春日大社創建1250年記念として、明治政府により合祀されていた春日信仰の中核をなす龍王社が復活した。
春日信仰とは龍王信仰である。
龍王社の近くに水谷神社が存在する。
春日原生林の原水といわれる聖流・水谷川の里宮であり春日大社最古の神社である。
この水谷神社御祭神こそ春日信仰の元来の神である。
素戔鳴命と奇稲田姫命である。そして大己貴命である。
谷神社から更に源流をたどると奈良で有名な月日亭がある。
その月日亭の近くの水谷川の川底には月日の磐がある。
春日信仰とは月日信仰であった。しかし現在何故か
川底に放置されている月日の磐が真実の春日信仰を物語っている。
春日信仰とは月日親神の信仰である。
素戔鳴命=月輪=龍王=国常立命=水
奇稲田姫命=日輪=大蛇神=面足命=火
縄文時代より連綿と続く春日信仰の本質は月日親神信心である。
春日大社の神体山、端整な円錐形の山容の御蓋山(「みかさやま」や「おんかさやま」と読む・297m)は、奈良市一の聖地と言えるだろう。この山は大社の主祭神・武甕槌命が神護景雲2年(768)11月9日、降臨した地であることが「春日神社小志」に見え、その日に春日大社の社殿が造営されたことになっている。が、大社の境内や御蓋山山頂からは、それより古い祭祀跡遺構が発掘されており、三輪山のように、御蓋山と春日大社のある地は、古代信仰の場であったことが伺える。
古代出雲王朝の文化圏であったのだろう。武側天率いる唐人グループが武力で倭を乗っ取り、春日信仰地域を自ら英雄を祀る地域に変更したのであろう。
若宮へ行く途中にで一段下がったところに金龍神社が北向き建てられている。貶める意図を感じられる。金龍神社は本来春日若宮に祀られるべき神社ではないのか?
春日大社の摂社である若宮の御祭神は、大宮(本社)の第三殿天児屋根命と第四殿比売神の御子神であり、その御名を天押雲根命と申し上げます。平安時代の中頃、長保五年(1003年)旧暦三月三日、第四殿に神秘な御姿で御出現になり、当初は母神の御殿内に、その後は暫らく第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神と仰がれていました。
長承年間には長年にわたる大雨洪水により飢饉が相次ぎ、天下に疫病が蔓延したので、時の関白藤原忠通公が万民救済の為若宮の御霊威にすがり、保延元年(1135年)旧暦二月二十七日、現在地に大宮(本社)と同じ規模の壮麗な神殿を造営しました。若宮の御神助を願い、翌年(1136年)旧暦九月十七日、春日野に御神霊をお迎えして丁重なる祭礼を奉仕したのが、おん祭の始まりです。
御霊験はあらたかで長雨洪水も治まり晴天の続いたので、以後五穀豊穣、万民安楽を祈り大和一国を挙げて盛大に執り行われ、八百七十有余年にわたり途切れることなく、今日に至ります。
京都、栂尾に庵を結ぶ明恵上人は、入唐渡天(中国、インドに渡り、仏跡を巡ること)を志し、暇乞いのため、奈良の春日大社に参詣します。春日大社で、明恵は一人の神官と思われる老人に出逢います。明恵は老人と言葉を交わし、このたびの参詣が、入唐渡天のための暇乞いであることを明かします。すると老人は明恵に、日本を去ることは神慮に背くことになると言い、引き止めました。明恵が仏跡を拝むためだから、神慮に背くはずがないと反論しますが、老人はさらに引き止めました。今や仏も入滅されて時が経ち、天竺や唐に行くのも御利益があまりないことで、今や春日山が霊鷲山と見なされ、天台山を擬した比叡山があり、五台山になぞらえられる吉野金峰山もある、というように日本に仏跡と見なされる場所がたくさんあって、仏教も広まっている、と他国に行く必要のないことを強調します。ここまで言われて、明恵も心を改め、これを神託と受け止めて、入唐渡天を思いとどまりました。老人は、入唐渡天をやめるならば、三笠山に天竺を移して摩耶(釈迦の母)のもとでの誕生から仏陀伽耶での成道、霊鷲山での説法、沙羅双樹の林での入滅まで、釈尊の一生を見せようと告げ、神託を授けに来た時風秀行という者だと言って消えていきました。
神託の霊験はあらたかであり、早くも光が射し、春日野の野山は。あたり一面、金色の輝く世界となりました。草も木も仏に変わる不思議な光景が現れたのです。そこに龍神が姿を見せました。釈尊の説法を聞こうとやってきた八大龍王が、眷属を引き連れて法華の会座に座りました。そのほか多くの神々も現れ、同じく会座に座りました。やがて龍女が舞を舞い、三笠山では釈尊の一生が映じられ、明恵も入唐渡天をすっかり思いとどまりました。どれだけ尋ねようとも、この上はないと、そう言って龍女が南へ去ると、龍神は猿沢池に飛び入り、消え去りました。
春日龍神=釈迦如来=古代より認識されていた。