大和神社史

大和神社ホームページ年表史より 抜粋

 

BC475 孝昭天皇元年7月 夢告により 天照大神と倭大国魂神 を大殿の内に並祭する

BC92 崇神天皇6年9月 倭大国魂神を淳名城入姫命に託して市磯邑に祭る。然るに淳名城入姫命は髪落ち体痩せて祭ること能わず

BC91 崇神天皇7年8月 大水口宿禰等が夢を同じくして、市磯長尾市を祭主とすベきと奏ず

 

672 白鳳4年 丹生川上神社創建

 「丹生川上の主祭神高龗神は、高龗神社の分祀である。と言うことは、高龗神社の創建は、詳ならざれども、これ以前となる。」

692 朱鳥6年5月 藤原遷都にあたり朝廷より伊勢・住吉・紀伊・兎名足の四社とならんで、奉幣を受ける。

730 天平2年10月20日 山辺郡神戸稲・組み合わせて1,041束を祭祀料に当てていた。  ≪正倉院文書に記載有り『大倭国大税帳』≫

733 天平5年 山上憶良:好去好来の歌(遣唐使に送る)    万葉集

749~ 806 天平勝宝元年~大同元年 大和・尾張・常睦・安芸・出雲・武蔵の諸国に、伊勢神宮に次ぐ327戸の神戸を有していた。    『新抄帖勒符抄』

824 天長元年 長岳寺は、淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社の神宮寺として創建した。

850 嘉祥3年 従二位 『文徳実録』

859 貞観9年 従一位『三代実録』

869 貞観9年 従五位下『三代実録』   ≪朝日神社≫

897 寛平9年 正一位『社伝』    伊勢神宮に次いで重視されていた。

905 延喜5年 醍醐天皇の命により藤原時平らが編集された「延喜式」神名帳の大和国 山辺郡の筆頭に、大和坐大國魂神社三座と記されている。

1069 延久元年 新富(新泉)荘に大和神田二反『延久雑役冤帳』

1118 永久6年2月9日 火災により神殿・霊形すベてを焼失した

1167 仁安2年2月13日 「大 倭 神 社 注 進 状」を大倭神社の祝部大倭直歳繁が国司に提出

1187 文治3年2月  源頼朝は当社に国家鎮護を祈念し、その報賽に文治3年2月太刀一振を奉納されたことが庁中漫録に記されている。

1407 応永14年3月20日 御渡祭(ちゃんちゃん祭り)の起源について詳でないが元御輿御休所の台石に応永14年3月20日とあるのでこれより以前であるか。

 ≪元御輿御休所の台石とは、第一鳥居前の社標の台石 ≫  (注2)           

《尋尊大僧正記》にちゃんちゃん祭りの記録あり  (注5)

1459 永禄3年4月1日 今日、大和神社神事也 (永禄3年4月1日の日記)

1481 文明13年4月1日 昨日、大和神社神事 神輿二基御出(文明13年4月2日の日記)

1491 延徳3年4月1日 大和明神祭礼也中山寺に神向 (延徳3年4月1日の日記)

1565 永禄8年(注6)  永禄の兵乱により、勅使の御参向なかりければ、其れより其御代として、千代山鉾を奉持して供奉する。

 千代山鉾神輿(担ぎ手4人) (ちゃんちゃん祭り千代山鉾(兵庫町常持)) (官國弊社特殊神事調)

1583 天正11年 天正の兵火により神領の反別書類等すベて焼失

  ≪社殿焼失の際、中山村の歯定神社に一時移坐≫

1584 天正12年 天正の兵火により千代山鉾焼失の為、略して1人持ち(現在の形)となった。  (官國弊社特殊神事調)

1689 貞享6年11月 手水舎造営     (手水鉢に銘あり)

1791 寛政3年 大和名所図会 に 例祭四月朔日と記載   (注7)

1852 嘉永5年 本殿三社、氏子寄付を以て修理

1869 明治2年 本殿その他官費にて修理   神社境内各社の整備工事が官費で計画・実施が始まった。

1871 明治4年5月14日 官幣大社

 (太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により制定)

1873 明治6年  古くからの伝統に従って、大和郷九ヵ村( 新泉 ・ 成願寺 ・ 兵庫 ・ 長柄 ・ 岸田 ・ 佐保庄 ・ 三味田 ・ 萱生 ・ 中山 )の郷社も兼ねることとなった。

1874

 明治7年 本殿三殿御造営

1874 明治7年 社務所

 北之坊『石和見聞志』に「當社祠官一人もなし。北ノ坊とて社側に別當の僧房あり。住職は近所なるに因つて釜ノ口寺より來ると云へり」とある。

 維新の際社務所に移転・改造された。 (注3)

1874 明治7年11月 祖霊社    明治政府の許可を得て旧本殿をここに移築し創建

1874 明治7年 御霊代は、二度の火災で焼亡し、焦石を神体としていたが、現在の御霊代----玉 (大國魂神) ・ 鏡 (御歳神) ・ 剣 (八千戈神) ---- は、明治7年朝廷より奉鎮された。

1875 明治8年2月19日 朝日神社

 『大和志』には、「朝日豊明姫神祠佐保庄村観音寺境内ニ在リ、今妙見ト称ス」とあるが明治八年に大和神社境内に移された。

1875 明治8年4月 道程標(社標)建設

  「官 幣 大 社 大 和 神 社」と表記 (白木造り)

1877 明治10年 狭井神社は、大神神社の摂社に指定せられた。

  これまでは、狭井神社は、大和神社の別社であった。

1884 明治17年5月 高龗神社神社本殿改修

  古殿(旧本殿)払い下げをうけ改修

1885 明治18年9月 道程標  佐保庄字朝日西間道口に建設

1887 明治20年4月 増御子神社本殿改修

1887 明治20年5月1日 御神楽祭(5月1日)   明治20年~明治37年まで執行す。  明治38年以降は、舞奏なしで、斎行されている。現在は、4月2日に斎行。

1888 明治21年 市町村制発布により

「新泉・岸田・成願寺・中山・萱生・竹之内・乙木・永原・長柄・三昧田・兵庫・佐保庄・園原・福智堂・杣之内」の15村で新村を創設し「朝和村」と名付けた。

村名の「朝和」は、朝日寺の「朝」と大和神社の「和」をとったものである。(注8)

  ※『杣之内」は、明治35年に、分かれて丹波市町になった。

1889 明治22年2月 狛犬建立(石造り)

 朝和村大字佐保庄 藤野嘉平寄贈

    (神社古文書 明治24年 境内繪図面建物明細帳)

1893 明治26年10月 道程標(社標)を石標に改修  「官幣大社大和神社」と表記

1896 明治29年1月30日  日清戦争記念碑建立 (朝和地区出身の軍人55名の名刻)               ≪一の鳥居南側≫

1897 明治30年 境内地4畝8分 国鉄桜井線路線用地として譲渡

   明治31年5月11日 京終~桜井間開業

   大正3年 8月20日 長柄駅開業

1905 明治37年11月 一の鳥居 石造に改築

1908 明治41年 渟名城入姫神社は、大和神社の境外末社となった(式内社調査報告(1982))

1909 明治42年 四至(北西)の市杵島神社(福智堂町)を永原町の御霊神社境内に遷座

   昭和24年12月15日 神社古文書(陳情書)  (注4)

1913 大正2年9月30日 渟名城入姫神社造営

   (神社古文書 明治24年境内繪図面建物明細帳)

1921 大正10年 粥占祭  大正10年以来年々執行す。

  (官國弊社特殊神事調)

1923 大正12年3月 祖霊社屋根修繕

1941 昭和16年 「堂本印象画伯作日本画《戦艦大和守護神》制作         戦艦大和を竣工するにあたって、海軍は艦名を伏せて、縁のある画題で大和神社の御分霊を祀りたいと奈良県へ発注した。それを受けて、奈良県が印象に依頼し制作された。「戦艦大和艦長室」に掲げられていた。

1942 昭和17年 新泉町の素盞鳴神社現在地に移転

  柳本飛行場(大和海軍航空隊飛行場)が作られたとき、字南池辺の小丘に鎮座して「一本木さん」と呼ばれて場所から、現在の場所に移されました。

1944 昭和19年 長柄町の白堤神社小学校内に遷される。

 現在地の南約200mの南池(白鳥池)の西堤上にあったが、大戦末の昭和19年、大和海軍航空隊飛行場建設のため池が埋め立てられ、社も取り払われて小学校内に遷される。

1946 昭和21年2月2日 元官幣大社

 (連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の神道指令により神社の国家管理が廃止)

1946 昭和21年9月 長柄町の白堤神社現在地に遷座

 池の北側にあたる現在地に社殿を新築して遷座した

1953 昭和28年 戦艦大和慰霊祖霊社に合祀 (2,717柱)

1958 昭和33年9月23日  43年ぶりに「しで踊り」復活

 大和郷婦人部により、「紅しで踊り」として復活

1969 昭和44年7月8日  広島県呉市元呉軍港宮原の高台に「噫戦艦大和之塔」建設に際し、同委員会理事長(戦艦大和進水式当時責任者、元海軍中将)庭田尚三氏は当神社崇敬の念篤く御分霊拝戴の懇請に依り、同日御分霊を同塔内に奉鎮す。

1972 昭和47年9月24日  戦闘巡洋艦 矢矧外駆遂艦8隻の戦没將士英霊をも合祀して、3721柱は国家鎭護の神として祀られている。

1977 昭和52年10月  国道169号線沿い(大和神社前バス停)に 「大和神社」 道程標 建立

 笠松新次氏の、中小商業界の育成指導と振興発展に多年努力せし功により、双光旭日章の受章を記念し、商業界有志により建立

1977 昭和52年11月6日 忠魂碑建立

   朝和地区戦没将士260柱の鎮魂の碑建立 

1997 平成9年3月31日 紅しで踊り

 天理市指定無形民俗文化財に指定 (平成9年3月31日天教告示第12号)

1999 平成11年2月 手水屋復元

 平成10年9月22日の台風7号により全壊した手水屋を復元

2001 平成13年3月26日 新泉町「野神祭り」

 天理市指定無形民俗文化財 (平成13年3月26日天教告示第4号)

2005 平成16年6月30日 茅の輪くぐりの始まりは 平成16年6月30日以来年々執行す。

2005 平成16年12月10日 高龗神社建替 (遷座祭斎行)

2005 平成17年8月7日 戦艦大和慰霊祭斎行  平成17年より毎年8月7日に斎行す。

2008 平成20年 大和神社 ホームページ 公開

2010 平成22年4月 長柄駅前に「小さい赤の幟」を掲げる。

 以降毎年ちゃんちゃん祭り期間は、「小さい赤の幟」を掲げている。

2010 平成22年12月 献灯提灯を掲げた。

 以前からの献灯提灯を廃棄し、新規に取り組む平成22年の歳末から新春及び節分祭に献灯しています。

2011 平成23年3月10日 本殿三殿改修(御本殿遷座祭斎行)    《平成大修理》

2011 平成23年8月 戦艦大和展示室建立

2012 平成24年3月21日 増御子神社改修(遷座祭斎行)     《平成大修理》

2012 平成24年8月5日 ゆかりの碑建立(除幕式)

2012 平成24年8月10日 井戸舎建立         (四国奉賛会員)

2012 平成24年8月22日 朝日神社、事代主神社、厳島神社の改修移設(遷座祭斎行)                      《平成大修理》

2014 平成26年3月11日 歯定神社本殿改修(遷座祭斎行)     《平成大修理》

2014 平成26年7月20日 丹生川上神社、(水の神)の祭典

 延喜式にのっとり、大和神社宮司・稚児が参加して1,300年ぶりに復活。 吉野の丹生川上神社は、高龗神社の分祀ということ。

2015 平成27年3月1日 大和神社ホームページ リニューアル公開

  同年9月14日  ブログ開設「大 和 神 社 裏 方 日 記」

2015 平成27年8月5日 万葉歌碑「好去好来」建立(除幕式)

2015 平成27年12月10日 社務所横の池・水路及び社務所北側の整備工事完成

  《平成大修理》

2015 平成27年12月31日 紅しで踊り保存会 奈良県神社関係者大会 表彰記念碑建立

2016 平成28年6月23日 「祖霊社」改修工事完成(遷座祭斎行)

  《平成大修理》

2016 平成28年9月23日 神社境内の防犯設備工事完成    《平成大修理》

 監視カメラ・フレームチェッカー・火災センサー等の設置

2017 平成29年2月10日 御田植祭において、112年ぶり「田植歌」復興

2017 平成29年3月13日 倉の修復工事完成      《平成大修理》

       平成大修理の工事すべて完成

 2018 2月2日 ちゃんちゃん祭り 奈良県無形民俗文化財に指定

 2018 8月3日 ちゃんちゃん祭り 奈良県無形民俗文化財に指定の記念碑建立

  現在に至る

 

大和(大倭)とはどこか?

 

大和神社(大和坐大国魂神社)より転写

大和(大倭)とはどこか?

●大和大国魂神
磯城瑞籬宮→市磯邑(桜井市穴師・箸中付近か)→現,大和神社鎮座地(天理市)

『日本書紀』の崇神天皇条と垂仁天皇25年3月10日条に倭大国魂神に関する記事が掲載されています。それによれば、穴磯邑(あなしのむら)に定めて大市の長岡岬に渟名城(ぬなき)稚姫(わかひめ)命(みこと)に祀らせたとあります。千田さんの話では穴磯とは今では穴師という地名が残っていますが、巻向山を源流とする纏向川のほとりを指します。長岡岬とは現在の長岳寺が存在するあたりは昔、長岡村とよばれていたそうです。岬とは ミ+サキ=神のとりつく先という意味。
大市は城上郡(しきの かみぐん)大市郷ですから現在の箸墓のある場所付近を指します。ですから穴磯邑とは邑=都 随分と大きな地域を指していた事になります。長岳寺と穴師の距離は南北3㌔、そして箸墓も含みますから桜井市穴師から天理市柳本町の長岳寺を含み尚且つ、大都市を示す大市の箸墓付近も含む広大な地域を指していたと考えられる。
・穴磯こそ「おおやまと」
穴磯に倭大国魂神が祭祀されたという事はこの場所が巻向山から流れ出る纏向川により形成された扇状地というか、幾筋も流れる纏向川の川に挟まれた聖なる場所です。

大倭 (おおやまと)とは三輪山とは関係が薄く、その北側に連なる山々、とりわけ巻向山と纒向遺跡を中心とするエリアか

当然、市磯長尾市(大和大国魂命を祭った倭氏)も、この辺りに住んでいたのではないかと
巻向遺跡は、やはり倭氏の一族が造ったか。
倭氏の初代(神武の頃)は椎根津彦です。

大和坐大国魂神社 (通称:大和神社)
奈良県天理市新泉町星山
日本大国魂大神・八千戈大神・御年大神
                                                       名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社。

淡路の大和大国魂神社のほうは、これに素盞嗚尊、大己貴命、土御祖神の三神が加わる。大己貴命は出雲神だし、土御祖神は聞きなれない神名だが、豊受大神宮(伊勢の外宮)の別宮として知られている。(土宮の祭神:大土乃御祖神)

古事記に見る淡路島
古事記中巻二安寧天皇
 師木津日子の命の御子二王ます。一の子孫は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置が祖なり。 一の子の和知都美の命は、淡道の御井の宮にましき。かれこの王、女二ましき。兄の名は蠅伊呂泥。またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売の命、弟の名は蠅伊呂杼なり。

大和神社(オオヤマト)。

※創建由緒
「当神社の主神は、日本の全国土の大地主大神(オオトコヌシ)で、第5代孝昭天皇の年、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第10代崇神天皇6年、天照大神を皇女豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)につけて倭の笠縫邑に移されたとき、皇女渟名城入姫命(ヌナキイリヒメ)に勅して、市磯邑(イチシノムラ-大和郷)に移されたのが当神社の創建である」
崇神以前から宮中にアマテラス・ヤマトオオクニタマ両神を一緒に祀っていたとはいうものの、それが孝昭天皇の時に始まるとは記されていない(孝昭天皇時とするのは、大倭神社注進状・1162-江戸期の偽書ともいう)。
古代の神は、その子孫の祭祀はうけるが他氏からの祭祀は拒否したという。ヌナキイリヒメがヤマトオオクニタマを祀ることができなかったのは、大和国の地主神であるヤマトオオクニタマが、外来者である大王家の祭祀を嫌ったともいえる。
ヌナキイリヒメに代わる祭祀者として神の意に叶ったのが市磯長尾市(イチシノナガオチ)で、崇神紀7年条には、
・8月7日 倭迹速神浅茅原目妙姫他二人に、「イチシノナガオチをヤマトオオクニタマ神を祀る祭主とすれは、天下は平らぐであろう」との夢告があった(大意)
・11月13日 ナガオチを祭主としてヤマトオオクニタマ神を祀ったところ、疫病が収まり、国内は鎮まった(大意)
とある。
なお垂仁紀25年条には、アマテラス大神の伊勢遷座ののち、ヤマトオオクニタマ神が祭祀に不満を述べたので、改めて長尾市宿禰に命じて、穴磯邑を神地とし、大市の長岡崎(岬)に祀らせた、とある(大意)。

『古事記』では大物主神の独壇場となっているのに対し、『日本書紀』ではその前フリとして、天照大神と倭大国魂神の二神の確執の物語があること。

 市磯長尾市とは、神武東征のとき水先案内を勤め、即位後、大倭国造に任ぜられた椎根津彦(シイネツヒコ・神知津彦-カミシリツヒコ・宇豆彦-ウズヒコともいう)の子孫で、大倭直氏(大和連・大和宿禰)の祖とされ、新撰姓氏禄には、「大和国神別(地祇) 大和宿禰  神知津彦命より出ず(神武の水先案内を務めたとの記事の後に)天皇之を嘉し、大倭国造に任ず。是大倭直の始祖也」
「摂津国神別(地祇)大和連 神知津彦命十一世孫御物足尼之後也」が見える。
大倭直氏は奈良時代を通じて当社の祭祀を司ったが、平安時代には衰微し、中世になると史上から消えたという。
鎮座地
 当社創建時の鎮座地は、垂仁紀にいう大市の長岡岬の比定地如何によるが、一般には現在地東方の何処にあったというが、その具体の位置については諸説がある。
主な説として
・穴師坐兵主神社の地(桜井市穴師)に比定し、垂仁期に現在地に移ったとする説
・現在地の東南約1.5kmの釜口山長岳寺(天理市柳本町)の地とする説
・大市を城上郡大市郷とし、長岡岬を①狭井神社(桜井市三輪)西の丘陵突出部、②桧原神社(桜井市三輪)西の丘陵突出部、③巻向山山崎とする説
・現在地の南東約1.1kmの大和若宮神社(御旅所坐神社・天理市中山町、現御旅所)とする説
・中山町の高槻山にあったが、奉弊使の便宜のために現在地に遷座したとする説
他などがあるが確証はなく、鎮座地移動の有無を含めて、いずれとも決めがたいという(日本の神々4所載・大和神社・2000)。

※祭神
・中央に倭大国魂神-ご神体:八尺瓊(玉)
・左に八千戈神--ご神体:広矛→現在:剣
・右に御年神(御歳神)--ご神体:八握厳稲→現在:鏡
が祀られているが(大倭神社注進状による祭神という)、元々のご神体は、永久6年(1118)に神殿とともに焼失、新たに造ったご神体も天正(室町末期)の兵火で焼損、焼け焦げた石をご神体としていたが、明治7年(1874)に朝廷より奉納されたのが、今のご神体という。
延喜式には一座とあることから、本来の祭神は、市磯長尾市を祖とする大倭直氏が祀ったヤマトオオクニタマ神であり、他の二座は後の合祀であろうが、その合祀由緒は不明。
そこから、ヤマトオオクニタマ神とは、大和国を造り治める国つ神・地主神を意味するが、大倭神社注進状には“大己貴神(オオナムチ)の荒魂で大地主神”と記している。オオナムチが倭国全体の大地主神である大国主神の別名とすれば(書紀一書2)、オオクニタマとオオナムチは異名同神ともいえる。

御歳神(御年神)は、穀物神・大年神(オオトシカミ、スサノヲの御子神)の御子神という(古事記のみ)。御子神は父神の一面を引き継ぐという意味では大年神と同神ともいえる。古く、“年”は“稲の実り”を意味し、大年神・御歳神いずれも穀物神。

祭神については、上記以外に次の諸説がある。
大国魂神・大歳神・須沼比神(スヌマヒ)とする説--神社覈録(1870)
先代旧事本紀(9世紀後半)・「大年神は、まずスヌマヒ神の娘・伊怒姫(イヌヒメ)を妻とし、五柱の神を生んだ。子の大国御魂神は大和(オオヤマト)の神である」によるという。
*大倭大明神(中央)・三輪大明神(左)・天照大神(右)とする説--元要記・神社社家
*一宮:大年神・二宮:大国魂神・三宮:稲倉魂神(ウカノミタマ)--元要記一説
*大国魂神(中央)・大己貴神(左)・大年神(右)--大和神社より神社奉行への提出文書(1759)
現祭神の八千戈神が大己貴神に替わっているが、この両神は異名同神ともいうことから、今の祭神と同じともいえる。

◎摂社(境内摂社)
*増御子神社(マスミコ)
祭神--猿田彦大神・天鈿女命
   二の鳥居すぐの参道南側に鎮座する摂社。
 社頭の案内には、
 当社由緒誌には「サルタヒコ・アメノウズメ・市磯長尾市命を祀る(知恵の神)」とある。古伝によれば、古くはサルタヒコを祭神として成願寺村(本社の東方・現成願寺町)にあったという。
 サルタヒコとアメノウズメは塞の神・道祖神として祀られる場合が多く(今も、中山大塚古墳へ至る農道脇に双体道祖神が残っている)

*高龗神社(タカオカミ)
  祭神--高龗神
 社頭の案内には、
「祭神は雨師大神(アマシ)、即ち水神で、崇神天皇のときヌナキイリヒメをして穂積長柄岬(現新泉星山)に創設せらる」とあり、祈雨を祈る水神社の総本社という(古伝によれば、祈雨の神である吉野の丹生川上神社は、当社の祭神を勧請した別宮という)。
タカオカミ神とは、イザナミ逝去の因となった火の神・カグツチを、怒ったイザナギが三段に斬ったとき、イカヅチの神・オオヤマツミ神とともに生まれた水神(書紀・第7の一書)。
 龗(オカミ・雨カンムリの下に口3ッ個、その下に龍)とは、“水を司る龍”を意味する

*朝日神社
祭神-朝日豊明神(アサヒトヨノアカリ)
社頭の案内には、
「殖産を興し、交易を奨めさせ給う。・・・」とあり、由緒誌には、「朝日豊明神(天照坐皇大祖)を祀る」とある。
 朝日豊明神は日神に関係がありそうだが、その出自・神格は不詳。また天照坐皇大祖も意味不明。

(境外摂社)
境外摂社として、次の2社がある。由緒誌には“摂社”とあるが、諸資料では“末社”という。
*渟名城入姫神社--祭神:ヌナキイリヒメ
大和神社の南約900m、岸田町(字サカイ)に鎮座する摂社。
江戸前期の古書・神社啓蒙(寛文7年・1667)に、「大和所摂宮姫大神一座」とあるのか当社といわれ、斎侍御前・斎女御前、通称サネゴゼンと呼ばれたというが、詳細不詳。
式内社調査報告(1982)には、「明治41年(1908)大和神社の境外末社に加わった」とある。

*御旅所坐神社--祭神:本社三神に同じ(明治末期からの祭神という)
大和神社の南東約1.1km、中山町字大塚に鎮座する摂社(現地の社名標には末社とある)。大和稚(若)宮神社ともいう。
道路脇に立つ“大和神社御旅所の由来”には、
「中山大塚古墳(130m)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫命の塚。約二千年前、煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(五穀豊穣)・主神日本大国魂大神(大地主神・オオトノヌシ)・須治比売大神(スジヒメ・天照大神)」
とある。
ここでいうスジヒメとの神は記紀等の古史料には見えず、先代旧事本紀にいう“オオクニタマの祖父・須沼比神(スヌマヒ)”の誤記かともいう。とすれば、神社覈録にいう祭神三座(上記)と同じとなる。
またスヌマヒ神の娘で、オオクニタマの母神・伊怒媛(イドヒメ)が祭神で、“例祭(チャンチャン祭の神輿渡御)は母神の許への渡御を表す”とする伝承もあるという(式内社調査報告)。

資料によれば、「維新前は古墳の前方部にあり、現御旅所の神輿が安置される所に観音堂があったが、神仏分離で本尊が長谷寺小池坊に移され、当社が現在地に遷座した」とある。古く、大塚古墳の前方部の上にあったのかもしれない。

ヌナキイリヒメ神社/境内
渟名城入姫神社・境内 ヌナキイリヒメ神社/本殿
同・本殿 御旅所坐神社
御旅所坐神社
 
末社
境内左手に、境内末社2祠が並ぶ。
*事代主神社--福の神・恵比須と習合したコトシロヌシ(本来は託宣の神)を祀る。
元、当社の北方にあったが、明治17年星山の上に遷座、昭和5年現在地に遷座という。

*厳島神社--市杵島姫命(イチキシマヒメ)-航海の神・海の守護神
古称・弁才天、吉野天川(天川弁才天社)より勧請という(元要記)。

*祖霊社--氏子の霊を祀るために明治7年創建。
大和神社・末社/事代主神社・厳島神社
左・厳島社、右・事代主社

*境外末社・歯定神社(ハジョウ)
祭神--大己貴神・少彦名神
御旅所坐神社の左に鎮座する小社。

※中山大塚古墳
天理市中山町字大塚
前方後円墳--全長120m・後円部径64m・前方部幅56m(諸説あり)
南北方向に立地するが、北側(後円部)をやや東に振っている。
埋葬施設--竪穴式石室(内法長7.5m・幅1.4m・深1.8m)、盗掘により出土遺物微少。

前方部が撥形に開いていること、宮山型の特殊器台(片)が出土したことなどから、大和古墳群の中でも西殿塚古墳と並ぶ発生期の古墳と認められている。

渟名城入姫命の墓との伝承があるが、当地に居た古代氏族の墳墓であろう
    日本古代遺跡事典・1995

丹生川上神社

奈良県吉野郡東吉野村にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

本殿:罔象女神
相殿に伊邪奈岐命・伊邪奈美命
東殿:大日孁貴命・八意思兼命・誉田別命
西殿:開化天皇・上筒男神・大国主命・事代主命・綿津見神・菅原道真公
六国史では、「丹生川(河)上神」と地名を以て記され、具体的な神名を表すものはないが、古来朝野の祈止雨祈願がしばしば行われ、雨を司る水神であったので、これを記紀神話に見える罔象女神(みずはのめのかみ)や龗神(おかみのかみ)に充てるようになった。

吉田兼倶撰といわれる『二十二社注式』には、天武天皇の白鳳乙亥年(4年)に垂迹し、大和神社の別宮になったと記されているので、吉野と浅からぬ関係にあった同天皇によって創祀されたものとされている[7]。古来大和神社(天理市鎮座)の別社とされ、祈止雨の霊験著しい雨師神として、朝廷から重んじられ、宝亀4年 (773年)には神戸4烟が充てられている(『続日本紀』)。律令制時代を通じて祈雨神祭祭神に預かり、祈止雨祈願のために貴布禰社とともに奉幣がなされた例は枚挙に遑がないが、その折には奉幣使に大和神社の神主が従う定めとされていた。『延喜式神名帳』では官幣大社(名神大社)に列格し、律令制の弛緩に際しても、二十二社の1社にもなるなど朝廷からの厚い崇敬は変わらなかったが、次第に奉幣も減少するなど衰微していき、応仁の乱以降は、ついにその所在すら不明となるに至った。なお、社伝では中世以降たびたび造改築されたことが伝えられており、当神社所蔵の慶安3年(1650年)の造営の上梁文には、当初の鎮座地に丹生神社を新造するとともに、本社を金剛峯寺の鎮守神に倣って「蟻通明神」と改称した旨が記されている。

垂仁紀二六年条、市磯長尾市を大国魂神の祭司とした由緒

大田田根子のそれと同一の観念によるものと思われるが、文脈ははっきり異なる。すなわち「倭大神」が「穂積臣の遠祖大水口宿禰に著って」こういったという。
 「太初之時、期(ちぎ)りて曰く『天照大神は悉に天原を治さむ。皇御孫尊(大王)は葦原中国の八十魂神を治さむ。我は親(みずか)ら大地司を治さむ』とのたまふ。言すでに訖(おわ)りぬ。然るに先皇御間城天皇、神祇を祭祀りたまふと雖も、微細しくは未だ其の源根を探りたまはずして、粗に枝葉に留めたまへり。故、其の天皇命短し。ここを以って、今汝御孫尊、先皇の不及を悔いて慎み祭ひまつりたまはば、汝尊の寿命延長く、また天下太平がむ」
 「葦原中国」は大国主が天孫に譲った国である。大和にあっては当然、大国主の幸魂・奇魂という大物主の主宰地をいうであろう。磯城の地である。その支配地があればそれをもいうかも知れない。一方「大地(おおつち)」はその範疇以外の国をいうのであるから、磯城と磯城の版図はこれを除くのである。「司」はむろん「八十魂神」と同義であろう。
 実に意味深長である。誰かが大王氏と最初にある種の契約を行なったかのように読める。契約の内容も領有地についての相互の約束事であるらしい。そして崇神はその約束を破棄してその土地を奪い、そのために命を縮めるにいたった。垂仁はこれをもって改めて契約の施行を求められている。さもないと垂仁の命も永くはないと脅されている。」

大国魂命は、大地(大土)を治めている。が、オオクニヌシは葦原中国を治めていて、そこを天孫に国譲りした。
葦原中国は、上では磯城とその周辺としているが、三輪か葛城であったかもしれない。だから三輪氏というのではないのか?ちなみに三輪山にイワクラがあって登れあれがオオクニヌシの墓とされているが、、。
巻向は朝鮮渡来人の痕跡があるので、この辺りをどう解釈すればいいのか。
大地は、当然、大和神社のあたり、という事になる。

倭吾子籠(あごこ) – 古墳時代の伝説上の人物。仁徳朝から雄略朝の国造。皇位継承争いに絡んで履中天皇に殺されかけたが、妹の日之媛を釆女として献上したことによって助命された。以後、倭氏は大王家に釆女を献上することが恒例になった。
倭手彦(てひこ) – 古墳時代の将軍。欽明朝の国造。対新羅戦で活躍した。
大倭五百足 – 大倭竜麻呂の子とする系図がある(鈴木真年『百家系図稿』巻21)。
大和長岡 – 奈良時代の法律家。大倭五百足(いおたり)の子。『養老律令』選定に関与した。

椎根津彦(しいつねひこ)
①父:武位起命(異説あり) ②母:不明(異説あり)
異説:海部氏勘注系図
父:天村雲  母:丹波伊加里姫
②子供:志麻津見 妻:不明 
異説(海部氏勘注系図)子供:笠水彦 妻:豊水富(井比鹿)
別名:珍彦・宇豆彦・倭宿禰(勘注系図)・槁根津彦・神知津彦
③出自:皇孫本紀:彦火々出見尊の御子武位起命は大和国造等の祖。椎根津彦は武位起の子または孫、とある。
新撰姓氏録:地祇
④古事記神武段:東征伝で備前国高嶋宮で神武に会い道案内する。
亀の甲に乗りて釣りしつつ打ち羽ふり来る人、速吸門に遇ひき。爾れ喚びよせて汝は誰ぞと問はしければ、僕は国神と答え申しきーーー名を賜いて槁根津彦と号す。
⑤日本書紀神武紀:珍彦は、豊予海峡とされる速水乃門で東征中の神武を迎える。ーーー因って問ひて宣す、汝は誰ぞやと、応えて申さく、臣は是国神なり、名を珍彦と白ふ。ーー水先案内人になる。神武から椎根津彦の名を賜る。倭直部の始祖。
また、倭(ヤマト)での兄磯城との戦いでも功を挙げた。
この功により神武天皇が即位後に初めて倭国造に任じられた。
⑥国造本紀:橿原朝の御世、椎根津彦を以て初めて大倭国造と為す。

奈良県で高龗神(たかおかみのかみ)を祀る主要神社

【国常立神社の御祭神】

 

天香久山の山頂に国常立神社と並んで右側に高龗神社が祀られている。

 

国常立神(くにとこたちのかみ)

つまり、

高龗神=国常立神=竜神である証拠として倭人は残したのである。

高龗神=国常立神=竜神である。倭大国主は倭王の役職名であり、歴代の王がいた。

倭人と倭王
が崇拝する一の神が国常立神=竜神=水の守護であったのだ。大倭神社は倭国の王の宮であったが、武則天の司令を受けた唐人が九州地方の倭国を滅ぼした後、大和の倭国を侵略した。そして倭国王である大国主(歴代の王職名)を出雲に引退させ、伊弉諾、伊弉冊尊である天照皇大神宮を伊勢に追放、宮中で祀られていた神々を倭国王の宮中であった大倭神社より追放した。

 

 

天香久山の国常立神社  奈良県橿原市南浦町326

天香久山の山頂に国常立神社と並んで右側に高龗神社が祀られている。

【国常立神社の御祭神】

国常立神(くにとこたちのかみ)

 

【高龗神社の御祭神】

高龗神(たかおかみのかみ)

大和神社の摂社の

高龗神社

奈良県天理市新泉町星山306

【御祭神】高龗神(たかおかみのかみ)

 

大神神社の摂社の貴船神社

奈良県桜井市大字三輪字尾尻

【御祭神】高龗神(たかおかみのかみ)

 

室生龍穴神社

奈良県宇陀市室生区室生1297

【御祭神】高龗神(たかおかみのかみ)

 

丹生川上神社上社

奈良県吉野郡川上村大字迫167

吉野川上流

【御祭神】高龗大神(たかおかみ)

【相殿神】大山衹大神(おおやまずみ)

      大雷大神(おおいかつち)

 

丹生川上神社(中社)

奈良県吉野郡東吉野村大字小968

高見川流域

 

【御祭神】罔象女神(みずはのめかみ)

【配 祀】伊邪奈岐神

     伊邪奈美神

     天照大神

     大国主命

丹生川上神社下社

奈良県吉野郡下市町大字長谷1-1

丹生川流域

【御祭神】闇龗神(くらおかみのかみ)

 


出雲大社に龍神と蛇神が祀られていた。

中山みき著 おふでさき 第16号 - 12


しかときけこのもとなるとゆうのハな
くにとこたちにをもたりさまや

 

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からとにほん

混沌とする日の本と世界を治めるためには、まず日本人が国祖・くにとこたち命とおもたりの命を親神とし、いざなみ、いざなぎを人間創造の祖神として拝をすることから再生の道はない。そう、唐人政権が倭国を乗っ取り神の道、仏の道を己の都合で改ざん、隠蔽したこより世界の混乱が起こったのだ。

今、新たにいざなみの命の転生である神・中山みきより再生の道が提示された。もとの神、実の神の教えに帰依するいことが世界再生の唯一の道でる。