教祖中山みきに最初にかかったのは国祖、国常立尊様である
天保九年十月二十六日、教祖様に神懸りがありました。「さあさあ我は天の将軍、国常立尊なり、この度みきの身体を神の社と貰い受けた。これに承知しない時は一家断絶」というてお降りになる。続いてまた天井でガタリと音がして、「さあさあ我は天の将軍、面足尊なり・・・・・」というておおりになる。こうして次から次へと十柱の神様皆お降りになりました。それからというものは、御教祖様の身体は神様の身体で、今まで中山家にあった沢山の田地田畑家屋敷庫まで総べて人助けのためにほどこせと仰せになるとおっしゃって、皆お恵みになったのでございます。
天保九年十月二十六日夜 十柱の神出現 訳
御心にかのうて天にうけとられました。明治三十六年より六十六年前、天保九年十月二十六日、おやさま四十一歳の御時、旬刻限の到来によって、月日のやしろとなられました。
十月二十四日からはじまった寄加持のとき、大和中の祈祷者の名人であった長滝村の市兵衛を招いて、おやさまに御幣を持たせて祈祷せられました。
おやさまに神がかって、「家内の者はじめ親族残らず、一同この席に集まれ。」と仰せられました。
親類、家内集合したところ、親神様よりおやさまの口をもってお言葉があり、
「このみき女は並人でなく、天の月日より思わくありて月日天降った。口はみきなれど心は月日。この話なるはみな月日。この屋敷にいんねんありて、みきの魂は神の霊なり。このたび月日天降るも元のいんねん。このみき女、この屋敷へつれ帰った。この屋敷、みきの身体もろとも天に任せばこの世界いちれつたすけする。これにかれこれ断りを申すならば、家内はじめ親類の末々まで断絶に及ぶべし。なにほど祈祷祈願にても除くべき者にあらず。」
と仰せられました。
人々はこの言葉に迫り、やむをえず親類一同相談の上、それならばお任せ申します。と言いなされました。
親神様は、「しかれば今日より天に任せば、この屋敷、みき女とも天の者なり。月日の自由自在。天に任すかぎりは天の指図どおり従うべし。指図にそむく時は働き出来がたし。」と申されました。夫善兵衛様は「万事お任せして従います。」
とお答えになりました。
十月二十六日夜の十二時子の刻に、月日の神が天降りたもうて、はじめて天井にてあらあらしい音が聞えました。おやさま夫婦とも何事なるかと考えられましたが、何の音ともさとりつかぬ折柄、おやさまの身体へ「くにとこたちのみことなり。」と尊名を告げられ、つぎにかわって「をもたりのみことなり。」と告げられ、続いてあと六柱の神あわせて八社の神様、共同音にて尊名を告げられ、あとにいざなぎのみこと、いざなみのみこと二神は音をなくして御名だけ知らされ、この神様の十全の守護をもって天理王命ということを世界に現わす、ということを告げてお引きになりました。これより夫婦とも眼をさまして不思議を感じられました。
以下略
国常立命の御神示により明治7年陽暦(6/18(陰暦5/5)秀司らを伴い、前川宅にかぐら面を受け取りに赴かれる。
その夜 前川家の仏間にて最初の神楽本勤が勤められた。
左資料はそのとき神・中山みき様が持参されたお筆先(外冊・前川本)の表紙
※「神示」とは、やまと言葉で実在の神が表される言葉という意味。
神・中山みき様がかねてより里方の兄(前川杏助)に制作を依頼されていたお面ができ上って、前川家にお預かりしていたものを明治七年六月十八日(陰暦五月五日)神様は長男秀司、飯降伊蔵、中田、辻、その他の勤め人衆をお供にしてお面をお迎えに来られました。その夜、前川家の仏間にて初めてお面をつけての神楽本勤が勤められました。
元の仏間
前川家の祖先は、浄土宗派でありました。この部屋は元は仏間でありましたが、後、明治元年、神様が里帰りになり、御自ら親神様をお祀り下され、それ以降は神床の間となっていた。