古来「倭」と書いたが、元明天皇の治世(在位:707年8月18日〈慶雲4年7月17日〉- 715年10月3日〈和銅8年9月2日〉)。に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。
白村江の戦がもたらしたものは「倭国の滅亡」だけではありませんでした。筑紫君薩夜麻らの帰国は、唐人2000人の「進駐」(日本書紀に記述)を日本側に告知する為になされた措置だったのです。つまり、先の大戦終結後、米軍が「進駐」してきたのと同様に、唐人が進駐してきたのです。更に、様々な資料から、唐人だけでなく、もう一方の戦勝国・新羅人も、亡国の民・百済人も、日本に流れ込んできました。日本側の史料では、彼らを日本に「帰化」したと書いていますが、実際は、日本に「進駐」したと言う方が正しいでしょう。その証拠に、その後の「親唐路線」や、朝廷内に於ける「帰化」系氏族の増加(彼らの多くが先の敗戦まで「貴族」としての特権を有していた)と言った事実が挙げられます。
元明天皇(げんめいてんのう、661年〈斉明天皇7年〉 - 721年12月29日〈養老5年12月7日〉)は、日本の第43代天皇(在位:707年8月18日〈慶雲4年7月17日〉- 715年10月3日〈和銅8年9月2日〉)。
女性天皇(女帝)の一人。諱は、阿閇(あへ)[1]。阿陪皇女(あへのひめみこ)とも。天智天皇第四皇女子。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。
藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
大和神社について(川畑 信雄)
その1 大和神社について
大和神社の祭神日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は、第十代崇神天皇により国土(土地)の守護神として、皇祖神天照大神(あまてらすおおかみ)と供に瑞籬宮(みずがきののみや。桜井市金谷付近とつたえられる)の大殿(皇居)内に並斎されていましたが、両神の勢いを畏れ同じ殿内に居ることに不安を覚えた天皇は、二人の内親王、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を斎王として天照大神を笠縫邑(かさぬいむら)に、渟名城入姫命 (ぬなきいりひめのみことに大国魂大神を託されてお祀りになられました。
しかし、渟名城入姫命は髪が抜け、痩せ細って祀ることができなくなったと崇神天皇の条で日本書記は伝えているが、大和神社の場所は記載されていません。
前社が伊勢神宮、後社が大和神社の始まりとされています。
その2 垂仁天皇の御世に現れた大国魂大神について
第十一代垂仁天皇26年10月天照大神を伊勢に遷宮された時、大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)が大水口宿禰(おおみなくちのすくね)の夢に出て言われるのは、「初めの約束は、天照大神はすべての天原(あまのはら)を治め、代々の天皇は葦原中国(あしはらなかつくね 日本の別名)の諸神を治め、自分は自ら地主の神を治めることであった。先皇は神祗をお祀りになったがその根源を知らず云々」と祀り方に不満を述べられたため、渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に命じて、神地を穴磯邑(あなしむら)に定め、大市の長岡岬(ながおかみさき)にお祀りなされた。しかし、渟名城入姫命も髪が抜け、痩せ細って祀ることができなかったので、大倭直(やまとのあたい)の祖、長尾市宿禰(ながおちのすくね)に命じてお祀りされたとのことです。
その3 大和神社が現在の地に移されるまで
『日本の神々(白水社刊)谷川健一編』では、鎮座地の「大市の長岡岬」については諸説あって混沌としている記したうえで、次の5説を紹介しています。
⒈ 大市長岡岬を城上郡(しきのかみごおり)の穴磯(あなし)神社の地に比定し、そこから垂仁朝に現在地に移ったとする説 (『大日本地名辞書』)
⒉ 大市長岡岬を長岳寺(上長岡町)の地とし、現在地に移ったとする説 (『大和全国式内祭神略記』)
⒊ 大市を城上郡大市郷とし長岡岬を
①狭井神社の西の丘陵突出部とする説。
②檜原神社の西の丘陵突出部とする説。
③巻向山山崎とする説。
※狭井神社、檜原神社は共に明治10年以降大神神社社の摂社となりましたが、その以前は大和神社と大いに関係があり狭井神社は別社であったようです。(『日本の神々 -神社と聖地- 4 大和』)
その4
現在の御旅所である大和若宮神社(中山町の大塚山古墳前方部)とする説。大市長岡岬から神山(天理市岸田町小字神山?)に移り、永久6年(1118年)の大火災後現在の地に社殿が造営されたという説。 「山辺郡誌」の引く伝承によれば、もと中山町の高槻山に鎮座していたが、奉幣使の便宜をはかって現在の地に移り、永久6年の火災後一時、旧地に戻った。その他、天正11年(1583年)の兵火で焼失した後一時歯定神社に移ったとする説もあるとのことです。
私は、大和神社創建時は、1か3の説に従いたい。つまり「大市」は「城上郡大市郷」のこととし、三輪山から穴師かけての岬に鎮座しておられた。そして、
釜口長岳寺(天理市上長岡町。古代地名;城上郡下野郷か)が神宮寺として建立された天長元年(824年)の頃には中山町に、その後、現在の地に遷られたと考えています。
その5
「城上郡大市郷(しきのかみのこおりおおいちごう)」は、『日本古代史地名辞典』によりますと、「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと。邪馬台国近畿説では卑弥呼と目される人)の箸墓古墳のある桜井市箸中を中心とする地」とあります。従いまして、箸墓古墳のすぐ北側の纏向遺跡(三世紀卑弥呼の時代の遺跡で、伊勢神宮・出雲大社と同じ建築様式の建物跡がはっけんされた)や、JR桜井線の東側巻野内(纏向遺跡の範囲内)、神地とされた穴師も含む一帯が大市郷ではないかと考えます。また、巻野内は、垂仁天皇の皇居珠城宮(たまきのみや)があったととされている所です。皇祖神天照大神が早々に伊勢に遷されたのに対し、大和神社の大國魂大神は、当時の政治経済の中枢近くに国土の守護神として祀られていたことは、上代においていかに大和神社が重要視されていたかがうかがえます。
その6
「大和神社の神々」
当初は、日本大國魂大神一座が祀られていたものと考えられるが、延喜式神名帳には三座とありいずれも名神大社と記されていることから、延喜年間(901~923年)には三座が祀られていたことになります。大國魂大神以外の二座については、諸説あるようですが、現在は「大倭神社注進状(平安末期の1167年に大倭神社の祝部大倭直歳繁が国司宛てに提出したもの)に従って、中央本殿に大國魂大神、左殿に八千戈大神(やちほこのおおかみ)、右殿に御年大神(みとしのおおかみ)が祀られています。
大國魂大神は、「大倭神社注進状」によりますと、大巳貴神(おおなむちのかみ。大国主命の別名)の荒魂(あらみたま)で大地主神(おおとこぬしのかみ)とも言い、八尺瓊(やさかに。玉の意)を御神体としている。
その7
日本書記神代上、八岐大蛇(やまたのおろち)の条の一書六にも、大国主命は大物主(おおものぬし、大和神社の祭神)神とも、大巳貴神とも言い、また、葦原醜男命(あしはらしこおのみこと)、八千矛大神、大國魂神、顕國玉(うつしくにたま)神とも言うと記されています。
一方、古事記では、素盞鳴尊(すさのおのみこと。イザナギノミコトが築紫の日向の橘の小門の阿波岐原での稧で鼻を洗った時に成り出た神で八岐大蛇を退治した)の子である大年神と伊怒比売(いのひめ、いぬひめ)の間にできた子(大国御魂神)とされています。大國魂大神は、その名の通り国土の神霊です。しかし、万葉集に山上憶良が唐遣使の航海の安全を、この神に祈る歌が出てきます。国土の神霊に航海安全の霊力があったのでしょうか。
その8
山上憶良が唐遣使の航海の安全を、この神に祈ったことは、当社の祭祀氏族である大倭直氏が関係しています。
「新撰姓氏禄」によりますと、大倭直氏は神武東征の時、水崎案内者として登場する海人族の椎根津彦(しいねつひこ。日本書記では豊後水道、古事記によれば明石海峡に最寄りの地を本實とした)を祖としており、その後、大和国造(やまとのくにのみやつこ)に任じられ、天武朝に宿禰(すくね)姓を賜った氏族です。
その海人族が祀る神として大國魂大神は山上憶良の時代になっても航海神としての神格を保持していたものと思われます。
「日本の神々」には、大倭直氏は大和宿禰として奈良時代を通じて当社の祭祀を司り、平安時代に入っても一族の名が国史に散見されるが、中世には史上から姿を消した。おそらく火災のあった永久六年の頃を境として衰えていったのではないかと記されています。
その9
左殿八千矛大神は、前述しましたように、大国主命の別名で、たくさんの武器を持つ神の意で、戦の神と考えられ、剣を御神体としています。古事記には「八千矛大神の妻の問い」として、越国に妻を娶りに出かける(平和的に越国を征服する)物語が記されていますので越国に深く関係した神と考えられます。
日本書記的には、同じ神が名前を変えて中央本殿と左殿にお祀りされていることとなりますが、大国主命は固有名詞ではなく、地祇(くにつかみ)を挿す普通名詞だとする説も唱える学者もおられますので別の神が祀られているともとれます。
右殿御年大神は、古事記によりますと、素盞鳴尊の子大年大神と香用日売(かよひめ)の間の子で父と同じように一年の穀物を掌る神と考えられ、鏡を御神体としています。
古事記のうえでは、御年大神と大国魂大神は母が異なる兄弟となります。
その10
境内末社の高龗(たかおおかみ)神社のご祭神高龗は竜神で水の神です。毎年9月23日に催される「紅しで踊り」はこの神に奉納されるもので、もともとは、男性が白いしでを持って踊る雨乞いの儀式でた。「延喜式」には、丹生川上神社はこの社の別宮と記されていますので丹生川上神社はこの社から分祀されたことになります。ここに、現在の社地は元々高龗神社の社地であったという説があります。社殿は湿地の上に土を盛ったように建てられており竜を祀るにふさわしい土地です。また、大和神社の神宮寺である長岳寺の創立が天長元年(824年)で、この頃大和神社が当寺の近くの山辺郡(やまべのこおり)にあったとすれば、丹生川上神社の創建が天武天皇の白鳳4年(675年)で、長岳寺より以前に創建されていますから、この説はあながち否定することはできません。つまり、中山町からこの地に遷ったと考えられます。
その11
神社の濠の横にある社は祖霊社です。神道では、亡くなった人は祖神(おやがみ)としてその家の守り神になると考えられています。その氏子の祖先の分霊をこの社に合祀しています。
大和神道御霊之社(旧大和教会)が発行された『身禊籠教本』によりますと、この祖霊社は、明治7年1月に明治政府の許可を得て旧本殿をここに移築し創建されたと記されています。
また、当時の官幣大社境内に祖霊社創建の許可が下されることは、全国的に例が無いほど珍しいものであるとも記し、京都八坂神社が明治10年に神社境内に祖霊社の創建を願い出たが許可されなかった例をあげています。
そして、その許可された理由としては、大和神社の財政を現在のように氏子が支えていたからである。(某長老談)と推測しています。
毎年2回彼岸の中日に「大和神道御霊之社」において、慰霊祭が行われています。特に秋の慰霊祭では、亡くなって1年以上経た御霊の分霊をこの社に合祀する式も同時にされています。
その12
また、この祖霊社には、別の御霊も合祀されています。
「戦艦大和」の艦内には大和神社の御祭神大國魂大神が分祀されていました。その理由は定かではありませんが、この神は古代航海神の神格を有していたこと、名前が同じであること、そして国土の守護神の神格を「戦艦大和」に重ねたのではないかと私は勝手に考えています。
その関係からか昭和28年に「戦艦大和」と運命を共にした英霊2,736柱の分霊が合祀されました。
しかし、合祀はされましたが長い間、慰霊はされませんでした。現在の塩谷宮司の代になり毎年8月7日「戦艦大和みたま祭」として慰霊祭が戦艦大和の関係者も含めて行われるようになり現在に至っています。
その13
二の鳥居の横にあるのが、境内摂社の増御子神社で、ご祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)の2神です。
猿田彦命は伊勢の海人族が信仰した神で瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が葦原中国に降りるとき(天孫降臨)に出迎え、日向の高千穂まで先導した神です。
天鈿女命は巫女神で天岩戸の前で踊った神。天孫降臨の際お供えをし、出迎えた猿田彦命と最初に言葉を交わした神です。
ちゃんちゃん祭りではこの神が供奉します。
増御子神社は成願寺町の横馬場に西に面して鎮座していたといいます。
「大和の古社」
高龗神社の横にある境内摂社朝日神社のご祭神は朝日豊明姫命です。「三代実録」貞観11年の条に「大和国正六位上朝日豊明姫」とあり「大和志」には、「朝日豊明姫神の祠は佐保庄村観音寺境内にあり、今妙見と称す」とあります。佐保庄にあった神社を明治8年に大和神社境内に移築されました。現在もこの神社の祭典には佐保庄区長が参列します。
その14
中山町大塚山古墳の南側に鎮座されるのが、境外末社の大和若宮神社です。御祭神は大國魂大神の母伊怒比売とも言われておりますが、現在は、本社と同じ三神が祀られています。ちゃんちゃん祭りの御旅所となっていて、祭りは大神が母に会いに行くといわれるのはこのことからでしょう。
明治維新前は古墳の前方部にあり、現在神幸式の時に神輿が安置される場所に観音堂があったのですが、神仏分離で取り壊され長谷寺の小池坊に移されたそうです。
その他境内末社として事代主神社(御祭神は事代主命で神話国譲りの際に国譲りを決定した神)厳島神社(御際神は、宗像三女神)。
境外末社として、岸田町に初代斎宮を祀る渟名城入姫神社、大和若宮神社横に歯定神社があります。
その15
大10代崇神天皇により禁中に祀られた大和神社のご祭神大國魂大神は国々に示現する国魂の神とは異なった特別の待遇を受けていたことが窺がえられます。
古くは、持統天皇6年、藤原宮地を定めるにあたって、伊勢・住吉・紀伊・菟名足(うなたり)4社と共に、朝廷より奉幣を受けていますし、式内名神大社として、祈年、月次、新嘗、相嘗祭や祈雨、止雨の際に官幣を賜っています。
また、神戸(かんべ。神社に属してその経済を支えた民)の数も多く「新抄格勅抄」によりますと天平勝宝元年(749年)から大同元年(806年)まで大和、尾張、常陸、安芸、出雲の諸国に合計327戸を与えられていたと記されています。これは、伊勢神宮に次ぐ多さであるということです。大神神社の160戸、石上神宮の90戸に比してその多さに驚かされます。
その16
また、神階は、嘉祥3年(850年)10月に従二位(この時大神神社、石上神宮は一ランク下の十三位)を授けられ、貞観9年(867年)に従一位、寛平9年(897年)には正一位を授けられています。ただ、この期間に3社の関係にどのような変化があったかは定かではありませんが、大神神社は859年に、石上神宮は867年に正一位が授けられています。しかし、延喜式神名帳の山辺郡には石上神宮より先、つまり一番最初に記載されています。
平安時代に入りますと藤原氏の隆盛により、その氏神・氏寺である春日大社・興福寺の力が増し、大神神社や石上神宮と共にその勢力に神領が侵され、特に石上神宮と大和神社は、中世には見る影がないほど衰退したようです。
余談になりますが、石上神宮は一時神宮号を称することが出来ず、官幣大社に列せられた後、明治16年に神宮号を復称することを許されたようです。
その17
永久6年(1118年)の火災では、神殿とともに3座の御神体も焼失、新たに造りなおされた(「中右記」)ものの、天正の兵火で神領の書類もろとも再び焼失し、一尺あまりの焦石を御神体としていたようです。現在の御神体は、明治7年、ときの政府より奉鎮されたものです。
江戸自体には、境内東西4町南北3町の神域を有するのみで無縁の状態であったようです。おそらくこの頃大和郷9ヵ村(新泉・成願寺・兵庫・長柄・岸田・佐保庄・三昧田・萱生・中山)が神社の経済を支えていたものと思われます。
明治に入り、同4年官幣大社に列せられ、翌年には新社殿の造営も完成しました。そして同6年古くからの伝統に従って旧大和郷9ヵ村の郷社をも兼ねることとなりました。郷社区域は明治11年の村区改正によりなくなりましたが、今なお、大和郷という名は地元に残りこの9ヵ村で大和神社を守り支えて現在に至っています。
その18
最後になりますが、ここで氏子について考えてみたいと思います。
氏神さまとは古くは同じ一族つまり氏族が祀る神さまを言い、その一族を氏子称していました。例えば、春日大社藤原氏の氏神さまで藤原氏につながる人々が氏子のように。
しかし、のちには主としてその土地の守り神=鎮守さま(産土神(うぶすながみ))を氏神さまと呼ぶようになり、その神さまに守られている地域に住んでいる人々を氏子というようになりました。
愛媛県の大三島にある大山祗(おおやまづみ)神社を日本総鎮守と言うようですが、我が大和神社こそ国土の守護神として祀られた神さまですので、「大和神社は倭国総鎮守」と言っていいのではないかと私は思います。
話は少しそれましたが、大和郷に住んでおられる方すべてが大和神社の氏子なのです。
古くから由緒ある神社を鎮守さまとしている大和郷に住む私たちは大和神社におおいに誇りをもって今後も守り継いでいきたいものです。
おわり
主な参考書籍