一ツ いちにだいくのうかがひに
なにかのこともまかせおく
という理は、大工というのは元神の社から一に渡す
のが大工に渡すという。その大工より天から御諭し
下さる言葉を真実に行い心に定めて世界を助ける
心の人は誠に大きな工なり。これも大工という。
この工を厭わずして人も世界も助けたいと思う
心の者を神が守護して如何なる事でも助けさす
という事なり。
二ツ ふしぎなふしんをするならば
うかゞひたてゝいひつけよ
という理は、紋型ない普請するのは伺い立ててするがよい。
また、身の内の普請も心の懺悔また心の定精一杯に尽くして
分からん時には親にもてれて伺い立てて、またその伺いの
言葉を悟りて懺悔さす事をいい付よという事なり。
三ツ みなせかいからだん/\と
きたるだいくににほいかけ
という理は、来たる大工というのは、寄り来る人に
隔てけれどその来る人の心に隔てが有る。隔てと
いうのは何程悪気、強欲な者でも一夜の間にも
心入替えてその心を生涯忘れぬ者を大工という。
香いというのは月日二柱の親神が心を映す所が
香いという。これを大工というまた、細工という。
細工というのはどういう事なら道具でも
損じた物を細布という人間も心を損じたら身体を損じ
所心の懺悔をさして身体を自由用さすのは細工といい、
大工という、これに香ひを懸けるとう事なり。
四ツ よきとうりやうがあるならば
はやくこもとへよせておけ
という理は、棟梁というのものはどういう事なら
棟梁とは十方の領なり。十方とあれば人間も世界も
十分の領なり。十分の領なれば十分心を定めて
十分世界を助けて十分の人の難渋を憐れみて銘々も
自由用自在の守護を受ける者を寄せて置けとの事なり。
五ツ いつれとうりやうがよにんいる
はやくうかゞひたてゝみよ
という理は、四人とうのは神は四方正面四方一同に
助けたいとの思召で四人という、またよ人ともいう。
餘人ともいうのは沢山にその心に適うる者要とういう事なり
六ツ むりにこいとはいはんでな
いづれだん/\つきくるで
という理は、無理にどうせともこうせともいわん難しい
と思えば懺悔して心さだめて何にんもならん。
また、神は六句の守護六句の世界なれば、人間は
六体の借物であれば六句の守護に隔て心が有る故に
我が心で難しいなるし、仕易い事が難しいで
無理な事が仕易いと思う心を親はどうせこうせと
もいわんまた、助けするにもその通り、無理な
懺悔はさすに及ばず、何れ後悔する日がある事なり。
七ツ なにかめつらしこのふしん
しかけたこならきりはない
という理は、何かこれ迄紋型ない話を聞かして人間の
助けをするのに人間心を取らすのは難しい。人間心は
凡夫心という。凡夫とは思う事の多い者。その心をすつ
きり取らすばなか/\一寸の事でなし。一寸取りても
たんと付ける、付けたり取りたり取らしたりする心を
定めさすのは中々容易でいかんという事なり。
八ツ やまのなかへとゆくならば
あらきようりやうつれてゆけ
という理は、山というのは世界中の凡夫心。天理の道を
知らぬ者を山というなり。その所へ助けに行く
大工は荒木棟梁というのは、こまこい話では聞き分け
ができぬ、聞き分けがでけねば懺悔がでけぬ、懺悔が
でけねば神も助けがでけんから荒い話しでも聞き分け
て荒い懺悔をしただけでも神は助けたいとの
手引きで利益を渡すとの事なり。
九ツ これはこざいくとうりやうや
たてまへとうやうこれかんな
という理は、小大工とうのは神の道も知り理も段々と
聞き分けて心を定めて人を助けている内に心が違うて
身体の違うた者は懺悔をさすのは荒い話ではいかん。
理の理を教え元の元を聞かし道の道を調べて誠に誠の
有るないを考えて世上世界の理と天の教えの理とを
引き比べなに就いてもぬけ目の無きようい諭する者を
小大工棟梁とう、この心にみがきにみがきを懸ける者を
これ鉋というなり。
十ド このたびいちれつに
だいくのにんもそろひきた
という理は、何様の事も神の自由用の通りに
道明けをさす人数も皆それぞれに国々所々に
でけ立来る事をいうなり。