(見分け聞分け思い切り善悪の切り分けさして下さる神)切るきと一切
此の神様は人間に付き見分けさせたい、聞分けさせたい、又悪因縁を切らして善き因縁に続ぎたい、思い切らしたい御心なり。日々切る事一切の守護下さる神様なり。切る事、分ける事は万物一切此の神様の理故、見分けする事。
身の内にては、産まれ出る時、親子肉縁を切り分け下さる。日々にては朝、人間目の明ける前、目切りの守護。かぎ分ける、噛み分ける、見分け聞分け、善悪の仕分けを下さる。分けると云うは皆此の神様の御働きなり。心定める、心の決まり、物の区域、心の捌け、心の発散、思い切り、諦めスッパリとした心、判定する智の働き、決断力。歯で切る、爪で切ること。腹袋の消化仕分けの御守護。
此の神様の理が無ければ世界中の物は切り分ける事が出来ない。一つにひっついて居ては、使う事も出来ない。例えば山よりは物を採って使い、海よりは魚介類、原野からは物を取って食う。衣食住皆其の位置から切り離して身に付ける如し。
世界にては刃物一切切る事の御守護下さる。又善悪の決断、粒毛草木種物一切芽切り、一年にては節分にて節分は一年の節中の初まり。悪事の芽切りたる時は、心の火で煎る、すれば鬼は外、福は内という。人間朝目切り、粒気草木芽切り、是れ初めなり。日様が温みを入れて下さって、此の神が芽切り下さる。金物はくにさつちの尊なれども、刃物に成ったらたいしょくてんの尊で、切れる身の内も、世界万事万物切れては続がり、続がったものが切れ、日々が立って居るなり。
例えば口でもつむぐは続ぐ、開くは切る皆同じ。万物事成す間は続ぎの理。一切りすれば切る理、心の切り目。例えば此の事から、あの事に移る。心の働き決断力、物のよく分る智恵の働き、万物体も精神も切り目ありて、続がり続ぎあって切り目有り。目でもあけたら切る、入れ物でも蓋をあけたら切る。今此の所から立つのも切る。言葉でも表はかしこね様なれど、たいしょくてん様御添い下さって切り下さらねば物が云えん。
又物の切り分けのよくつく者を賢いと云う。智恵は表、裏は切り分け。皆裏表は一体の理故、此の理を腹に入れて置かねば悟り諭しは出来ん。欲しいから惜しい腹立ちから恨み可愛いから高慢欲から憎み。
此の神様の理がなくては続く事が出来ん。例えば一つの家を作るにも材木材料を切って引き出し、或いは気や鉄や竹とか石とか土とか一旦切り分けて使うて、それを続ぎ合わせて一つの家が建つ如く、全ての道具でも同じ事。一旦切らねば続ぎ合わせて一つの物にする事が出来ん、万事万物一切同じ事也。
衣食住使用する物食、料理、衣類、薪炭皆同じ事。人間も胎内より切って下さらねば、引き出し下さる事が出来ぬ、切って下さるから生まれて出る。それで続がる家も立つ、万物一切同じ事草木でも芽切り下されて生え出る切る事が此の世の働きの初めなり。人間も思い切らねば人を立てる事出来ぬ。我が身欲をはなれねば、人を助けるとか社会の為に働けざる如し。悪しき心の埃を思い切りて、忘れてしもう切る故、神の心に続がる善に続がる。
人間の心にも、宇宙万物も切り分ける事が出来ざれば、此の世が立たぬ何事も出来ぬ。又全ての縁切りの守護故、心が合わぬから切って下さる。其の他、手や足を切る切り傷等も此の神様の御意見。
元々無き人間無き世界の創めより月日両神の御心によりて、此の神様切る事一切の道具として入込み人間造化成し下さるに依りて、人間にも切り分けるという力が有る也。故に、見分け聞分け、智恵の働き、心の定め、いわゆる決断力の欠乏するは此の神様の入込み徳を失うたもの也。全て八社の神様の御守護皆此の通り也。
又死ぬる時の縁切り、冥途行きと云うて目が第一番に胸に帰るから見えぬようになる。次は鼻で考える思う事が出来ぬようになる。次は口が云えんようになる次に耳が聞こえぬようになる。そこで死んだ/\と云う内にたいしょくてんの尊が息を切りなさる。寝て居る時は三つ一つの違いなり。人間日々に死んで生まれると同じ雛形なり。又昔から二月、十月、各八日山の神様と云って祭るはたいしょくてんの尊、切れ物、八つの山道具を祭るなり。刃物は皆此の神の御心の現われにて切るなり。
牛も未も八の字の角ある夜八つは鎗、八つは飯を入れるオハチかしこね様。牛は突く事に強い、又引く力の強いはおおとのべ様。馬は乗せる事に強いはつきよみ様の力。牛馬は人間五体だけの理。首より下の理が働かん故に、見分け聞分け考え、物云う事出来ざるときは牛馬と同じ理。
竹に虎を書く理は竹はくにさづち、虎はたいしょくてん、毎日世界の万事万物は切れては続がり、切れては続がりして日々が立つ。又牡丹に唐獅子は月日暖かみ水気の理。松は男の理。つきよみ、竹は女くにさつち様梅は両方和合、夫婦にて子の授かる理。
又此の神様は思い切りのよきスッパリとしたきれいな定まった心を好み給う。きれいな心とは心捌けて掃除が出来た事、人の助かると云うは病根を明らかにする見分けが付くからで、それは自分の心の掃除が出来たら皆明らかに写る見分けがつく。濁り水の中に物を入れて置く如く探らねば分らん。心澄ましたらそれが明らかに分る。自分の心を掃除せねば其の諭しが出来ぬ。
又何程聞いても分らん。心に治まらん。又世界中の事が天理故、如何なる事も皆分り知るが天理。又神の道具。世の中には犬の椀か、猫の椀見た様なきたない欲の深い心を持って通って居る者がある。そんな小さい汚い心で天理は分らん。人の性質、心の内の垢が見える筈がない故、人が助かりそうな筈はない。天理の道具、月日の取次ぎと云う事は出来ない筈。例えば鯛の浜焼きでも猫や、犬の椀に入れては食べる事が出来ぬ如く、心の掃除せねば金の玉を綾錦に包んだ様な明らかな御教祖の尊い話、陽気に勇む結構な天理の話が保たぬ。
心が小そうては役に立たぬ、間に合わぬ、人の為国の為になる様な者でなくては人間は何にもならんが、それは心を磨きて心を届かせねばならん。例え塵芥に至る迄、ことごとく天理の世界のものなれば、是れは是れだけ、是れの理と皆々見分けて学んでよく気をつけて、心広く、届いた心で理を考える如き心にならねば見分けが出来ん。我の勝手な事ばかり考え、我が田に水を引く様な事ばかり考えて居ては天理は分らん。
心の届いた目先の利く、目先の早い者は同じ物を食べ同じ体を使うても価値が違うと同じ。又心の思い切りの悪しき心定まらぬ者は身上が事情に迫って、にっちもさっちも進退決まらねば心の定まらん。其の時になったら定まる人が沢山有り。御教祖は心の定まらん者、聞いて心に定めの付かん者は幽霊や。そんな者に元気を入れて聞かせるには及ばんぜと仰せられた。到底天理の道具には成れんと仰せられた。我が心が我れの自由に行かん、と云う様な心は間違う。心は我れの自由である。我れが自由にせずして誰が自由にする、如何なる事も我れの自由なれば心を定めねばならぬ。
我の心、我れの自由、それを因縁であるから、生れ付きだからと云うてしまえばそれだけのもの。どうでもこうでも我れの心は我れの自由、人様が助かる事は我も助かる。因縁々々と思うて心にて拵えて深入りをして負けて居る故、何時迄も切れぬ。因縁だ、自由に成らんと云う様なた頼りない心なれば、天理の話を聞くに及ばぬ事になる。心の定まらぬ者は天理の話を聞いても真の意味が分らん。ゴチャ/\に成ってしまうて、心に納まらぬ。
神様は知らぬ者は仕方がない故、後回し。知った者から掃除なされる。知って行わぬ者は神の顔汚しと仰せられたのは世界に悪しき雛形を出すからなり。又前世因縁が心替えさす、因縁から心定まらん、迷うもの故、其の因縁を切る道を踏まねばならぬ。
又心を定めると云う事は、物事を思い切って足納をしてしまう事で有る。例えばあの人は思い切り思い諦めのよい人やなあ、と云うが如く、こんなつまらん事を思って居っては神様に済まん、身の為に成らぬと思ったなら直ぐに思い切って足納して、心定めてしまう。それが心の定まったので有る。悪いと思いながらグチ/\して、万事に定めのきちっとした事に無いのが心定まらんと云う。家を建てても楔を打ったら止まる。動いてはならん戸でもきちっと立てて詰めたらもうあかんと同じ事。心一決して定めたら変らん迷わん、動かん是れが此の神様の御心にて、真実御働き下さる故、人間も思い切りのよき心を御喜び下さるなり。
又一例を引けば酒を飲んでも是れでよいと云うたらそれきり、それでしまい。たとえ如何程が勧めても飲むは飲むけれどよいと云うたらそれでしまい。珍しい変った物ならばもう一杯食べて見ようかと云う様な卑しい、きたない心は定まったとは云えぬ如し。全て何事に限らず心の定まり綺麗にして、今と云ったら今、今日と云うたら今日、其の万事に心がきちっと定まらん様では見分けが付いて人の胸の内を見抜くとか、見ず知らずの人の何年前に何の間違いと云う様な全て鮮やかな事が見えん。
たいしょくてんの尊は見分けの神様、身の内世界御守護の御心を知る事、是れ、見分けの奥意を悟る所。皆神の心に叶う故、実が利く也。欲を切って心澄ますというは誠月日の心天地明らかにして万物鮮やかに目に写る如く、心の曇りを去れば明鏡に物の写ると同じことなり。