突張主(人間万物を立て下さる神立つ事一切)
此の神様は世界人間に万立ててやりたき御心にて身の立つ、会計の立つ、日々無事に立つ、相続続ぎの立つ所皆、其の心を立てたき御神心にて万事法を立てて下さる神様也。元々泥海中無き人間無き世界の時月日両神より八社の道具雛形の神様を寄せて、人間を創め世界を創造せられたるものなれば、身体の勢い有りて立つ事は一切、世界も同一、立つ事一切は此の神様に依って創まり造られたるもの故、立つ事一切、切る事一切、吹き分け一切、出入り一切と云えば人間世界万物皆同一形有る物は勿論、無形の精神上の立つ事一切此の神様なれば、八方の神様皆同じく神有りて出来たる万物及び其の心魂なればなり。
身の内にては大骨十二本小骨三百六十本の骨折れぬ様御守り下され、突っ張る力、倒れぬ力、立つ事の自由用。世界にては一日たつ、一年たつ、一代たったと万読み給う。戌亥納めの神様。草木粒毛一切辛となり突っ張りとなり、立つもの建築物一切、立って倒れぬ御守護。堅き物及び堅いと云う理は皆此の神様又万括り締りは此の神様なり。万物突っ張る時の力は此の神様の力にて、又中心と云い真っ直ぐなる倒れぬ神様なり。
此の神様の理が無ければ世界中の物事は皆グジャ/\であり、しゃんとしたものは一つも無い事になる。即ち人間動物骨無しでは立つ事も、歩む事も出来ない。草木でも風が吹いても容易に倒れぬから、花実を結ぶ。家屋建物等沢山の重荷が乗るとも挫けぬ。倒れぬ其の他立つ物一切此の神様の理で立って、倒れぬのである。人間の心にも此の神様の理が無くては何事も思惑通り成立せざるなり。
例えば、人が笑うから、人がどう云うからと云って、心のグラ/\と変る様な軟弱な定まらぬ心では、此の世の中の役に立たぬと同じ。たとえ人は如何であろうとも。我が心に定めた真実誠は一筋立て抜く、立て通すという、狂わん迷わん変わらん立ちきった心のないようなものは何事も成立成功するものではない、役に立たぬ。又此の神様御心は辛を立てると云う。君は君に立てる、親は親に立てる。上は上に、下は下に、恩は忘れぬという皆天の理を立てる、筋道を立てる。此の理がなくば社会メチャ/\にて立たぬ。
例えば百戸ある内に七十戸迄は貧乏で、三十戸は有福に立って居るとすれば、此の七十戸は天の理を立てなんだ故に立たぬなり。親を親に、上を上に、天の恩人の恩を重ね全て道を立てぬから、立たぬ立てるも続ぐも同じ理。人を立てるから続がる、続ぐから立つ、一本の木でも辛が立たねば成木せぬ、辛は中に在りて皮が続がる、辛を立てるから立つ。又木の類は皆此の神様の理なり。木の実結ぶ実乗り一切は此の神様の理。実の成るというも事の成る成就というも同じ理。但し木より取ってしもうたら、かしこね様の理となる。
成功立身者の出来たのは立ったのや、先生に成ろうとして成ったら立ったのや。人を立てるというは人に満足を与えるも同じ、人の心の思惑を達せしむる事。例えば、食べたい者には食を与え、聞きたい者には聞かす心なり。人の心の思いを立てて行く(例えば人間が神様の指図を用い、神を立てるゆえ神は神を立てるから我が身が立つ、神に続がる故、人が継がる也)
又我さえと云う心は、水くさい心。人を立てぬ、人を満足ささぬは水くさい。人を続がぬも同じ事。人を敬うという、人を大切にするという立てる理。神の仰せを行う、守って行くは神を立てる事。人の云う事用いるも同一。神の仰せ上の仰せを承りて立てるという。
身体、目、耳鼻、口、手足、胴体、指一切の働き皆目だけも、耳だけで指が一本だけでも立たぬ。皆助け合いで立つ如く、人間世界は皆助け合い立て合いなり、宇宙間の万物一切は皆互い助け合い、立て合いで此の世が立ち行く也。何かよろずの助け合い胸の内より思案せよと仰せの通りなり。
此の神様は腹立ちは御嫌いなれど、踏ん張るという立つというのが御心なり、力の神、秋の神。人間も心張りのなきものは、身体も強う成れぬが如く、例えば着物でも糊を付けシャンとしたら強い如く、心立つ、誠を立て抜く、挫けぬ、踏ん張るという心。人の為に我が身を捨てても片肌ぬいでも助けよう、男立てというが如く其の真実誠の強き心が此の神の御心に叶う。
人間の埃は、誠を立てず、人は倒しても社会を害しても我さえ立てばと云う悪に強いから反対となる。人を踏み倒し、圧倒して自分のみを立てようとするは神の世界、神の身体を倒すも同一なる故、必ず我が身が倒れる立たぬのである。
又物事を成就さすには、艱難苦労、又我が心の埃を切り抜き、全てたゆまず屈せぬ其の強き熱心を立て貫く心なくては、例えば七八分迄仕上げて、一二分の所で挫けるが如く、全て事に接して変わる、挫ける心が此の神様の徳を失いたる前世よりの性質から、苦労の極点に達したる時心を倒れては花も咲かぬ、実も乗らぬが如く、全て仕上げる心なくば心に骨の無きが如し。又理を立て誠を立てる故、此の神様の入込み守護にて立つなり。
例えば親は根なり、親は幹なり、親と云う字は立ち木を見ると書くが如く、親有りて子が有り。神様の御言葉に「親となり子となるは因縁事情から成ったもの、其の親に孝行をせず親と云う理を忘れ親に不行すればこんどの世は何になるとも分りがたない。此の理、話に伝えて置こう」と仰る通り皆前世の因縁にて親子兄弟主従君臣の定まりは天命天の定まりなればなり。
一家に取っても如何程我が身が発明で出世するとも、たとえ親が愚痴であっても、親有りて我が身の今日有るものなれば、親と云う恩を忘れ、親という理を立てて行く心がなくば我が身の理が立たぬは天の理なり。例えて申さば、如何に高慢なる下駄でも頭に被るべきにあらず足に履くもの。僅か廉価の帽子でも足に履くものに非ずして頭にかぶる如し。
天の理を立て、人を立て、誠を立てて行けば、つきよみの尊は破軍星と云うて向かって来る悪がことごとく負けてしまうなれど、此の神様の理を立てぬから立つものが立たん。人体では骨が枯れたり、腐ったり全て突っ張れぬという身が立ち行かんのである。暮らしが立たぬ、思いが立たぬ、物事成功出来ぬは、皆此の神の得を失うたものである。之れに反して此の神様の心に叶うたる人を立てるというは情け誠に依って何事も成就する。