81歳から90歳

 明治11年  1878年  81歳

 

/16 まさ復籍分家

 

/19 岡本重治郎出直し(42歳)

 

この年、医者以外の散薬販売禁止される。

 

この頃、はったい粉に代えて金米糖を御供とされる。

 

官憲の取締り河内方面にも及ぶ

 

真明講結成。(講元は秀司、世話人は仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衛、中尾休治郎ら)。

 

明治12年  1879年  82歳

 

おふでさき第14号(6月)ご執筆

 

眞之亮(15歳)櫟本の生家よりおやしきに移る(14年9/23中山家入籍)

 

土蔵(乾蔵)落成

 

/22(8/16)転輪王講社開えん式

 

/30(8/26)初めて鳴物そろえておつとめ。

 

この時飯降よしうゑは三味線をつとめた。

 

秀司、上田嘉治郎、丹波市分署にて留置される。

 

秀司、参拝者の便法として金剛山地福寺真言教会(明治6年認可)に交渉し転輪王講社結成。講社名簿(第1号~17号)作成。大和584名、河内大阪858名、計1442名この年、村田豆腐屋開業

 

東京日比谷の神道事務局の神殿が完成した年。この神殿の祭神をめぐる論争が頂点に達した年でもあった。論争は同神殿の祭神として新たに大国主神を加えるべきだとう主張の出雲派と加えるべきで無いとう伊勢派とが対立して神道会を二分した。このまま紛争が続けば、天皇の神格性の基盤となっている神道の権威そのものに傷がつきかねかい状態であった。そこで政府は、18811月勅命をもって東京に神道大会会議を開催し、事態の収拾に乗り出した。祭神論議そのものは、結局敕裁によって決着がつけられ「出雲派」の主張は退けられた。

 

明治14年  1881年  84歳

 

27日堺県は大阪府に合併せられた。従って大和国は大阪府の管轄となる。

 

おふでさき第16号(4月)ご執筆

 

5月 倉橋村・山田伊八郎入信。

 

5月上旬 かんろだい石出しひのきしん。大和講社を初め、大阪名心組、真明組なども参加。

 

  6月 巡査6名出張、まつゑ、教祖に尋問。

 

  /17(7/24)止宿届不備のかどにより後見人山沢良治郎拘留。まつゑ代人小東政太郎手紙をとられる。

 

9月 京都・深谷源次郎入信。

 

この年までに、大和国の日元・誠心・心勇・天元・河内国の天徳・栄続・真恵・誠神・敬神・神楽・天神(後の守誠)・平真、大阪の天恵・真心・真明・明心、京都の明誠などの講が結成。

 

9月下旬、かんろだい2段までできる。

 

この年、たまへ(5歳)の手よりつとめの人衆の印として十二弁の紋を人々に渡される。

 

9月 飯降さとと子供たち、おやしきに移り住む。

 

  10/7 人を集めたかどにより教祖ほか6名を拘引、科料。

 

10/8 「手続書」奈良県警察署長宛提出して中山マツゑ・母中山ミキ名名義の手続書

 

国常立尊 面足尊、国狭槌尊、ツキヨミノ尊、クモヨミノ尊、ヲヲトノベトノベ尊、帝釈天、伊弉諾尊、伊弉冊尊・・・・右十躰ノ神ヲ転輪王ト云・・・・・・・

 

  中山重吉の宿屋業認可

 

  10/12 明治23年国会開設の勅諭

 

  ○10/18 自由党結成(総理・板垣退助、明治17年解党)。

 

「こふき」を作れとの仰せにより山沢良治郎、喜多治郎吉ら教祖のお話を記す。

 

12月 大阪明心組梅谷四郎兵衛ら大阪阿弥陀池和光寺を通じて教会公認の手続書提出、しかし目的を達せず。

 

この年「拾弐下り御勤之歌」

 

明治15年  1882年  85歳

 

  /1刑法・治罪法施行。

 

  /16 立憲改進党結成(総理 大隈重信)

 

  /15 神道諸派の独立を許可

 

1,政府の神官教導職兼補が廃止され、神官は葬儀にも関係せざるものとされた。これ以降政府は、神社は国民精神の体現であり、国家の祭祀をつかさどるものであるとして、他の一般宗教に特立する超宗教としてのあつかいをするようになっていった。これが、すなわち国家神道と呼ばれるものである。これにより神官が教化活動に従事するとい姿はみられなくなった。

 

国家の祭祀をつかさどるものとして確立された国家神道に対し、宗教団体として教義の宣布を公認された神道は、教派神道と呼ばれた。政府は1876年(明治9年)に一派独立を認めた黒住教と神道修成派に加えて、1882年(明治15年)に大社教・扶桑教・実行教・大成教・神習教・御岳教などの独立を認め、次いで神道大教・禊教・神理教・の独立を認めていった。さらに1900年(明治33年)金光教が、1908年(明治41年)天理教は一派独立を認められて、合計13教派が成立した。

 

この年おふでさき第17号ご執筆。

 

  2月 教祖、まつゑほか奈良警察署に召喚、科料。

 

3月 檜垣村・鴻田忠三郎入信。

 

3月改めて講社名簿に、神清組、天神組、神恵組、神楽組、敬神組、清心組、神徳組、榊組・一心組、永神組、平真組、真実組、天恵組、真明組、明心組、信心組、真実組、心勇組、誠心組講名記載

 

/26 飯降伊蔵おやしきに移り住む。

 

  /12(3/25) かんろだいの石、教祖の赤衣類、警察に没収される。

 

かんろだい石没収(5/12)と立合って、みかぐら歌の一部改まる「いちれつすまして」

 

6月 大阪瓦屋町 ・小松駒吉入信。

 

  /18 河内国教興寺村松村さく宅へ病気見舞いに赴かれ、3日間滞在。

 

  9月 大阪豊中村で我孫子事件起きる。

 

  10/27 奈良警察 、神仏混淆のかどで神具類没収。

 

  10/28 教祖、山沢良治郎ら召喚。翌日出頭、教祖12日間、他は10日間の拘留。11/19 飯降伊蔵、教祖と入れ違いに10日間拘留。教祖出迎えの人力車150台~160台、人千数百名。教祖帰宅後乙木村山中忠三郎も10日間拘留。

 

/22(8/11) 眞之亮(17)中山家の家督を相続。

 

10月 軌道会結成。

 

10/12~10/26(9/~/15)毎日づとめ。

 

この頃、おやしきの入口に「参詣人御断り」の張り紙。しかし参拝者絶えず。

 

11/10(9/30)まつゑ出直(32歳)

 

11月 大阪土佐町・茨木元敬入信

 

11月 ご休息所のふしん始まる。

 

11/8 蒸風呂廃止。

 

11/14頃、宿屋業廃業。

 

以後3ケ年、警官の出張激しく、眞之亮は毎夜椅子にもたれて仮眠。

 

12/14 転輪王講社解消

 

この頃、村田旅館、中山重吉宿は営業

 

明治16年  1883年  86歳

 

  1月 大和川亀ノ瀬に閘門が完成(大和川の水運、大阪側とつながる。)

 

  この年、鹿鳴館開館

 

2月遠江国広岡村・諸井国三郎入信。

 

5月 神戸・清水与之助入信

 

/29山 山澤良治郎出直し(53歳)

 

この年、倉橋村・上村吉三郎、大阪/寺田半兵衛入信

 

毎月26日、参拝者多数。

 

/24 巡査巡回、鴻田らに説論。眞之亮一夜拘留。

 

4月 諸井の要請で高井ら4名遠江に布教。

 

/1(4/26)当時参拝者多数のため警察官の出張を願出る。午後泥酔の巡査、乱暴を働き、お社、祖先霊璽を焼く。

 

/15(7/13) 大旱魃。

 

三島村民の切願により雨乞いづとめ

 

教祖に伺うと「雨降るも神、降らぬも神、皆、神の自由である。心次第雨を授けるで」と仰せられた。

 

辻忠作、仲田儀三郎、飯降よしゑか赤衣を着て三味を勤める。10数名が「かぐら面」をつけて、鳴り物を入れ、「あしきはをはろうて、どうぞ雨をしっかりたのむ、天理王命、なむ天理王命、なむ天理王命」と唱えて雨乞いつとめをしたころ、大夕立となった。村人達は喜んだが、警察では近村へ降る雨まで三島村へ降らせたとの理由により水利妨害、また街道傍らで「つとめ」をしたからとて道路妨害という名目で、

 

雨乞いづとめ後、警察出張、祭具没収、一同を拘引。

 

夜、教祖を徹夜留置処分と科料を、他の者も科料処分を受けた。

 

8月 大和倉橋村、河内刑部村・法善寺村・山城梅谷村からも雨乞い勤めの願いがあり、河内刑部村・法善寺村でつとめられている。

 

10/16 巡査出張、教祖を引致。御居間の屏風などを封印。

 

11月中旬 御休息所落成。

 

11/25(10/26)真夜中、御休息所へ移られる。

 

明治17年  1884年  87歳

 

2月 神戸三宮・増野正兵衛入信。

 

/24 教祖、鴻田、奈良監獄に拘留。

 

春、佐治登喜治良(湖東大教会初代)は、今御門町の桝屋という旅館に宿営した際、たまたま宿の離れにお越しになっていた、赤衣を召された教祖から「ご苦労さん」と、声をいかけていただいて、深く敬慕の念を抱いたという。

 

4・5・6月の陰暦25~27日の間、教祖を警察署に留置。

 

/9 心学道話講究所・天輪王命の社を開設(社長・梅谷四郎兵衛)。京都名誠組の例にならったもの。

 

/28 諸井国三郎が見付警察署に提出した上申書

 

・・・・此世の始り、天地未だ開けざる時に、国常立命の御苦労被遊、伊邪那岐伊邪那美様へ始めて夫婦の情を御さづけ被成、人間拵、夫より世界万物御造り被下、国常立命様より、伊邪那美の命迄十柱の神々様、夫々請持て御守護被下ゆえに・・・・・

 

あしきはらいたすけたまへ天輪王ノ命。是れを廿一編・・・・

 

○8/11 神仏教導職廃止。教師任免は各宗派の管長に委任に変わる。

 

/18(6/28)教祖、12日間奈良監獄に拘留。出獄の日、出迎えの人力車数百台に及ぶ。

 

大阪天恵組信者竹内未誉至(みよし)「天輪教会本部」設立運動。おぢばに「天輪教会創立事務所」設置。

 

   明治18年  1885年  88歳

 

10月 教会設置運動中、教祖は真柱の理につき「しんは細いもんである。真実の肉まけばふとくなるで」と諭される。

 

/7 眞之亮ほか教会創立事務所で会合、以後設立運動本格化

 

/29 「天理教会結収御願」を大阪府知事に提出、6月18日却下。

 

/22 眞之亮ほか10名神道本局より教導職試補の補命・

 

/23 神道本局より、神道直轄6等教会の設置許可。

 

/20 岩室村金蔵寺住職ら、おやしきの門戸を破って乱入。

 

/3 「神道天理教会設立御願」を、男爵今園国映を担任として再願

 

天理大神:神道天理教会設立御願を大阪府に提出した際の添書「神道天理教会条規」および「改正論告」に初見。後者第2条によると、従来奉教主神を総称して「南無天輪王命」

 

と唱えたが、南無は梵語、天輪王命は神名でないから、「尓後古号に復帰して天理大神と尊称すべし」とある。以後「明治経典」でもこの呼び方が襲用された。

 

10/28却下。

 

秋、河内国恩智村出身、郡山在住・平野楢蔵入信。

 

○9/24 遺警罪即決例

 

○11/9 種痘規則制定

 

  明治19年  1886年  89歳

 

  /19 神道事務局(明治8年3月創設)神道本局となる。

 

教祖が櫟本分署へご苦労くだされた時は、三十年来の寒さといわれている。

 

/18(正/15) を最後の御苦労。心勇講の信者、豆腐屋旅館にて、十二下りてをどりをつとめ、警官解散を命じる。教祖、眞之亮ら櫟本分署に引致。教祖(12日間)、桝井、仲田(10日間)拘留。眞之亮、一夜留置

 

/30(2/25)眞之亮、教会設置出願のめ上京。

 

春、大和郡山・増田甚七入信。

 

/25 眞之亮、櫟本分署に出頭、取り調べを受ける。

 

/28(4/26) 神道本局管長代理古川、内海と小島大神教会長が来訪調査。地方庁認可まで大神教会の管理下にあるよう命じる。眞之亮、5ヵ条の「御請書」提出。

 

/16 櫟本分署長ら突如取り調べに来る。

 

6月には国が認めないであろうかと、神道本局によって、神名、教団名は天理王命、天理教会と指導がなされていた。

 

/22 仲田儀三郎出直(56歳)

 

/25(7/26)三輪村侠客外島市太郎ら乱入。村人ら協力して防ぐ。

 

官憲の干渉に関し「親神が連れて行くのや」「此処、とめに来るのは、埋もりた宝を堀に来るのや」「ふしから芽が吹く」などとお諭し。

 

/21(6/20)「四方暗くなりて分かりなき様になる、このときつとめの手、曖昧になこることにならんから、つとめの手、稽古せよ」と仰せられる。

 

10/21 村田幸右衛門出直し(66歳)

 

11月 東京日本橋・中台勘蔵入信

 

陵西村・植田平一郎入信。

 

12/24 眞之亮神道本局より中講義補命。天理教会長となる。

 

明治20年  1887年  90歳

 

/1 (12/8)風呂から出てよろめかれる。

 

/4 御容態急変。飯降伊蔵を通じておさしづ。

 

/5 より連日のおわびのつとめねり合い。

 

/18(正/26)正午より鳴物を入れてのかぐらづとめ。

 

飯降よしゑは三味線を勤める。→つとめ人衆の理をもらう、生涯鳴り物を勤める。

 

午後2時、教祖、現身をかくされる。

 

/23(2/)御葬祭。御遺骨頭光山善福寺墓地に埋葬

 

/25をびやつとめにつきおさしづ

 

/25(3/2)飯降伊蔵、本席となる。