勤の訳

  つとめ、切留着物なれば裁ち縫い普請なれば木を切りて用材に使用するを云うなり、それ故に人間言行一致せざるは反物裁ちて縫わざる如く木を切って普請用材に仕用せざるも同様にて皆無駄事となる也。

  月日様元々泥海中より人間御造化のため永々御苦労下され又人間を作ったために此の世界を開闢せしものと仰せられる、其の容易ならざる御苦労によりて今日人間万物生々として立栄えて居るものなり。

 

苦労が此の世の元なり宝なり、神は日夜一刻も御休みなく御働き下され宇宙万物は皆人間の為に造られてあるゆえに諸動物はつまり人間のために成りて働いている。徳とは十苦と云う事なり。十柱の神様の御苦労下されて在る理が徳、故に苦労と云う事程結構なる事は此の世界に無い、しかして人間では理に叶うた苦労でなくては何にもならぬが、苦労という理が働かねば万事出来上がらぬ。神様は霊妙不可思議なる恩徳にて、陰より御苦労下さる故、世界万ずが成り立つ、人間始め一切は我の力で生まれ出て生きて居るのでない。神の力なり、胎内に宿し込むのも月日なり、生まれ出すのも月日、世話となり、此の大恩を報ゆるには、人間、他に報ゆる事なし。只、互々に人を助ける、人の為互いに勤むる、是れより外にない神の分心たる人間なれば天の理に添い、人として此の世に出たる勤め、物事勤めると云う理が無くては切れる、天の理に切れる。つとは切れる理、たいしょくてんの尊、とめるは続ぎ、くにさつちの尊。

 

此の世は日々一切万物が切れたものが続がり、又切れて続がりて此の世の用をなす。人間も此の世の縁を切られたれば生きれぬ、勤むる理が留めるという、

  苦労と云う理より尊い事はない、苦労の理より徳は出来ぬ、人間も御苦労様という事程結構な尊重すべき事はないのである。御教祖の御苦労の恩徳に依って御道が初まる。皆是れと同じ、誠が無くては人と切れる、神に切れる理となる。心勤めて神に続がる、神様には心一つたり勤めるものは無い、有形の物は世界万物神のものなり、人間の物は心一つよりない。

 

 神の道は胸三寸心の道、心の内に仕事がなくてはならん。心の働きあって形に現われ神に近づく親心を以って一列は隔てなく人を育てる、人に満足さすと云うのが親様の御道である。互い助け合い立て合いは人間の勤め、其の人を助けた世の中に勤めし効能の理によって、天理より我が身に徳を授け下さるなり。此の世は万物皆助け合い立て合いにて立つ世界故、互いに人に満足与えるという心は最も美しき心にて神の心なり。

 

人間社会天の親様即ち、天理に対する勤め、効能の有無により多少によりて神は徳を授け給う。一人限り働いた勤めただけの値は神より其の身に与え給う。

たとえば他の人に損害迷惑をかけ、或いは人を害して我に利益を得る、天理を害し、社会に功なき働きをなして、たとえ我が身に利益をなすとても人間上にては利益を得た様なれども、天の理より見れば徳を授かる事出来ぬ埃ゆえ皆働きが無駄事となり、且人を害せし罪は我に戻り我が身の天徳を欠き難儀不自由、病気災難の道を作る。故に人間は日々心の理、勤め働く理により徳を積むものと日々に徳を落としつつあるものとある。

  例えば一日に一円の価値ある働きをなし、一円五十銭の値、日当を取り、又は一円五十銭を衣食住に費やし、我が身に付けるとすれば五十銭は天理を食い込んで行く理となる。前世の徳を削って行く。

 

又一円五十銭価値ある働きをなして一円の物を我が身に付けて倹約し、足納なして行けば、五十銭の理は天理、社会に勤める我が身に陰徳を積んで行く理。しかして人間は万物の霊長故心の働きが身の働きより大きい、同じ身体を使うて働いて一日に五十銭の日当が貰えぬ者と五円六円にも当る人と有る如く、心の働き前々の徳、其の価値を有する故なり。 若し心の働きが無くして物事の目先も利かず、只々五体を働くだけの者であれば働きの効能は小なり。

又日々に人の恩を着て勤むる理なくして過分のおごり、我が身に付け過ぎ天恩に尽きれば身の徳が保てぬ。神は昔より色々と助ける道を拵えて恩の報じ道、報じ場を作りて心魂が畜性道に落ちぬよう導き下されたものなり、

 

 神言 神々のおがみ祈祷や占いや是れ人間の恩の報じ場。

     だん/\と恩が重なる、其の上は牛馬と見ゆる道があるなり。

 

 神は人間を屋形として御心入込んで世界の陽気を楽しみくださる思召し故に、人間は病、難儀不自由して苦悶すべき筈で造化下されたものでない。八方の神様一つとなって此の世界が造られ、万物一切は合い互いの理によりて生命を保つ。いわゆる生成化育して此の世が立ち行き、人間も互い助け合い、もたれ合いて立って居る。男一人女一人でも立たぬが如く、人間一人/\に単独の生活をなし得べきものでない、必ず相寄り相助けて生存の目的が達せられるものである。宇宙全体は神の一体、人間は其の一小分身であり、其の個人が集まりていわゆる団体を形成し社会的共同生活によって存在し、又進歩を見られるものである。

 

  互い助け合いは神の心、天地の理法にして即ち人間の勤めなり、もし此の助け合いの精神が無いとすればとても人生の目的は達し得られないもの也。

 

  神言 我が身立つよう、我が身一人先へ助かりたいと云う心の理は世界の理で有るなれど、自分の甘い事にしようと思えば其の場のよき事ばかりするなれど、理から見れば天の理では甘い事にならん。人を倒そうと云う心あれば我が身が倒れるが理、人を掛けようと云う心なれば我が身が掛かる、人に損を掛けたら我が身損せにゃならん事が出来て来るのが理、人を助けたら我が身が助かる、人を立てたら我が身が立つと仰せ下さる。

 

宇宙間万物は皆それぞれの役目を勤めそれぞれの働き、それそれの用をなすは皆人間の為に成ってある。間もそれぞれ家業応分に働いている。之れは一人一名の此の世に出たる勤めなり。人間の勤めは神の働きと同じ故神の代理なり、皆神様と同じ事をして居るのが人間である。

 

 食物拵え、川井戸の水はかわいと云うて、くもよみの尊、飲み食い出入り、例えば子供に乳を飲ます、大小便此の世話をする婦人は皆くもよみの尊と同じ事して居る。

  東朝明星養いの神様、又鍬鎌等を携えるとか総て働きに出る。引き出すは男の理でおおとのべの尊、西宵明星働き引き出し神様皆男女陰陽の理なり。

  神様陰陽御夫婦の理は何事にも御添い下さる。月様には日様、水には必ず温みが添いて流れ、火には水気が添いて光り、燃える目は月様なるが日様が添うて見える。

  物を云う聞く時は言葉はかしこねの尊なれども、たいしょくてんの尊が添うて切り下さらねば物云えぬと同じく、つきよみの尊働きの時は裏にくにさつちの尊が回って御働き下さる。

 人間も男一人女一人で子の出来ぬと同じ、くもよみの尊御守護の時は裏におおとのべの尊が回って御守護下さる、おおとのべの尊御働きの時には裏にくもよみの尊が回りて御働き下さる、皆人間のする事は一つもない、神様なり。

  男神は男に入込み下され、女神は女に入込み下され世界も身の内も同一に守護下さる。皆人間の自由用が神の自由用働きである。人間が寄りて社会という、人間は神の社なり、男見れば男神、女見れば女神と思えと仰せられる、何でも人を神と思う、皆社会の人は是れ神なり此の心にならねば真の敬神という、真の尊王という事に成らぬ、そこから真の愛国というものが起るなり。

 

 神言 口と心と行いと三つ違わぬように日々守らねばならん、何事も胸と口とが違うては神の心に是れは叶わん。

  誠となれば胸と口とが違いそうな事はない、なれど口と心と違うと云うはいがみかがみが有るから違うのである、真実に神の心に叶わねば如何程心尽くしたるとも自分の心には真実と思うて尽くし運んで居りても理の取り違い、通り間違い有れば心だけの理通りただけの理が現われるから通り違いはすまい、通り違い有ってはならん、汚ればかり如何程誰に相談しても叶わん月日退くと仰せられて有る也。