九下り目

一ツ  ひろいせいかいをうちまわり  
   一せん二せんでたすけゆく

という理は、人間心一つ働きの所の事をいう。
奉公するにもまた職働きするにも定めの銭より
一銭二銭と誠に働けば世界から皆一れつに
人気が集まるで広い世界を打ちまわりて働くにも
身体が忙しい。
また定めた銭より誠ばのうて骨を
惜しめば世界に望人がのうて
世界中を打ちまわりて
苦労する道が現れる。これ皆何によらず心の
誠一つより寄るものなり。
二ツ  ふじゅうなきよにしてやろう  
   
かみのこころにもたれつけ
という理は、不自由とは十分物のない事、神の
心にもたれつくのは神は正直、心は真心、すなを

心は一筋人間もこの神の心に適う様に心をみがいて
もたれつけば何適わんという事なし。何分からんと
いう事なしするで十二分というのは皆我が心で蒔く
種やで
この事を世界中を見分け聞き分けして思案
して見よ。
人間は皆神の自由様世界も神の儘なり。
その証拠は人間という者わが身思案が便りになれば
この世うで
病む者死ぬる者も貧に暮らす者もこの世
にはなしどんな
難儀するのも皆これは神にもたれず
して我が身の心にもたれる故、
生える種の理なり。
この事を心実心改めて神の心にもたれてけば
何程の
悪人でも一夜の間にも心入れ替えて願はどんな難儀も
身の不自由も皆助けるという事なり。
三ツ  みればせかいのここにハ  
   よくがまじりてあるほどに
という理は、とは欲は皆人間心で我が身大事と思う
心は
皆欲。世界中は水と火と風とこの三つが基。
人間世界も立毛も咲く花もわく虫も皆この三つの基より
育つものなり、人間心でわが
子が生るでなし
人間心でその子の成育できるのでなし、
また、
人間心でその子の自由様させるでなし、立毛も
人間心で生えるでなし、伸びる
でなし。
夜と昼との区別も皆月日の自由様より及ばぬ事。
この基を
思案して自由用のできる親神にもたれて
心を澄まして、陽気一つにもたれるが第一なり
という事なり。
四ツ  よくがあるならやめてくれ  
   かみのうけとりでけんから
という理は、欲とは何によらず皆銘々の我が身思案は
欲という。この世というは四方正面の世界なら四方正面
もこの世を始めた月様が元夜から
始まった理でこの世
という、四方という、世界
というのも同事。
人間はあざない者で元が分
からん故にこの世に
住みながらこの世うの元を知
らずそれ故、陽気の心
を外す。また、四方正面の理も同じ
事、我が身に知らぬ
故四方へ誠心も届かず、また四方の人の
難儀も難儀
とも思わずまた、どんな心でいる人も皆これ月日の

同じ借物の身体なり。人間はその世界一つの理を知らぬ故
四方の為
にと思う心は少しもなし、我が為ばかり思う故、
四方にもまた、
我に誠を尽くす者は無き故、この世に
住みながら四方の理が迫りて我が身に迫り、悩みに
迫り込み、それ故話を聞いて懺悔の道に迫ら
にやならん
というは元はこの世の理もなし世界の理もなし我が身の心を
勝手で人間として身の自由用をできると思う心から蒔いた種が
我が身に
生やしてせつなみをするのは皆これ我がの心の種に
寄るという事なり。
五ツ  いづれのかたおもおなじこと  
   しあんさだけてついてこい
とはこの何れは五つの礼をいつれという。
この事はどういう事なら人間は五倫五体なり。
五体なれば五つの礼有るものなり。
五つの礼というは仁仁義礼智心という。
また、地水火風というのも
木火土金水というの
も同じ事なり。
この五つの礼を世界へ広むるには
一に家内中睦じい心。
二つに世界助かる心三つに
世界の人にもどの人の心のも適うよう
交際心四つに
四方へ誠運ぶ心五つに何事も我が身の勝手して

強欲どん欲の無き様にこれ第一に心定めて
この神を願う心になれという事なり。
六ツ  むりにでようというでない  
   こころさだめのつくまでハ
という理は、これは無理にどうせともこうせともいわん
皆銘々の心次第やで親神は親の方から無理はいはん
人間は皆親に無理を与える、不足を与える理なり。
思案してみよ親神の守りというのは誠一つに十分の
守り与えのは天の理やで、
誠も出さず悪気も止めず
欲しい、惜しいの根も切らず、欲高慢の心も離さず
、隔て
心の根も切らずして誠より守のない親にまた、
素直な守護する親神にいがんだ心で
直ぐ素直な
守りはでけまい。その心というは着物に例えて話する
いがんだ身体に
着せた着物は真直ぐに成るまい。
この理を思案して直の守りを欲しくば直の心に

改めるならまた歪んだ心は歪んだ守り有りと
承知せよという事なり。
七ツ  なかなかこのたびいちれつに  
   しつかりしあんをせにゃならん
なか/\というのは心一つで大きな善し悪しの理が
現れる事と
世界中の人は皆一れつに思案してみよ。
思案の内にどうでも
思案定めにやならん道が有るで
これはどういう道ならこれ迄とは違うて
今は月日の心は
元ない人間ない世界を始めたのもない食物を与えたのも
ない
文字を拵えて広めたのもこの度この世始めてから
ない助けを教えるのもまた、
ない話を聞かすもの同じ事やで。
これは皆月日の思惑年限来る故月日の急き込み一寸の事でなし

萬事世界の心切り継ぎさして十分の珍しい助けを
さして暮らそうとの年限故この儘ではいつも

同じ守りはなし善き心を定つならこの世始めて
からないまだこの上ない十分の結構の助けに
逢う事なり。
また、人間心はびかれば夢見た様に
散るや知れんでこの事しつかり思案をせにや
ならんという事なり。
八ツ  やまのなかでもあちこちと  
   てんりわうのつとめする
という理は、山というのは世界は八方八柱の神の世界神の
自由用で世界中を大和という。そのなかで勤めする
者は
あれども元を知りたる者はなし。なんぼ勤めを
しても
願を掛けても元が分からにや何にもならぬ
世界並の信心でも
心が悪なら無に成るというなり。
この度天理の信心は尚また、
これ迄ない助けない
話を聞いて助かるまた、
世界を助ける道で有るから
十分に根本で尋ねて元々の理も聞いた上で神に
願いを掛けるならという事なり
九ツ  ここでつとめをしてゐれど
   むねのわかりたものはない
という理は、人間の胸を胸という元人間は六体の
神の借物なり。
その理で娘という。息子ともいう。
睦じいというのも同じ事胸というのも同じ理なり。
胸が分かれば萬の事が皆分からにゃならん。思案
して見よ。
この世に住みながらこの世のなる事が
分からんというのは雨の降るのも
風の吹くのも
地震も津波も山の崩れも雷も知るまい。知らぬ
はずの事。
我が身の内でさい眼の光りはどういう
理やらまた、見えんのはどういう理やら食物を
食べるのもどういう理で食えるのやら、また
どういう理で食えん様になるやらどういう理で

出るやら出ぬやらまた、どういう理で痩せるやら
浮くやた腫れるやらまたどうしても寒
く成るやら
熱く成るやらさっぱり分かるまいそれでは何程に
勤めしたとても何にもならぬこの元を
詳しく聞いて
見の内も世界も萬の元を聞いて心を定めるのが
確かな信心という事なり。
十ド  とてもかみなをよびだせば  
   はやくこもとへたづねでよう
とは尋ね出よというのはこれは根本へ尋ね出て十分
我が身も世界も十分に元を聞き定めてその事を
第一として
真実あれば誠が有る。誠があれば世界
より皆人が集まる我が身も
誠を聞いて世界も誠で
諭せば元は根本も同じ理があるとう事なり。