71歳から80歳

 

慶応4年 1868年  71歳・

 

この当時の明治政府の思想は復古思想であった。天皇政治は、祭政一致、政教一致へと進み、政治も宗教も、教育も、一切をわが国の神ながらの道にのとってやることになる。その神ながらの道も一切のきょう雑物を交えない、純粋なものが要求された。儒教、仏教、その他一切の外来思想は、徹底的にせん除せよという、極端に方向に走って行くことになる。しかし、明治政府は「諸事一新」に力を入れ、諸外国の進歩した文明、文化を吸収することに力を入れ、宗教の取り締まりは後になる。

 

明治維新あたり、新政府は復古神道の思想を背景として、『古事記』『日本書紀』などの古典によって伝えられた古い民族宗教のなかから、国家主義的な一面をのみを取り出して、これを国教とする方針をうちだした。この方針には、天皇の古代的宗教権威を復活させることによって、人心を統合し、いままでの徳川封建政権にかえて、天皇中心の中央集権国家をいそいでつくりあげようとする意図がこめられていた。古代において、皇室の氏神として特別の地位をもっていた伊勢神宮は、近代になってふたたび国家的権威を付与さえるとともに、全国12万余座の神社は規模や格式に応じて系列化され、神宮はそれらの本宗として整えられることとなった。

 

記紀神話において、最高の神格たる位置を占め、天皇の祖神として語られている天昭大神は、すべての神社の神々の上に君臨するものとされた。神仏半然令は全国的に廃仏毀釈の運動を惹起したが、特に古刹を有する大和においては、その影響を著しいものがあった。興福寺・東大寺・多武峰などでは僧侶の還俗が相次ぎ、石上・大神・大和などの各社の神宮寺をはじめ、廃寺となった寺院はかなりの数に上っている。なかでも大和の日光と称された石上神宮の別当神宮寺である内山久寺の廃絶は、近郷の人々にとって新時代の幕開けを告げた。

 

鳥羽伏見の戦いなどこの年は戦争(戊辰戦争)により260年間余り続いた徳川幕府は終わりを告げた。教祖のお言葉通り、吉田神祇管領の公許は効力を失った。

 

明治の宗教政策

 

1年祭政一致の方針、神仏分離(廃仏毀釈)

 

2年大教宣布運動(三条の教則に基ずく国民教化運動)

 

5年大教宣布運動を推し進める為、大教院を設置

 

6年各府県にも中教院、小教院を置く。(明治17年廃止)

 

13日鳥羽伏見の戦い、丹波市組の無足人等山崎にて戦う

 

教祖みずからお手をつけてみかぐら歌を直接教えられる。

 

初期の信仰は田を耕しながら、くわ、すきを放り出してみかぐら歌をうたい、そしておどった。

北大和一帯はみがぐら歌の坩堝となる。

 

明治元年    1868年  71歳

 

  1月 鳥羽・伏見の戦。4月江戸城開城

 

  /14 5ヵ条の御誓文

 

  /28 神仏判然令、廃仏毀釈運動起こる。

 

/7 大豆越村山中宅に赴かれる(3/10まで)。

 

/28 てをどり稽古中、村民乱暴。

 

11/7 西田くわ(教祖妹)出直し(60歳)。

 

12月 伊豆七条村・矢追(後に喜多)治郎吉入信

 

明治2年    1869年  72歳

 

明治になり古事記・日本書紀に基づいて天皇家の先祖を神としてあがめるよう国の方針が定まったので、教祖はこの人間をつくり育てた真実の神とのはっきりとした違いを教えるため明治2年におふでさきを書かれた。

 

おふでさき第1号(正月)第2号(3月)おふでさき執筆。

 

4月末~6月初、教祖38日間断食。

 

この頃すでに、はったい粉を御供としてわたされる。

 

秀司の内妻おちゑ、屋敷から出る。

 

秀司の縁談につき平等寺村小東家に赴かれる。

 

秀司、小東まつゑ(政吉2女)と結婚

 

  この年、東京遷都、版籍訪看

 

  この年、人力車創案

 

明治3年    1870年  73歳

 

この年、「ちょいとななし」及び「よろづよ八首」を教えられる。

 

小東政吉の病気のため、こかん同伴で赴かれる。

 

/15 秀司の娘お秀出直(18歳)

 

/3 大教宣布の詔がでる。

 

 

教祖が天日火の雨、海は津波や」なになるとかんろだいつとめを咳き込まれる。

 

44日戸籍法制定

 

4月種痘法実施

 

この年、吉田神ぎ管領廃止。

 

714廃蕃置県と共に大和は奈良県と五条県となる。

 

89日散髪廃刀

 

23日華士族・平民間の痛婚許可される。

 

28日えたひにんの称が廃止、身分・職業とも平民同様とされた。

 

/19 平民の苗字使用を許可。

 

この年、吉田神祇管領廃止。

 

明治4年    1871年  74歳        

 

1月新政府は、境内地を除く寺社領地の上地を決定し、5月には、神官の世襲を廃止するとともに、社格および神官職制を制定して神社制度を整え、神社の官立化を推し進めた。これらの政策は、封建制度解体の一環でありつつ、同時に神権的な天皇を頂点に据えた日本近代国家創出に向けての基盤整備の意味を持っていた。この時期に整えられた神社制度は、後の国家神道の重要な骨組みとなった。

 

明治維新にあたり、天皇親政を打ち出した新政府は、維新当初から、古代において特別な地位を占めていた伊勢神宮の改革に着手し、これに再び国家的権威を付与するとともに、全国12万余の神社を規模や格式に応じて系列化し、神宮を本宗とする神社のヒエラルキ-を築いていった。

 

正月、 河内とさえ国教興寺村・松村英治郎、妻きく入信。

 

○4/5 戸籍法制定、

 

前年頃より、河内・摂津・山城・伊賀へ教えが伸びる。

 

/10 新貨条例制定1両=1円とする。)

 

/14 廃藩置県の詔

 

10/3 宗門人別帳廃止。

 

1120日大和一円奈良県となる

 

明治5年    1872年  75歳

 

戸籍法

 

4月教部省設置 三条の教則が国民に示される。これはそのまま神道本局の教憲になる。この教憲が天理人道を掲げる。天理は天皇が支配者になること。それを成就するために命を捧げ、天皇の世界支配を実現するのが人道です

 

天理人道とは、服従、忠義、孝行これらを徹底させること。文部省と教部省は学校教育、社会教育を通して、特に教部省は、芸人、講談師、僧侶まで教導職として使い、徹底的に天理人道を行う。

 

天皇だけが生き神様、あとは黙って仕えなさいという、日本の天皇神道を旧約聖書と同じように作りまして、この天皇の世界支配を天理、そしてそれに仕えろというのを人道、この天理人道教育を明治5年から始める。

 

そして、文部省、教部省が作られる。その文部省が今も続いている。

 

親孝行よりも、兄弟仲よくよりも、夫婦仲よくよりも天皇の戦争に捧げろというが教育勅語だった。

 

学制を発布

 

東京-横浜間に鉄道開通

 

太陽暦の採用

 

この年より日本では、公に太陽暦が採用され12月3日をもって明治6年1月1日と定められた。本年表の記述も明治6年よりこれに従う。なお教会本部の月次祭は、明治43年1月26日の改正まで陰暦を用いて執行されていている。

 

3月神祇省が廃止され、教部省が設置された。

 

教部省は、新政府の政策や政治方針を、国民に浸透させるための教化活動を目的として設けられた。ここに大教宣布運動が全国的に展開する。

 

425日教導職14級の制が定められ、神官や僧侶が教導職に任命され、ついで、28日には教導職の講説の基本として3条の教則が定められた。神道思想と開化思想とでは、一見矛盾しているように思われるが、神権的な天皇というものをいだだいた新政府が、上から専制的に開化政策を進めて行くためには、この両方の思想内容を不可欠とした。教部省は国民教化に役立つと思われる民間の諸宗教を講社として公認していく方針をとったが、教化活動の障害となるものについては取り締まりを教化し弾圧した。

 

学制発布

 

1119日わが国に太陽暦が採用されるようになり、明治5123日を明治六年11日と改め、12時間を24時間にした。

 

天理教が祭典日が太陽暦と替わったのは明治43126日からである

 

○4/25 教導職設置(17年8/11廃止)。

 

○11月大教院設置

 

○この年、初の全国戸籍調査(人口3311万人)。

 

6月頃より、75日間の断食。

 

/2 断食中、若井村松尾宅に徒歩で赴かれ、長男楢蔵の病気を見舞われる。(13日間滞在)

 

9月頃より、別火別鍋との仰せ。

 

  /19 飯降マサエ出生。

 

  /17 梶本惣次郎出生

 

  /18 梶本はる出直し(42歳)

 

  /4 前川杏助出直し(教祖兄)80歳

 

  この年、初の全国戸籍調査(人口3311万人)。

 

明治6年    1873年  76歳

 

飯降伊蔵に命じて簡単なかんろだいの模型を作成。

 

河内国柏原村・山本利八、利三郎入信。

 

1月 梓巫、市子、憑祈祷、狐下げ等の所業禁止。

 

2月 キリスト教禁制の高札撤廃

 

/10 徴兵制制定、

 

5/26 秀司、庄屋敷村戸長となる。

 

11/9 秀司宅で大教宣布説教あり(聴衆150名)

 

12月 秀司、庄屋敷村検証役に任命される。

 

徴兵制が布かれる。(戸籍制度ができたのはそのためだった)

 

その徴兵制ができたときに、教祖は今それを正さねばならぬと言って、大和神社に問答をしかけに行き、おふでさきを提出して、国の方針はこれでいいのか問われた。

 

陰暦八月、大和神社へ「おふでさき」34号を持って仲田、松尾の両名が問答に出かけのですが、その問答は、実はご神体は何かと聞いたのです。というのは大和神社というのは国譲りした大国主命を祀っています。そして、武力で国を譲れと交渉したのは天皇家。

 

大国主命は民を殺され稲を焼かれるよりは王位を譲った方が民も収穫も安全だという、自分の王位やり生命よりも民の幸せを願いました。その大国主命を福の神と讃えていたのが国つ神の神社なのです。

 

大和には天皇を祀った神社はなかったのです。この矛を私と思って祀れば民は反乱しないだろう大国主命の象徴が広矛です。「恵比寿大黒福の神」だ、私たちの神と讃えていのたが大和神社だったのです。

 

そこへ天皇の世になったら、天皇の神よりもありがたいと説いていた神主が邪魔になったのです。その神主さんを罷免して、天皇が任命した神主を据えました。

 

 昔はこのご神体は大国主命が私と思って祀れ、、これを大事にしたら国が反乱しないと言った広矛です。

 

それが昔火事で焼けていこのますから、御神体を新たにくださいという願書をこの神主に出させて、天皇家の三種の神器にします。真ん中は八尺に曲玉一個です。戦争放棄の広矛の替わりにまつろわぬ者を平らげる剣にし、収穫物の稲を祀っていた御歳の神の代わりに収穫をもたらす天照大神の象徴である鏡にします。

 

天皇家の三種の神器に祀り変えさせたのが明治7年6月23日です。

 

このように御神体を変えて、天皇家よりも民の安全と収穫をもたらした恵比寿大黒福の神と説いていた大和神社を、天皇家が一番尊い神であると話を変、えさせるために、大和の神職を集めて講習会をやってるところ教祖は論争を仕掛けたのです。権力で政権を取ったものが神ではない。

をや/\の心ちがいのないよふに  
はやくしやんをするのがよいぞや -三一
神だの親だのと唱えていても、上だからといって心得違いがあってはいけいというのです。
当時の日本は親の言うことは白が黒でもはいと言えと教育していたのです。そこで明治になるともっと
大事に君主への忠義を教えたのです。親だって心得違いがあると言い、神と唱える人間だって間違っている。
このように述べた。

そして、「その証拠は」と言って「おふでさき」を突きつけたのです。仲田儀三郎と松尾市兵衛の二人が大和神社小教院へ持って行きました。

 

 天理人道を教えるため大教院、各県に中教院、奈良では後に興福寺に移りますが初めは紀州屋敷でした。山辺郡の小教院が大和神社です。

 

天皇を神様と言っても何が尊いかという態度を教祖が取ったのです。

 

初め東京に大教院開設され、教導職による教化運動が、この大教院を中心とする神仏合同宣教というかたちで進められることになる。大教院は、教導職の教育機関であり、神仏混合宣教の中央機関でもあった。府県には中教院が設置され、管内の教導職や小教院が統括された。

 

大教院では617日に大祭、毎月17日に小祭を執行、また毎16の日には訓導以上の教導職が説教をなし、中教院もそれに準じて行われ、教導職には説教所を定めさせて一カ月に三度以上の教導を実施させた。

 

明治7年    1874年  77歳

 

おふでさき第3号(1月)第4号(4月)第5号(5月を)第6号(12月)をご執筆。

天皇制軍国主義政府は暴力を背景にして歪んだ教えを説かしている。今は良いけど先は見えない。

徴兵制の布かれる。(戸籍制度ができたのはそのためだった)

 

その徴兵制ができたときに、教祖は今それを正さねばならぬと言って、大和神社に問答をしかけに行き、おふでさきを提出して、国の方針はこれでいいのか問われた。明治7年

2月園原村・西浦弥平入信

3月 大阪空堀町 泉田藤吉入信

 

/17 奈良中教院設置

 

5月台湾出兵(12/3撤退開始)。

 

/26 秀司、庄屋敷村副戸長となる。

 

陽暦(6/18(陰暦5/5)秀司らを伴い、前川宅にかぐら面を受け取りに赴かれる。

 

陰暦6月より、証拠守りを一般に下付される。

 

6月 禁厭祈祷をもって医薬を妨げる者の取締命が出される。

 

12月 河内国大県村・増井りん入信

 

正月、神前に7~8斗の鏡餅を供える。後これを村民や信者にふるまう。後の節会の始まり。

 

10月 仲田と松尾に命じて大和神社に赴かせて神祇問答。これとりにより官憲の圧迫始まる。

 

山村御殿取り調べの翌日(12/24)、御歌3首を仲田らに遣わされる。

 

10月の大和神社神祇問答の直後、石上神官神職論破に来る。数日後、丹波市分署より警察出張、つとめ場所の神具を没収、村惣代にあずける。

 

12/23 奈良県庁から呼び出し、5名を伴い山村御殿に赴かれ、寺社係の取調べを受けられる。

 

山村御殿では役人の要請に応じて、儀三郎は辻の歌に合わせ、おてふりを行った。これ以後県庁でお屋敷のへ参拝人が出入りしないよう厳重な取り締りを始めた。

 

12/25 仲田、辻、松尾3名奈良中教院に召喚、信仰差し止めの厳命を受ける。

 

教祖が急に、「赤衣を着る。」、と仰せられたので、その日の朝から、まつゑとこかんが、奈良へ布地を買いにでかけた。

 

12/26 赤衣を召される。同日、仲田、松尾、辻、桝井にさづけを渡される。

 

教祖はおふでさきに宣言して、行った最初のかぐらつとめは、明治七年陰暦5月5日、所は前川家であることは周知の事実です。おつとめ場所でおつとめができなくなったので、明治8年6月に屋外におつとめのぢば定めを定めた。

 

1月学制にならいおやしき周辺にも次のような学校ができる。

 

名倫舎(石上村)明治7310設立41

 

名徹舎(川原城)〃7331設立71

 

この校舎に秀司が七十五銭寄付する

 

開明舎(丹波市村)〃7331設立112

 

稽徴舎(豊井村)〃7330設立48

 

2月キリシタン解禁

 

12/26日、飯降伊蔵の次男 政甚生まれる。

 

政甚を抱いておぢばへ参詣した伊蔵に、教祖は「この子は前生は破れ衣服を着て長らく苦行したるによって、そのいんねんで元のぢばへつれ帰って楽遊びをさせるのや」とも仰せられた。64歳で出直す。

 

明治8年    1875年  78歳

 

/28 讒謗律・新聞条例を制定

 

おふでさき第7号(2月)、第8号(5月)第9号、第10号、第11号(以上6月)第12号(初2首)を御執筆

明治8年6月にが書かれる。6月29日(陰暦5月26日)にぢば定めが行われ、
9月25日(陰暦8月26日)ぢばにおける初めてのかぐらづたとめが甘露台を囲んで行われてた。
おつとめを教えたこかんが死ぬ前におつとめを見たいということから行わらた。
9月27日(陰暦8月28日)こかん死亡

種、苗代の役をつとめる二人が真ん中に立ち、八人がそれを囲んでつとめる事もあった。

(増野鼓雪集参照)

 取次人というほど未だ整っていなくても、おたすけの人の自覚を持った人を月日が連れてででると言うのです。
そしてその「中で指導的な立場にいる者を人足社と教祖は言って、三人伝えられています。飯田岩次郎、
上田ナライト、山本吉五郎です。
飯田岩次郎は、「水屋敷人足社畧傅」には明治8年に人足社に定めららたと書かれているが、
小さい時から教祖の膝元で育ち、教えを学んだ人です。教祖の取次人であった、こかんが梶本の後妻となり
、妊娠して、教祖の取次人として手伝いができきなくなっている。その時期に人足社と定めららたのであろう。

/29(5/26)ぢば定め。

 

9月 中南門屋落成。以後明治16年まで、門屋にお住まい。

 

この年、「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りを、また、をびやづとめ以下11通りのつとめの手を教えられる。

 

この頃、飯降伊蔵、言上の許しをいただく。

 

9月 初旬 奈良警察署、おもな信者を召喚して信仰差止の誓約書の署名さす。

 

/24(8/25)奈良県庁より教祖、秀司に呼出状。翌日、教祖、まさ(添付)、辻(代人)出頭、留置。

 

/27(8/28) こかん出直(39歳)

 

/28 こかん出直につき帰宅を許される。こかん葬儀後、村方に天元講名を許される。

 

赤衣を目標(めど)として下付される。

 

11/27 信教の自由を口達

 

12/26 飯降政甚出生。

 

初め神仏混合による教化運動が、各宗教の独自な活動を完全に抑圧したものだったことはあきらであった。やがてこのような政教混合の抑圧政策に対する批判が欧米流の信教の自由論を背景に台頭し、真宗各派が事実上の大教院を離脱するに至るのである。

 

430日政府は教部省をもってついに神仏合併布教を差し止め、次いで、53日神仏合同教院の活動を禁止した。しかし、大教院の解散を必至とみた神道側が、神道界独自の布教機関を設置したいと政府に出願していて、すでにこの時328日には神道事務局の設置が許可されていた。

 

明治9年    1876年  79歳

 

 おふでさき第12号ご執筆。

 

 この年の中頃、秀司、信者参拝の便法として堺県から蒸風呂と宿屋の営業許可を受ける。

 

(11年3/27蒸気浴営業の堺県よりの許可、13年3月の旅篭屋営免許の鑑札が存在)

 

磯城郡小坂松田利平の願いにより雨乞いのため辻、仲田、桝井ら出向

 

8月 河内国恩智村・板倉槌三郎入信。

 

10月 園原村・上田嘉治郎、娘ナライ入信。

 

この年、帯刀禁止される。

 

 

明治10年  1877年  80歳

 

/5(12/23)たまへ出生―教祖おふでさきにてご予言(ふ7:65、66、72)

 

檜垣村・岡田与之助(後の宮森与三郎)入信。

 

/11 教部省、警視庁廃止、事務を内務省へ移管。

 

/15 西南の役はじまる。

 

この年、コレラ流行(12年、15年にも)。

 

おふでさき第13号ご執筆。

 

 年初より、三曲の鳴り物を教えられる。辻とめぎく(琴)、飯降よしゑ(三味線)、上田ナライ(胡弓)、桝井とみえ(控)。

 

5/14 丹波市村事務所より出張し、神前に神具に封印。

 

5/21 奈良警察署より秀司に召喚状。秀司40日間拘留の上罰金(御供中に薬物混入の嫌疑のため)

 

・たまへ出生のため、小東宅(まつゑ里方)へ赴かれる。

 

12月 眞之亮、下等小学第3級を卒業

 

教部省が廃止される。が、教導職制度は明治178月まで存在した。