最初鳴り物道具の人衆を集められた時の事であります。それは、上田奈良糸(うえだ ならいと)永尾芳枝(ながお よしえ)辻とめ菊さんの三人であります。そして、増井りんさんが控えとして引き寄せられたのであります。上田奈良糸さんは身体がフラフラしてしっかりしないので、御教祖様にお伺い致す所、「胡弓の稽古せよ」との御さしづがありました。永尾芳枝さんは右の人差し指が痛むので伺うと、「三味線を申し付ける」との御さしづでありました。辻とめ菊さんは自身は何でもなかったが、お父さんの辻忠作さんの右手の出来物から娘に琴を習わせとの事であったのであります。そこで親達は如何して鳴り物を稽古さしたらよいか分からないので、鳴り物の師匠について稽古さそうとしてお願いすると、

 

御教祖のその時の御さしづには、

 

「ならひにやるのでもなければ、おしへにきてもらふのでもない。このやしきよりおしへ出すのや、おしへ出すばかりやで。せかいからおしへてもらふ事ならん。このやしきからおしへ出すのが理や」

 

と仰せられて、毎日御教祖、御手づから教へられたそうでありますが、御神楽歌の文句は申すまでもなく、その節からお手振りから、鳴り物の稽古に至るまで、皆御教祖御一人の御心より出ものであることは、真に結構な事であって、御神楽勤めと勤行するものは、この精神を忘れてはならんのであります。

 

尚、お勤めについて申し上げておきたいのは、二十一の理の事であります。即ち、お勤めには、二十一の理がつきまとうているのであります。

 

なぜならば、朝夕のお勤めにおいて、「あしきをはろうてたすけたまへ天理王命」のお勤めは、二十一遍繰り返します。ところが、「一列すまして甘露台」の勤め方は、一般教会においては、三遍ずつ三回繰り返します。しかし、この「一列すまして甘露台」のお勤めも、御本部の本勤め、即ち、甘露台を中心として、月次祭や大祭に行われる時には、七遍ずつ三回、三七、二十一回繰り返されるのであります。一般教会のこのお勤めは三回ずつ三回でありますが、その代わり太鼓は、

 

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あしきをはろうてたすけせきこむ  いちれつすましてかんろうだい

 

と七回打つので、これが三回ですから、矢張り三七、二十一になるのであります。

 

尚、「ちょいと」のお勤めも太鼓が二十一打つのが本当だそうであります。即ち、

 

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ちょいとはなし かみのゆうこときいてくれ あしきのことはいはんでな こ

 

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のようのぢとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな これはこの

 

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よのはじめだし なむてんりおうのみこと

 

これで都合二十一遍になります。しかしこんな難しい事を申しては、朝夕のお勤めで太鼓叩くのも中々難しくなってしまう。そんなに難しいのなら、今夜から太鼓叩くのもお断りというような人も出来てくる。そこで神様は、只調子さえ合わせば良いのやとも仰せられたのであります。

 

「あしきをはろふて たすけたまへ てんりおうのみこと」のお勤めについては、

 

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あしきをはろふてたすけたまへてんりおうのみこと

 

と五回打つ、これは五倫五体を現し、人間の心身の助かる理となるのであります。

 

斯く申して参りますと、お勤めには二十一の理がつきものであります。しからば、二十一の理とは如何なる事であるかと申すに、これは神様は、十、十、一の理で、二十一、即ち「じゅう、じゅう、たっぷり始まる理」とも仰せられたのであります。即ち、勤めによりて、じゅうじゅうたっぷりした楽しいせいかつの始まる事を仰せられたのであります。

 

尚、二十一の理に付いては、神様は、二十一節をはらう理ともおおせられたのであります。しかして、二十一節とは、

 

一、非道のほしい。二、出し惜しみ。三、身惜しみ。四、骨惜しみ。五、恨み。六、ねたみ。七、りんき。八、しっと。九、かんしゃく。十、かんてき。十一、我が身と人の身のへだて。十二、我が子と人の子のへだて。十三、悪口。十四、仲言。十五、笑い。十六、そしり。十七、強欲。十八、情欲。十九、自慢。二十、我慢。二十一、高慢。の二十一の悪徳を上げられたので、御教祖は八つの埃の他に、この二十一節という事も仰せられたのでありまして、二十一遍「悪しきをはらう」のは即ち、この二十一節の悪しきをはらう理になるともおおせられたのであります。

 

以上の二つの説は、二十一に対する解釈でありますが、この二十一の理は、尚一般では「三七の理」として、解釈されているのであります。即ち、三七、二十一の理であります。しかして、三七の理とは如何かと申すに、

 

(一)三は、たいしょく天の命、をふとのべの命、くにさづちの命の三柱、即ち、お産の神様の理で即ち「産」で、人間が生まれる事を意味するのであります。あるいは、又三は、三柱目の神様、即ち、くにさづちの命の理で、つなぎでありますから、現世へのつなぎでやはり生まれる事を意味します。そこで、三と七とを合わせば十となる。十は全てでありまして、三七の理は、生から死に至るまでの長い全生涯を通じての勤めとなるのであります。一から始まって、十に終わり、十からは又、十一と元に戻る。それと同じで、人は、生から始まって死に終わり、今度は十一となる即ち、今世の因縁を背負って来世生まれ変わって又一より始めるのであります。そこで、三七は人間一生の理で、全て勤めというものは、お勤めの時だけの勤めではない。全生涯を通じての永い絶えざる努力という意味に解釈するのであります。

 

(二)尚次に、三七の理は、三かける七が二十一でありますから、三かける七即ち生かける死、生死をかけての命懸け真剣の勤めの理とも解する事が出来るのであります。即ち、勤めというのは、全く真剣でなければならんのであります。そこで、世間でも水行や苦行をして願いをかける時には昔から、二十一日とゆう日を切って願ったものであります。故に、三七は生死をかけての真剣の勤めとゆう理にもなるのであります。

 

即ち、勤めと申すものは、只何かなしに、勤めているのではない。生死をかけて真剣に勤めねばならんので、真剣命懸けが即ち勤めの本領となるのであります。

 

故に、お勤めに立つ時もこの心持ちを忘れず真剣でなければならんのであります。

 

御教祖御昇天遊ばされる当時、御神楽勤めをすると、直ぐ警官が来て拘引をした。しかし、御教祖の身上が迫ると共に教祖は、益々御神楽務めを急き込みなさる。ついに、本部の先生方は、二枚の足袋に、二枚のパッチ、いつ何時拘留せられてもよい決心でお勤めをせられたが、そのお勤めが終わる共に御教祖は満足遊ばされるように、ついに御昇天遊ばされたのであります。

 

私は、この時の教祖の御高弟子の御心持ちを考える時、本当真剣味を感じるのであります。神様に受け取って頂くには、これ位の真剣味がなければならんと、私は考えるのであります。

 

これは、話は少し余談に流れたようでありますが、三七の勤めの理には、斯く真剣命懸けの理のある事を御承知願いたいのであります。

 

(三)ところが尚又、三七は「つなぐ」「切る」の理でありますから、誠の道につないでもらって、埃や罪の悪因縁を切って貰う理ともなるのであります。

 

(四)尚この三七は、人間生まれ変わる理ともなるのでありまして、これは神様が人間をお拵え下さるとき、三日三夜で宿し込み、七日七夜で生み下ろし下された。三日と七日の理で三七となるのでありまして、三七の勤めの理によりて、人間が生まれ変わるのであります。この理をもって、伊勢の大神宮は二十一年目に建て替えられるのでありまして、鶏などでも卵を抱いてから、三七二十一日目に生まれ変わって雛子となって生まれ出るのであります。

 

(五)尚、三七の理は、三式は切る理と解釈する事もできるのでありまして、これは、人間一生中に最も大きな式が三つあり、しかして、その三式には、切る理が伴うのであります。即ち、誕生式には、親子の体内の縁を切って下され、結婚式では、女は割る、男は皮切りで矢張り切れるところがあり、葬式では、息の根を切り、今世の縁を切って下さるので、誕生式、結婚式、葬式の三式は、切るの理があるのでありまして、これは要するに、人間一生の事になるのであって、始めに申した、勤めは全生涯の理となるのであります。

 

(六)尚、勤めの三七の理は、陰日なたのなき理とも解せられるのであります。それは、又何故であるかと申すに、全ての物には全て陰日なたがあり、表裏があります。例えば、畳にしても皆様の着物にしても、裏表があり、神様は人間の心にも裏表あると仰せられます。しかるに唯一つ裏表のないものがあります。それは何であるかと申しますると、双六のサイであります。成るほどサイには、東西南北、上下があるますが、裏表はありません。そして、東と西、南と北、上と下との目の数を合わせば、それぞれ、七となるのであります。一の反対側に六があり一と六で七、二と五で七、三と四で七、七が三つでサイシとなり、そして裏表、陰日なたがありません。そこで三七の理は、陰日なたのない理となり、昔から一般にサイを魔除けに用いますが、即ち東京のおとりさんの熊手、大阪の十日恵比寿の笹等によくくっつけてあるのでありまして、サイの現す三七の理は、魔除けの理となるのであります。

 

斯く申し述べて参りますと、お勤めの三七の理には中々深い理になるのでありまして、これを要するに、お勤めと申すものは、人間一生中の永い勤めであり、生死をかける真剣命がけのものでなければならず、又陰日なたがあるべき筈のものではなく、御神楽勤めの理により悪しきは祓われ、人間が生まれ変わるのであって誠に深い数々の理が含まれているのであります。

 

以上、色々と申し述べて参りますと、お勤めの三七の理には、中々深い理になるのでありまして、これを要するに、御神楽勤めの形式、内容から御神楽勤めの理に付いて私の考えているところを申し述べたのでありまして、勿論これによって御神楽勤めの意義を全部言い尽くしたのではないのであります。尚この他その人々の悟りにより、色々の異なった解釈もある事と思うのであります。しかし、只今私が申し述べましたところによっても、御神楽勤めというものはどんなに尊い理のあるものであるかという事位は、ほぼお分かり下さった事と思うのであります。

 

しかして、昨日も前会長からお話がありました様に、本年の大教会の布教方針として、この御神楽勤めを毎夜各教会において勤行する事となったのであります。そこで皆様としても爾後毎夜お勤めをして頂きたいのでありますが、それと同時に御神楽勤めのこの尊い理を充分悟って頂きたいのであります。

 

尚、最後に、御神楽勤めに関連して私から御願い申し上げたいのは、日々の皆様の御勤めの点についてであります。何故なれば、神様の前においてのお勤めばかりが御道のお勤めではないのであります。先程も申しましたように勤めというものは、陰日なた、表裏があってはならんので、表の勤めが充分出来れば、又裏の勤めも充分出来ねばならんのであります。そこで、毎日夜になって教会で神前にお勤めをせよという大教会の方針の裏には、昼間、人の為に助け一条の勤めをしっかりやれという腹があるのであります。この表裏の勤めを全うせねば、ほんに勤め一条を全うしたという事ができないのであります。

 

そこで、尚この日々の勤めの事に付いて一言したいのでありますが、私は、御神楽勤めの精神が同時に又、お互いの日々の勤めの精神でなければならんと思うのであります。そこで、御神楽勤めにおいて、唱える歌、立って舞う動作、全て御教祖様によりて始められた型をそのまま今日同じように唱え行うのでありますが、日々の勤めにおいてもお互いは、教祖の思し召しのままに、教祖の残された手本雛形をそのままを口にし、行い現さねばならんものと思うのであります。

 

しかして、御神楽勤めには、真剣の理があり、一生を通じての長い勤めの理があり、陰日なたのない理があるように、お互いの日々の勤めにおいても、真剣であらねばならんのであります。しかして、ある時は、一生懸命にやっては又いづむというようではならんので、一生を通じて変わらぬ精神で気長く勤めきらねばならんのであります。しかして又、陰日なたがあってはならんのであります。しかして、この神楽勤めの理をお互いが、日々の生活に移して実行する時は、丁度御神楽勤めをやった後はなんともいえぬ嬉しい、楽しい気持ちになるように、お互いの生活も楽しい、明るいものとなる事が出来るのであります。

 

勤めの理について神様は、「つとめはつなぐ理」と仰せられた時がありますが、即ち、「つ」というのは、たいしょく天の命の理で切る理であると申せられているのであります。しかして、勤めとは、この「つ」をとめる理で切れるところをつないぐ意味があるのであります。例えば、仏教では、お経を読むとき、坊さんはお終いに「南無阿弥陀部 南無阿弥陀部」と何遍も繰り返しますが、最後に、南無阿弥陀仏というところで鐘を打って念仏は終わるので、即ち「つ」で切れてしまうのであります。そこで、勤めの理は、切れるところもつながれてくる。命のないところもつながれ、縁の無いところもつながれ、金銭の徳の無いところもつながれて、みんな結構におさまる事になるのであります。

 

故に、神様も「ようこそつとめについてきた、じれがたすけのもとだてや」とも仰せられております。要するに勤め一条の理は、人間の助かるもとだてであり、土台となるのでありますから、人間が結構に助かり、所謂陽気勤め、陽気暮らしをさして頂くには、どうしてもこの勤めの理を全うせねばならんのであります。しかして、勤めという「理は一つ」であっても、勤めほど沢山の種類と又階段のあるものはないのであります。子どもの勤め、親の勤め、妻としての勤め、夫としての勤め、その勤め方に色々あります。

 

四五歳の子どもとしては、いたずらをせず、機嫌よう遊んでおれば、それで立派な勤めは済んでおります。万が一親の前に「お座り」という座布団の一枚でも持って行ってごらん、親は天下でも取ったように喜ぶのであります。しかし、二十、三十になって、同じ事をしたのでは親は決して喜ばない。成人に従ってその勤め方も違ってこなければならんのであります。

 

お道においても平信徒のお方は、座布団一枚親の前へ運んでも、神様は充分受け取って下さいます。しかしもう、授訓者となり、おさづけ人となり、神の名代となった以上、そんな事では、勤めが全う出来たとは、どうしても申されないのであります。しからば、おさづけ人として、如何に勤めねばならんか、lこの点については、講習会おいて皆様は充分お聞き及びの事と存じます。そこで私はそれ以上申し上げませんが、唯最後に、お勤めが大教会方針として打ち出され、各教会において、御神楽勤めの行われる今日、皆さんは、よくこの理を悟られて、日々の勤めにおいても、一層全を期して頂く事を重ねてお願い申し上げる次第であります。(完)