出雲大神宮

主祭神 大国主神

三穂津姫尊

神体 御蔭山(神体山)

社格等 式内社(名神大)

丹波国一宮

旧国幣中社

本殿の様式 三間社流造

別名 元出雲・千年宮

例祭 10月21日

主な神事 粥占祭(1月15日)

鎮花祭(4月18日)

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神体とする御蔭山

手前は宮池。

 

大鳥居

出雲大神宮(いずもだいじんぐう)は、京都府亀岡市にある神社。式内社(名神大社)、丹波国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。

 

旧称は「出雲神社」。別称として「元出雲」や「千年宮」とも。

 

概要

亀岡盆地東部に立つ御蔭山(みかげやま。御陰山、御影山、千年山とも)の山麓に鎮座。古くは御蔭山を神体山として祀る信仰があったとされ、社殿は和銅2年(709年)に創建されたと伝える。

 

「元出雲」の別称は、出雲大社が出雲大神宮からの分霊とする社伝(後述)に由来する。いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲の神」と言えば出雲大神宮を指していたとされる。

 

現在の本殿は重要文化財に指定されている。

 

祭神

主祭神

大国主神(おおくにぬしのかみ)

出雲大神宮では、別名を「三穂津彦大神」や「御蔭大神」とする。

三穂津姫尊(みほつひめのみこと)

高産霊尊の子で、大国主の国譲りの際に大国主の妻となったと伝える。

配祀神

天津彦根命

天夷鳥命

祭神に関しては、天津彦根命・天夷鳥命・三穂津姫命の3柱とする説や、元々は三穂津姫尊1柱のみであるという説もある。

 

出雲大社との関係

出雲大神宮は「出雲」を社名としているが、島根県の出雲大社や同じ亀岡市内にある出雲大社京都分院(亀岡市下矢田町)とは別法人の神社である。

 

祭神の大国主神については、一般には出雲国の出雲大社(杵築大社)から勧請したとされている[1]。ただし社伝では逆に、出雲大社の方が出雲大神宮より勧請を受けたとし、「元出雲」の通称がある。社伝では、『丹波国風土記』逸文として「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるとする[2](ただし、社伝で主張するのみでその逸文も不詳)。

 

出雲大社との関係も2009年(平成21年)の社殿創建1300年を境に一層の交流が始まっている。参道に立つ「国幣中社 出雲神社」の社名標は出雲大社の元宮司・千家尊福の筆によるものである。また2014年(平成26年)に造られた正面の石碑「丹波國一之宮 出雲大神宮」の揮毫は出雲大社現宮司・千家尊祐の筆である。

 

歴史

創建

創建の年代は不詳。前述のように社伝では、『丹波国風土記』逸文として「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるという[2]。

 

社伝では、和銅2年(709年)10月21日に社殿が建てられたとする[3][4]。『古事記』・『日本書紀』には国譲りの神事が記載されるが、丹波国は出雲・大和の両勢力の接点にあり、国譲りの所由によって祀られたとされる[3]。

 

境内には横穴式石室を持つ後期古墳があるほか、西南には口丹波最大の前方後円墳である千歳車塚古墳があり、古くから御蔭山を神体として祀る氏族がいたと推測されている[5]。

 

概史

国史の初見は『日本紀略』の弘仁8年(818年)12月16日条「丹波国桑田郡出雲社、名神に預る」という記述であり、この時代にはすでに有力な神社になっていたことがわかる。

 

平安時代中期の『延喜式神名帳』では「丹波国桑田郡 出雲神社」と記載され、名神大社に列している[6]。正応5年(1292年)には、雨乞いの功を示したことから神階が最高位の正一位まで昇った。

 

鎌倉時代の吉田兼好の『徒然草』の第236段「丹波に出雲と云ふ所あり」(後述参照)の「出雲」はこの神社であり、それによればこの時期には志田氏によって立派な社殿が建てられ、京都の都人の崇敬を集めていたことがうかがえる。

 

貞和元年(1345年)、足利尊氏により現在の社殿が造営されたとされる。

 

明治4年(1871年)5月14日に近代社格制度において国幣中社に列した。また、神宮寺を現在の極楽寺に借地移転した。極楽寺所蔵で重要文化財に指定されている十一面観世音菩薩像は、神宮寺時代に安置していたものとされる。

 

戦後、現在の「出雲大神宮」に改称した。

 

神階

六国史時代における神階奉叙の記録

弘仁9年(818年)12月16日、名神に預かる (『日本紀略』) - 表記は「出雲社」。

承和12年(845年)7月16日、無位から従五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「出雲神」。

貞観14年(872年)11月29日、従四位上 (『日本三代実録』) - 表記は「出雲神」。

元慶4年(880年)6月21日、正四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「出雲神」。

六国史以後

延喜10年(910年)8月23日、正四位上 (『日本紀略』)

正応5年(1292年)12月2日、正一位 (『西園寺実兼日記』)[7]

境内

山麓

 

本殿(国の重要文化財)

本殿は室町時代前期、足利尊氏による元徳年間または貞和元年(1345年)の改修と伝える。三間社流造で、前室を有し、屋根は檜皮葺である。装飾は蟇股・手挟程度にとどめたうえ、太い木割を使用した豪壮な社殿になる。国の重要文化財に指定されている[8][9]。

 

拝殿は入母屋造妻入、檜皮葺で舞殿形式。明治11年(1878年)造営。

 

境内には「真名井の水」と呼ばれる湧き水がある。マグマの接触変成岩層から湧き出している。古来より御神水と崇められてきたという[10]。

 

境内

背景に御蔭山。

拝殿

境内鳥居

 

山中

古来より御蔭山は国常立尊の鎮座する地として禁足地とされた。現在も立ち入り可能なのは、国常立尊を祀る磐座までの参道のみである。

 

古墳 - 横穴式石室を持つ、5世紀から6世紀前の後期古墳。

御蔭の滝 - 祭神:龍神乃神。

 

磐座

本殿後方に鎮座(御蔭山中腹の磐座とは別)。

 

 

 

古墳

 

摂末社

かつては36社の摂末社を有していたと伝わる。現在は下記の8社が残る。

 

摂社

 

上ノ社

 

黒太夫社(下ノ社)

上ノ社

祭神:素戔嗚尊、奇稲田姫命

祭神は大国主神の祖先にあたる。社殿は文化10年(1813年)の造営とされる。大型の一間社流造で、一間社としては珍しく前室を有する[8]。

黒太夫社(下ノ社)

祭神:大山祇神、猿田毘古神

西鳥居を出た突き当たりに鎮座。黒太夫社は当地の氏子・祖先神を祀ると伝える。そのため、本殿の参拝前に黒太夫社に参拝するのが正しい順番とする。

末社

笑殿社

祭神:事代主命、少毘古名神

事代主命は大国主神の御子神。少毘古名神は、大国主神とともに国づくりに関わったとされる神

春日社

祭神:武甕槌命、天児屋根命

磐座が祀られている。祭神は藤原氏氏神で、春日社の領家職が一族の一条家や西園寺家であった事に由来する。

稲荷社

祭神:宇迦之御魂神

崇神天皇社

祭神:御真木入日子印恵命(崇神天皇)

祭神は、崇神天皇により再興されたという社伝に由来する。

弁財天社

祭神:市杵島姫命

宮池に鎮座。

祖霊社

祭神:歴代神職など出雲大神宮縁者

黒太夫社境内に鎮座。