十柱の神の御心と御守護


 段々と何事にても此の世は神のからだや思案して見よ

人間は皆々神の貸し物や神の自由用是れを知らんか

銘々に身の内よりの借り物を知らずにいては何も分らん

人間は皆々神の貸し物や何と思うて使うて居るやら

 

  此の世の万物一切はことごとく全智全能至妙絶大なる神の守護支配せらるゝものにして、是れに依りて発生養育し活動進歩しつゝあるものなり。有形無形の一切の現象が正しき位置を保ち絶えず生成化育して止まず。何万年立っても立つ物は立って居る、続がるものは続がって居る、引出されるものは出て居る。

 此の理が神である。誠は神なり。八方の神様は皆其の御心の理が其の御働き、いわゆる御通力である。故に人間も八社の神の御心に添うから皆其の通力が与わるなり。皆銘々の心次第なり。神も目に見えぬ、人間の心も目に見えぬもの同じ事。

 

 人間の勝手心が強いと神の御働きを止める。神より悪が強いから守護出来ぬゆえ病が生ずる。身の内に病異変の生ずるは其の受持ち御居住まい下さる神様の御心に合わん故、御守護が薄くなる。薄くなると共に其の徳が減るなり。何故なれば人間は神の御徳で立って居るもの。神様が社や厨子の内に居らるゝものでなくして、此の人体に御座る事なれば尚更其の心を保ち、行うより外はない。

 神様には心一つより勤めるものはない。神の御守護は心を辛として、心を臺として御働き下さるもの故、働く時は神の御守護と同一にして身を働かざる中は、心が働きて居る。身を働くより心を働く間が多い。其の使う心がどういう心を使うたらよいかという事を知らにゃならん。

 

  神は身の内に在る親である子と関係、人間の身体は神を祭る所である。神と人間とは相離れられぬ関係を有するもの。身体が生きて居るは神が生きて居らるゝ、神が離れたら身は生きられぬ。あたかも息が切れたら心魂はぬけてしまうから体は腐る如し。牛馬畜性とて目も見え、手足自由用叶う、温み水気の借り物には違いなけれど、心に誠という神に近く、神の心に合いたる心がなくば牛馬犬猫に違いなからん。

 

 例えば人間でも心の合わぬ、嫌いな者と暮らすのと心の合うた好きな者と暮らすのと如何であるか。こう云う心を使うては、神様に済まん、身の為に成らんという心が日々に湧いて、何時も神様に心が勤まるようになったら神に続がる。段々心が澄んで、凡人とは違うようになる。神が心に宿り給うから、神の力が入ってくる、世界が明るうなる。

 

誠という理の働き神の道は、胸三寸心一つの道。一刻の間即ち、二時間真の誠の心使えば一昼夜助かる。一昼夜の間少しも埃の心を使わず真の誠の心を使えば一と月助かる道が生ずる。一と月の間、真の誠の心使い通せば一ヶ年助かる心の道が生ずる。遂には一年中誠の心が使える様に成る。

是れ一粒万倍の理。又古諺にも百日の説法へ一つと云う如く、百日の誠の心を貫いても一度の腹立ちで心濁すとすれば、それが為百日の誠が後の戻る理。是れは神様に心を勤める理にて心の底に保つ話也。

 

  又八百屋に借りがあれば、八百屋から催促する。呉服屋に関係あれば呉服屋の帳面に記入する如く、皆心の間違いの埃も性質の異なる心の色合いの変る所、受持ち守護の神様の理で色々異なり現れる。八百屋は八百屋の看板が出ていると同じ。諺に看板に偽りなしというが如く其の看板は天理によって読む。

 

 御諭しは只病気だけの事だけで諭せるものではない。世界万物の理を知りて、見分けがつく悟り諭す。八社の神様は皆御役が違うだけ御心御神徳が違う受持ちがある。是れを一家の普請に例えて申さば、一家屋全体は月日様で其の内部を調べれば柱あれば屋根もあり建具もあれば畳もある如く、大工も石工も建具屋も間飾りも入るから柱の痛むは大工壁の落ちたは左官、屋根が傷めば屋根屋を頼む如し。

 

 月日様は親神故に月日が入込み給わねば全ての御働きが出来ない。心も誠と云えば一つで、月日様の御心なれど分解すれば皆八通り此の世は皆八通り此の神の御心を知らして頂きて我が心神に叶う故、神が心に宿って下さる。何でも神様に入込んで貰わねばどうもならん。神の御心に人間の心が合して真の幸福真の陽気生活、いわゆる安心立命、神人合一の地点に達する事なり。