八埃の裏表  (二)

 欲しいから惜しい、腹立ちから恨み我が身恨めば腹は立たぬ、憎いから重欲する人が可愛かったら強欲はせぬ、例えば物を買うても同じ人はどおでもかまわぬと云う心が欲故憎みと裏表人が可愛かったら値ぎりこぎりはせぬようなもの我が身可愛のは高慢がしたいから頭を高くするのは我が身可愛からだ八方に別けると八通りになって別々になれども皆裏表一つなり。

 

子と云えば北だけと思へど南と云う、北と南とが根子に根有っての八方八埃も欲しい惜しいが根也、此二つが守れたらば人間は立派になる八埃は之から生ず。人を憎む悪口仲言吹きまわすも欲から我が身可愛から人に与えぬ引き出さぬ、人を押える身引き身勝手行届かぬ高い心、我が身に欲しいから人に惜しむ、惜しむは欲しいから惜しいから欲しい、例えば我が身が人に見上げて欲しいから負惜しみ、欲を切るから人に満足与はる見分け聞分け思い切りは智恵立てるから続がる継ぐから立つ身が立ちて働くから続ぎ出来る続ぐ心ないから立てん、誠がないから惜しむ小さい心。

 

欲しい心の埃を使うが故に月様の御恩守護が分らん。惜しい心の埃が有る故に日様の御恩が分らん。以下同じ皆神様の真実を無にする止めるものが即ち八挨なり。

 

又此世界万物は八方の神様に依りて悉く造化せられたるものなれど万ず一切は八社の御苦労八通りの理より現れて有るものにして殊に人間は神の御心の現われにて神の宿り所として身体は神を祭る所也。恐れ多くも八方の神様には皆一方利きの御神徳にして八社の神が一つに纏まりて現われ下さるものが人間身体と成り霊魂は月日の分魂で有る故八社の神は月日に副いて入込み其分け下されたる神魂に付添い下さる故八社の護神徳及び御働きを一身に具備して其自由用を現わす。(それ故に恩に尽きれば牛馬とも落ちる勝手な事に神様を使うから迫る也)

 

身の内に八社の神が入込み下さるが故に其の性を受けて其心が働く即ち八方の神にて構造せられし人間故其原質の性より出ずる八通りの誠が働くと共に埃も八通りより生ずるなり、八つの埃は神の御心より出るものにして此本をよく悟らして頂かぬ事には天理が分らぬ御諭しは神の御心即ち天理より出るものなれば八挨が即ち諭しなり台なり。

 

此本を知らず握らず又是れを軽視し之れを別に見て居ては如何に苦心し年限重ぬ御諭しが胸に鮮やかならず神様の真実(根本心理)が治まらざれば我が心魂の掃除が出来ぬ澄まぬ。心に神宿れぬ故見分けが出来ぬ。本が分れば御諭しは実に平らな容易なもの也。

 

神言に「此の世に出た人間というは何程の理というやわからんせんでこれをよくつたえてやってくれ此の理治まれば何よの事もみなわかる」

 

 又 「八ツ聞いて八ツ説くだけではどうもならん……八つと云う理が心に治まらねばどうもならん」又「一言説いたら百巻の書物……」と仰せられたる通り天啓は一句千巻の意味を包含するものにして成人次第見えて来る神は只管我々人間の成人を待ち給う事切なり。神の言葉を味わい致するは要するに我々の悟りによるの外あらざるなり。即ち実践躬行に依って八挨を掃除すると共に神明を我が心に宿し体得するに依って分り来る絶大なる霊救の道教へ納めの道故、神言に「心に納まった理は末代の理」又「末代の出世」と仰せ下さる也。