十下り目

一ツ  ひとのこゝろといふのは  
ちよいとにわからんものなるぞ
という理は、人間はざない者で悪しき人にも善き事
が有り、
善き人にも悪しき事が有る。それを知らずして
互々人の事は悪しき事ばかり思うようて、
腹を立て合い
また、怨み合いするのが皆ほこりや。また、
なやみも
我が身も悪しき事は思わず只善き事ばかり思うて
利益がない
と愛想尽かす人はあれだけの悪人でも
助かる事をぎねんする心は第一のほこり。
また助けるするのもその通りこの人は善人やのに利益がない
と思う心は皆違う。

神は四方正面隔てなし、くぼい所に水が寄通るよう
考えて懺悔をするにもさすにも
その心得を第一に定めて
懺悔する心を慎みさすにもその心得で考えてさせという事なり。
二ツ  ふしぎなたすけをしてゐれど  
   あらはれでるのがいまはじめ

という理は、とはふしぎな助けとは人間の身体は残らず
神の借物
神の自由用、息迄借物、立毛も神より与え物
夜、
昼の区別も、また咲く花も吹く風も降る雨も天気も
皆神の守護。その世界に住む人間はこれ迄何も知らず
にいた。
我が身体を我が物と思うていながら身体の
悩みという
事やらしらずに年月を暮らしていた。
この度身の内の悩みはもうすに及ばず
この外世界の難も
話一条で皆助かる事を天理に引き合わせて懺悔をすれば
速やかに
助かる皆人間のほこりからなり。このほこりは
皆銘々の強欲貪欲の心の現れて出るという事なり。
三ツ  みづのなかなるこのどろふう  
   はやくいだしてもらひたい

という理は、水というのは世界中は水の中なり。
世界は皆素直なり、
その中に住む人間の心を泥と
いうなり。泥というのはどういうものなら、
只人間は
食うだけと着るだけとで欲は要らず、その外世界中は
皆兄弟互々助け合い、
誠心が天の理なり。
それを知らずじて足る事を知らずなんぼでも足らん/\の
心をつのりて
いる故に十分に守護下さる親神の恩を知らず
日々に心をいづめて、恩有る親神をいづめて、
恩有る親神
をうらみる心が人間もわが子育てるのも同じ事。恩ある親を
うらみて暮らすのも
又親神の恩を忘れて暮らすのも同じ事。
これ皆泥という。これ皆早く出してしまへという事なり。
四ツ  よくにきりないどうろみづや  
   こゝろすみきれごくらくや

という理は、欲は金銀田地山林つのるばかりが欲で
はなし
にまだこの外に欲が有り、世界は皆兄弟、難渋の中を
難渋の
人も有る身に不足のかたわ者も有る。それを思わず
して
満足で暮らしていらばみつともないという心、
また、器量が善くばあほやというまた、
賢ければ
変人やなまくらや気が短いまた、酒を飲むとか
気口が合わんとか
皆段々に足る事を知らずして
銘々血分けた親兄弟夫婦の中でもそれだけの

心のつのりが有る人間の心を澄み切れ極楽や
という事なり。
五ツ  いつまで/\このことは  
   はなしのたねになるほどに

という理は、今迄世界の人間は皆ほんぶ心で我がさい
善くばよいようにと思うて
ほこりをつけて暮らす
故、身の内の悩み、不時災難も重なる世界も迫りて

身上の不自由もしたり、さしたり難渋な事が重なる。
これから神様の話を
聞いて欲と高慢もなし、案じもなし
隔てもなし、心を澄ますて暮らせば
身の悩みもなし、
若死にもなし、火損水損なし年々の凶作もなし。
どこへえ行けども
小遣い要らず人に難儀さすにも、
さし様のなき世に心次第で定め付けるという事なり。
六ツ  むごいことばをだしたるも  
   はやくたすけをいそぐから

という理は、むごいというのは人間は六体の神の
借物、その身体の肥というなり。
肥というのは
人間ば皆神の細工物なり、神の子なり。
神の自由用なれば何適わんという事なし。
適わんというのは立毛作るのも同じ事
修理に肥が
ぬけるも同じ事、人間の修理肥は心を磨くのが肥なり。

この磨きは欲もなき様、隔てもない様、高慢も無き様
人の事に如才もなき様、先案じもなき様、
何事でも
出す事は先にして我が身に付ける事は後を楽しむ
心で暮らせば天の理なり、人間の道なり。
この理を早く心を定めよという事なり。
七ツ  なんぎするのもこゝろから  
   わがみうらみであるほどに
という理は、難儀とは国常立之命様の名なり月様なり。
この神様はこの上もなき親神なり。この神様はこの
上もなき素直な心、また
世界中はかけ隔てなし、
真直な心の大きな御方なり。
人間はそれを知らずして
心に小さく、気の短い欲深い、分け隔ての深い、
怨み心の深い、案じ心
の深い、足る事を知らぬ者なり。
それで素直な心の大きなすなをな隔てのない親神様の心と
合わぬ
故当る所が身の内の悩みとなり、又不時災難となり、
また世界の難となるのも皆銘々の心から我が身怨み
で有る程にというなり。
八ツ  やまいはつらいものなれど  
   もとをしりたるものはない

という理は、病は八柱の神の世界の神の守護下さる
八方の神なり。
人間も八柱の神の守護なり、自由用なり。
その神が廻るで
病という。また世界の水難火難
作る立毛に虫がつくまた大層大風の難も有る。
その八柱の神の廻るというのも皆人間の八ツのほこりの
強い故なり。この度神様の話を聞いて、欲しい、
惜しい、
可愛い、憎い、怨み、腹立ち、嘘、追従のなき様にして
世界中の人を兄弟と心に定めて
真実に互々に助け合いの
心に定め替えて見れば、身の内悩みも
世界の難も皆助かる
事を分かれば難儀するのも心から我が身怨みという事は
銘々に速やかに分かる
というなり。
九ツ  このたびまではいちれつに  
   やまいのもとはしれなんだ
という理は、この世界に住みながらまた身の内自由用
しているのも何も知らずに
暮らしていた。この度、神様
の借物聞いて見れば身の内の自由用も息も世界も
皆借物貸物
なれば我が物はなし。
親神様の心に適わぬ人間の心でほこりをつける故
身の悩みとなる
のも、皆銘々の心通りが現れて
身の内悩みとなる事を感心した事を、病の元は知れなだ、
という事なり。
十ド  このたびあらはれた  
 やまいのもとはこゝろから

という理は、十は十柱の神は十分の心働き十方へ
眼の付く所なり。
人間も平日に身の悩む時には
我が程善き者は無き様に思うて暮らす内に
神様の話しに迫りて助かる事を分かりたならという
我が身の心得違いに相違ないという事なり。