嘉永元年 1848年 51歳
この頃、神命によりお針子をとり裁縫を教えられ、秀司は読み書きを教えられる。
嘉永2年 1849年 52歳
嘉永3年 1850年 53歳
嘉永4年 1851年 54歳
小東まつゑ出生
嘉永5年 1852年 55歳
3女みき、櫟本村、梶本惣治郎(25歳)に嫁ぐ(はると改名)。
嘉永6年 1853年 56歳
中山家の母屋を売り払う
「櫟本の梶本家に嫁いだおはるは、中山家の母屋が奈良街道を通って奈良の方へ売られていくのを、自家の前に立って見送り、その時の悲しさは忘れることこできないゅと述懐したという。」
母屋の売られた場所は、京終近くの永井村の通称、大亀、本名遊田平助
母屋の取り毀ちの時教祖は「これから世界の普請にかかる、祝うて下され」と人夫達に酒肴を出された。
教祖は、あの頃はネズミ一匹出てこなかったと述べられている。
こかん(17歳)、浪速・。道頓堀に神名を流す。
2/22(3/31)夫善兵衞出直(66歳)。秀司の娘お秀(しゅう)出生。
6/3 ペリーが浦賀に来航
安政1年 1854年 57歳
11/5(12/24)梶本亀蔵(長男)出生。
長女まさ、この頃豊田村・福井治助に嫁ぐ。
をびや許しの初め(3女はるに、内からのためし、出産当時、大地震にもかかわらず安産。)
6月13伊賀、伊勢、大和、近江に地震が発生。~15日
11月4日東海道死者600人
5日南海道死者3,000人
安政2年 1855年 58歳
残った田地を3町余りを年切質に入れて施される。以後10年間、貧のどん底の道を通られる。
10月2日江戸死者7,000人地震発生
安政3年 1856年 59歳
足立重助の娘の足の立たないのを救けられる。
8月関東を台風が襲い、大きな被害を出した。当時、日本には外国船が頻繁に来航、通商条約がむすばれ人心は動揺していたが、このような時の大きな災害で幕府崩壊の一因になった。ハリス、下田に来る
日照りが続いて不作
安政4年 1857年 60歳
60歳を越えられた教祖は、おたすけの暇々に仕立物や糸紡ぎをして徹夜ならることも度々あった。月に明るい夜は、月の光を頼りに親子3人で糸を紡がれた。秀司もこかんも手伝って1日に約500匁(もんめ)も紡がらた日もあった。普通一人で1日に40匁、夜業加えて100匁と言われていたのに比べると、およそ倍近い働きぶりであった。
信者が初めて米4合をもってお礼参り。
11/21(1/5)梶本松治郎(2男)出生
近畿地方大地震、後日日大地震多し