1.伊勢神宮の謎
久しぶりに、日本古代史の謎に挑んでみたい。きっかけは伊勢神宮だ。皇祖神であるアマテラスを祀る日本国家の総本山とも言うべき伊勢神宮が、なぜ長く大和朝廷の本拠であった大和になく、伊勢にあるのだろうかということがずっと謎だった。謎は他にもいくつもある。
(1)アマテラスを祀る内宮は非常に不便なところにあり、もともと丹後宮津の神だった豊受大神を祀る外宮が便利なところにあり、「外宮先祭」という伝統もあり、実は外宮こそ伊勢神宮のメインなのではないかと言われている。(丹後宮津の籠神社は元伊勢と言われている。)
(2)伊勢の人々は1年中注連縄を飾り、そこには「蘇民将来の子孫」と書いてある。この蘇民将来とは『備後風土記』に登場する人物で、スサノオ(出雲の神)との良好な関係が語られる人物である。
(3)天皇が伊勢神宮に参拝したという記録は明治天皇が初めてで、それ以前にはない(ということは参拝していない)と言われている。その代わり、未婚の皇女あるいは女王を長らく斎宮として送り続けている。
こうした事実を総合的に考えると、伊勢神宮は本来大和朝廷の神を祀っていた神社ではなく、大和朝廷が滅ぼした(あるいは取り込んだ)前支配勢力である出雲系の神の祟りを怖れて祀った神社ではないかと推測されるのである。斎宮が未婚の皇女あるいは女王でなければならなかったのは、クシナダヒメがヤマタノオロチの生け贄になっていたというのと同じ構図で、荒ぶる神への生け贄としての意味を持っていたからであろう。天皇が参拝しなかったのも祟りを怖れてのことと考えれば納得がいく。
斎宮制度や式年遷宮を定め、伊勢神宮を格の高い神社にしたのは天武・持統天皇の時だが、これは彼らが天智天皇後の継承争いに身の危険を感じ、吉野に隠遁した後、東国に抜け尾張氏(出雲系氏族)の武力を借りて大友皇子との壬申の乱で勝利し、政権を勝ち取ったため、その感謝の意を表するためにも、尾張にほど近く関係も深い伊勢神宮を重視したのではないかと考えられる。
『日本書紀』によれば、崇神天皇以前は、神と天皇が同床であったが、崇神以降、神を別のところに奉斎することとし、まず崇神天皇の娘である豊鍬入姫に巡行させる。豊鍬入姫は丹波(籠神社)、紀伊、吉備などを経て、大和の大神(おおみわ)神社に落ち着く。次に、垂仁天皇の娘である倭姫が後を継ぎ、伊賀、近江、美濃、尾張を経て、伊勢の内宮に落ち着く。この逸話を分析的に見るなら、新勢力として大和に入った崇神は、旧来の勢力が奉っていた神を大和から排除したいと思い、未婚の皇女を生け贄に祀る先を探させたと解釈できよう。豊鍬入姫は結局大和に戻ってくるが、大神神社に祀られている主神は出雲系の神・オオモノヌシ(大物主)であり、アマテラスではない。(大神神社を造営したのは、祟りを怖れてのことである。)次いで、倭姫にアマテラスの奉斎先を求めさせるが、これも自分たちの祖神であれば、大和から出す必要はなく、やはり伊勢に祀られている本当の主神もアマテラスではないと考えた方が自然である。また、この2人の姫が立ち寄った先というのは、すべて崇神天皇以前に大和を支配していたと考えられる出雲勢力の影響下にあった地域ばかりである。つまり、旧勢力の神を旧勢力の影響下にあるところに戻そうとしたのかもしれない。
また、太陽は「陽」であるので、陰陽説では太陽神は男神と考えるのが普通であるのに、アマテラスを女神としたのは、『記紀』を編纂した時代が、持統天皇という女帝から始まる王朝とも位置づけられるためで、持統天皇を暗喩するためにアマテラスを女神にしたという説もある。三輪山にオオモノヌシを祀る大神神社と伊勢神宮の奉斎場所先探しの話の連続性、そして三輪山自体が奈良盆地の東にあり、太陽の昇る山であることを考えると、実はオオモノヌシこそが太陽神(=天照アマテラス)であったと考えるのは無理のない推測ではないだろうか。つまり、伊勢神宮に祀られているアマテラスという神は、本来は出雲系の太陽神・オオモノヌシである。
2.スサノオが日本の最初の大王
神話上はアマテラスの弟とされ、あまりの乱暴さ故に高天原を追放され、出雲に来たとされるスサノオだが、全国にある彼を祀る神社の多さなどを考えると、彼こそ古代日本に最初に大きな勢力を築きあげた大王であったと考えるのが妥当である。スサノオという名前も長姉のアマテラス(天照)や次姉のツクヨミ(月読)が、太陽神と月神のわかりやすい表示名であるのに対し、まったく違う名のつけ方であり、まったく別種の神と考えざるをえない。普通に考えれば、「荒(すさ)の王」と字を当てたくなる。
出雲は朝鮮半島から船出して、海流に乗ってたどり着きやすい地域であるので、スサノオは朝鮮半島から渡ってきた勢力のリーダーあるいはその子孫と考えられる。その後の任那(伽耶国)への大和朝廷の固執ぶりを考えると、伽耶から渡ってきた勢力である可能性が高い。出雲を出発点として、越前、伯耆、因幡、但馬、丹波(丹後を含む)、若狭、近江、山城、瀬戸内の吉備、播磨、摂津、河内、大和、紀伊、尾張、美濃などにまで勢力を拡大したと考えられる。
スサノオの逸話でもっとも有名なヤマタノオロチは、「越」(越前?朝鮮半島からたどりつきやすい地域のひとつ)から毎年やってきて娘たちを奪っていったという話であるから、これは当時出雲が越前に対して劣位の立場にあったのを、スサノオの力で逆転したと読むことができる。
紀伊の熊野大社も源流は出雲の熊野大社と言われているし、京都の八坂神社を筆頭に各地に存在する祇園神社はすべてスサノオを祀っている神社である。(備後のえのくまで蘇民将来と出会った逸話があり、スサノオに礼を尽くした蘇民将来一家を助けるために、茅の輪を贈り疫病から逃れさせたことから、全国各地の祇園神社では夏に「茅の輪くぐり」という行事を行うようになっている。)
出雲勢力との関係が深いと考えられる物部の地名が北部九州周辺に多くあることから、出雲勢力が北部九州に進出した後、畿内に移動し、一大勢力になったという見方を取る論者もいるが、元伊勢神社の位置などから考えると、出雲勢力は出雲、伯耆、因幡、但馬、丹後、丹波、摂津、河内、大和というルートと、出雲、吉備、播磨、摂津、河内、大和というルート(ともに陸上ルート)のいずれかあるいは両方を辿って、畿内に入ったのではないだろうか。(この出雲勢力は大和には入らず、河内に拠点を据えていた可能性もある。)
筑紫は朝鮮半島に近く高度な文化の取り入れ口になっていたため、進出あるいは協力関係構築の必要性があっただろうが、出雲神話の逸話には、海上ルートを利用するようなエピソードはなく、スサノオを中心とする出雲勢力は、西は出雲・備後から、東は尾張・美濃・越前あたりまでを影響力下に置いていたのではないかと推測する。
3.崇神朝以前の大和の王・ニギハヤヒ
先にも述べた大神神社は、日本一古いと言われているが、ここに祀られているのが出雲系の神である大物主大神である。箸墓古墳や崇神天皇陵などがある三輪地域にあり、初期大和朝廷発祥の地でもあるが、そこに出雲系の神が最初の神として祀られているのは興味深い。
大和の地は、瀬戸内海を東に東にと進んでくるとたどりつく地であるため、九州からは幾度も東遷してきた勢力があったと考えられる。『古事記』では、イワレビコ(神武?崇神?)が日向から東遷してきたことになっているわけだが、そこにはすでにニギハヤヒという王がおり、その王に仕えるナガスネヒコが激しく抵抗したため東からは入れずに、南の熊野から北へ上がる形で入っていく。しかし、ナガスネヒコは戦いで打ち破られたのではなく、ニギハヤヒとイワレビコが同じ神から遣わされたものだと知り、困惑しているうちに、ニギハヤヒによって殺害され、ニギハヤヒはイワレビコに国を譲るという形で戦いは終息を迎える。同じ神から遣わされたものとわざわざ記されているのは、出雲勢力も日向勢力ももともとは朝鮮半島南部にあった伽耶国(任那)から渡ってきた同族であることが暗に語られているのではないかと考えられる。(ちなみに、4世紀後半にやってきて応神朝を作り上げる勢力は、百済系勢力であり出自をやや異にすると推測している。)
ニギハヤヒを祖神とする物部氏の由来を示した『先代旧事本紀』によれば、ニギハヤヒは娘をイワレビコに嫁がせている。『古事記』では、神武東征の前にオオクニヌシ(スサノオの子孫で出雲勢力のシンボル的存在)の国譲りの話があり、これとの類似性が気になるところである。ニギハヤヒをオオクニヌシ(大国主)という名で登場させ、日向勢力が大和に定着する以前の国の主だったことを示しているという解釈は十分可能な気がする。
神武と崇神は和名が同じで同一人物ではないかという説も根強いし、そうでなくとも大和入りの経緯はどちらかのものであろう。いずれにしろ、九州から入ってきた勢力がすでに大和に勢力を持っていたニギハヤヒとナガスネヒコの勢力と戦わざるをえなかったことは確かである。私はかつて闕史8代(2代~9代)を架空の存在と見る立場に賛同していたが、崇神が神武の事跡(神武東征)をなした王であると考えるなら、それ以前に強大な勢力が大和にあったことは確かなので、その勢力の存在を神武以下の9代として描いていると考えることもできるだろう。そして、この勢力が出雲系である可能性は大きいのである。
ニギハヤヒの正体は明確ではないのだが、『日本書紀』や古代神社の伝承などを総合的に考えると、出雲系の王であったことはほぼ間違いないだろう。このニギハヤヒの子孫が物部氏であるということは、実は物部氏自身が最初に畿内強力な勢力を確立した王であったと考えることもできるのである。
4.大和は邪馬台国から
ここまで大和という地名で呼んできたが、「大和(ヤマト)」という名は「邪馬台(ヤマタイ)」(重箱読みであり、もともと「ヤマト」と呼ぶのが正しいという主張がある)から来ており、もともと九州にあった邪馬台国が東遷して以降(神武=崇神東征)の呼び名だと考えている。では、その邪馬台国の東遷はいつかということだが、『魏志倭人伝』によれば、2世紀後半に倭国に大乱起こるという記録があるので、それが大和の旧勢力(出雲系)と新勢力(日向系)の争いとみるならば、この時期が邪馬台国の東遷時期ではないかと考えられる。つまり、3世紀前半の『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼は、邪馬台国東遷後の人物と見た方が自然であろう。
ではなぜ邪馬台国は九州を出る必要があったのだろうか。人は一般的には生まれた土地を出て行きたくないものである。にもかかわらず出て行かなければならないとしたら、それだけの理由があるはずだ。一番単純な理由は、なんらかの状況変化によって住み心地が悪くなり、よりよい土地を求めるということである。九州の場合、独立勢力として現在の地名で言えば、鹿児島と熊本南部を中心に熊襲(クマソ)がおり、北部九州には対馬、壱岐を経て、朝鮮半島から新しい勢力が次々に入ってきていたため、先に渡来していた勢力はより安全な地を求めて移動をしたと考えられる。そもそも、日向という九州の中で東部に位置する場所から旅立たなくてはならなくなったのも、上記の勢力に押し出されたことによると考えることもできる。(ヤマトという名は「山門」から来ているという見方に立てば、もともとの邪馬台国は、筑後か肥後北部あたりにあったと考えられる。)
次に、逃避や移動ではなく領土拡大戦略ということも考えられなくはない。九州王朝説を唱える人などはこの立場を取るだろう。すなわち、九州に本拠を残しつつ、瀬戸内海沿岸から河内、大和まで支配下に置いたという考え方である。確かに、邪馬台国の東遷後も大和と北部九州の関係は密であったことは間違いない。しかし、邪馬台国の本拠はやはり大和に移動したと考えるべきである。ただし、出雲系にしても日向系(崇神朝)にしても、その後の応神朝、継体朝も、みなルーツは朝鮮半島にあると知っていただろうから、北部九州という窓口を通して朝鮮半島情勢には我が事として関心を持っていたと考えられる。
ところで、大乱状態だった倭を治めた歴史上の実在人物と認定される卑弥呼がなぜ『記紀』に登場しないのだろうか。いや登場していないはずはない。女性で、政治能力のある弟がおり、「卑弥呼」を「日の巫女」と読むなら、太陽信仰とも関連のある人物である。考え得る人物は2人である。1人は、崇神の姉あるいは伯母と位置づけられる倭迹迹日百襲姫である。彼女は神懸かりとなってお告げをしたと言われており、その墓は巨大な箸墓古墳であると言われていることから、時代から言っても卑弥呼に比定するのは適切であろう。実在の怪しい神武朝の第8代孝霊あるいは第9代の孝元の娘という位置も、大和に新勢力としてやってきた崇神朝の開祖的な立場にあり、卑弥呼に比定しやすい。もう1人の有力候補は、アマテラスとして描かれた神である。スサノオという弟を持ち、「天照」という太陽神そのもののイメージを与えられている人物だからである。ただし、アマテラスは大和に入っていないので、卑弥呼が大乱後の国を治めているということなら、やはり倭迹迹日百襲姫の方が有力であろう。神宮皇后に比する説もあるが、その事跡からすると、卑弥呼とは類似点が少なすぎるので、神宮皇后はありえないだろう。
5.「出雲vs.日向」は古代史の核
改めていろいろ調べていると、出雲勢力が強大な勢力であり、日向勢力が近畿圏に進出してくるまで、日本のかなりの領域を支配していた勢力だったのだという考えは確信的なものになっていく。イザナギ・イザナミの夫婦神話でも、火の神を産んで死んでしまったイザナミが葬られた場所は出雲と伯耆の境だったと述べられているが、ここが黄泉の国の入口と考えれば、黄泉の国を出雲と想像するのは容易である。そして、イザナギはその黄泉の国(出雲)に妻恋しさで訪ねていくものの、醜く変貌した妻を見て恐れをなし妻と戦いながら逃げていき、筑紫の日向で、黄泉の国の穢れを禊ぎ、その際に、アマテラスやスサノオを生みだすのである。この話は実際に戦ったかどうかは別として、日向勢力に対抗する強力な勢力が出雲にあったことを示唆していることは間違いない。
出雲の力の源は鉄であったと想定される。奥出雲は良質の鉄の産地であり、固く鋭い刃を作れる鉄の武器は圧倒的な力を持っていたと考えられる。弥生時代には日本では製鉄技術がなかったという説もあるが、鉄は農耕にとっても不可欠な素材なので、朝鮮半島から渡ってきた勢力の中に技術をもった人は必ずおり、鉄器を生産したに違いないと考えている。ちなみに、スサノオが南に下って備後にやってきて蘇民将来と出会ったという話も砂鉄や鉄鉱石の産地を求めての出雲勢力の行動だったと考えられるのではないだろうか。奥出雲の南に位置する備後地方も鉄の産地である。
他方、日向勢力の力の源は何だろうか。朝鮮半島から入ってくる先進技術・文化は持っていただろうが、その力だけに頼るなら、北部九州にいた勢力の方が有利だったはずだ。ここで私が提示したい仮説は、日向まで来ていた勢力は、一部の海洋民族勢力を味方につけるのに成功したという説である。そうした歴史的事実を示すために、『古事記』では出雲神話の後に続く天孫降臨の話がすぐに神武東征につながらず、間に海幸彦・山幸彦の逸話を入れていると考えられる。
海洋民族が島づたいに日本に入ってきた先住民族であることは間違いないが、九州最南部の鹿児島に着いた後、鹿児島西部とさらに西上して有明海沿いの熊本南部に定着した勢力(クマソ)と鹿児島東部から東上して宮崎(日向)に定着した勢力(隼人)に分かれたと考えられる。このうち、西南に居住したクマソは邪馬台国の支配下には入らなかったが、隼人の方は日向勢力の東遷以前にその支配下に入り、むしろ船による東遷の水先案内人的な役割を果たしたのではないだろうか。瀬戸内海は多島海であり、操船技術や海洋に関する知識なしではなかなか越えにくい海である。海洋民族であり、かつ勇猛な隼人族の協力を得て、日向勢力の畿内進出は可能になったと考える。
日向勢力で最初に畿内の支配権を握ったと考えられる崇神の事跡を読むと、出雲が影響力を持っていた地域をひとつずつ味方にしていかなければならなかったことがよくわかる。先に述べた皇女によるオオモノヌシとアマテラスを奉斎する地を求めさせた巡行の旅もその一例であるが、それ以外にも四将軍を越の国(越前?)、東国(尾張、美濃、信濃?)、丹波、吉備につかわしている。また、味方になった証の意味がある女性(后として)の提供を、紀伊、尾張、丹波(崇神の子・垂仁の后)、吉備(垂仁の子・景行の后)がしている。時期のずれは、まさに日向勢力がそれぞれの地域を支配下に置くのにかかった時間の長さを示していると見ることができるだろう。
この崇神の事跡には、出雲派兵が出てこない。また、出雲には荒神谷遺跡のような弥生時代の遺跡はあるが、古墳時代の遺跡にはこれといったものがない。ここから推測できるひとつの有力な仮説は、出雲で生まれて力をつけた勢力は、雪が多く暮らしにくい出雲は比較的早い時期に出て、ほぼ真南にあたる気候の温暖な瀬戸内側の吉備に入り、ここで力をさらにつけたのではないかという説である。日向勢力が大和に進出してきた頃までに出雲勢力はすでに出雲地域を捨て、吉備を本拠とした勢力となっていた。つまり、出雲勢力=吉備勢力という仮説である。出雲大社が造られたのは日向勢力に畿内の支配権を譲った後であり、中心地である畿内を譲る代わりに、出雲=吉備勢力の原点である出雲を、出雲勢力自体も再度見直したという見方も可能ではないだろうか。
6.騎馬民族の応神新王朝
『魏志倭人伝』によって歴史が知れる3世紀の日本に対して、4世紀の日本は記録がほとんど残されておらず「謎の世紀」と呼ばれる。好太王の碑によって、4世紀終わりから5世紀のはじめに日本が朝鮮半島へ攻め入ったことが史実として確認される以外は記録がない。しかし、5世紀にはいると、倭の五王として『宋書』に登場してくる。年代を考えれば、4世紀の後半には応神が畿内河内に入り、強力な勢力となっていたことは間違いないだろう。
応神は、神話上の人物としか考えられないヤマトタケルの孫で、同じく神話的人物である神宮皇后の息子ということになっているので、前王朝である崇神王朝とは直接の血縁関係はない新たな王朝を建てた人物と考えるのが妥当である。この勢力がどこから来たかと言うと、朝鮮半島、特に百済(ツングース系扶余族が南下して建てた国)から渡ってきたという見方がもっとも説得力がある。この応神王朝以後、馬が使用されるようになり、高い技術を必要とする鉄製の武具もふんだんに使われ、文化レベルの高い帰化人も多数渡来し、漢字文化なども、この応神朝から始まる。このような見方に立てば、応神朝が朝鮮半島からの渡来勢力であり、それゆえに朝鮮への出兵も自らのルーツである母国を守る戦いとして当然の選択であったと考えられる。
応神朝の陵は、応神、仁徳、履中、反正、允恭までが河内にあり、それ以降は大和にある。これは、新王朝である応神朝が大和の旧勢力の抵抗を受け、なかなか大和に入れなかったか、朝鮮半島に近い北部九州との連絡の容易さを考えて、河内に留まったかのどちらかであろう。仁徳陵や応神陵の巨大さを見ると、応神王朝はかなり早い時期から畿内では圧倒的な力を誇っていたと見るべきなので、後者の解釈の方が妥当だと思われる。自らのルーツである百済をはじめとする朝鮮半島に対するアンテナの感度をよくするために、最初の数代は大和に引っ込まなかったのだろう。この時期、大和は応神朝の協力者であった葛城氏が支配下に置いていたのかもしれない。葛城の地盤は河内との境目の葛城山麓なので、河内と大和の媒介にはちょうどよい位置であった。河内(および以西)は応神から始まる一族が、大和は葛城氏が見るという形で、うまく分権体制ができていたのだろう。
応神朝も時が経ち、王自身の能力もあまり高くない者がその地位に就くようになると、朝鮮半島情勢よりも足元の畿内を固めることの方が重要になり、旧勢力の中心地であった大和に政権の中心を移動させることを望んだのであろう。しかし、大和に移動して以降、最大の協力者であった葛城氏との関係も悪くなり、それがこの王朝の衰退につながった。この間隙をつき、平群氏が力をつけ、大王の地位すら伺うようになったという『日本書紀』には書いてある。応神一族、葛城、平群などの権力闘争が激化し、混乱に陥っていたというのが応神朝の最終局面であった。
7.政権奪取に成功した地方豪族の継体新王朝
継体は、応神朝の最後の大王・武烈(あまりにも残虐すぎるエピソードばかり残された大王であり、それゆえに存在も疑われている)から10親等も離れた応神の5代の孫であり、一般的には大王の継承資格がない。越前にいた継体は、混乱した大和朝廷の後継者になるように、大伴氏に促されて畿内をめざすが、抵抗を受け大王即位から20年も大和に入れなかった(その間、樟葉に5年、筒城に7年、弟国(乙訓)に8年いた)と『日本書紀』は記す。これは、血のつながりのない地方豪族が大和征服に20年かかったと見るのが、常識的な解釈であろう。
20年かかってようやく大和に入った(北摂高槻に陵墓があることを考えると、本当に継体は大和に入れたのかどうか疑問も残る)継体に待ち受けていたのは、筑紫の磐井の反乱だった。これも、新政権の正統性を認めない北九州勢力による政権奪取の戦いだったと解釈されよう。崇神朝も、応神朝も九州から畿内に行き、政権を取っているので、九州勢力には、自分たちの方に正統性があると考える十分な理由はあった。この戦いにおいて、物部氏が継体から派遣されて活躍しているので、継体が大和に入った時点では古くからの有力豪族(もしかしたら崇神朝以前の支配勢力?)である物部氏が味方についていたことは明らかである。
継体のあと、天皇家の系図上では安閑、宣化、欽明の順で王位が継承されたことになっているが、むしろ尾張氏を母に持つ越前時代の継体の子である安閑と宣化の兄弟が、応神朝(大和旧勢力)の血をひく母を持つ欽明によって倒されたと考える方が無理がない。この争いの中で、継体の即位に力を貸し、朝鮮半島の任那経営に失敗した大伴金村は、政権中枢から追われ、欽明を推した蘇我稲目が台頭してきたと考えられる。それゆえ、この王朝は旧勢力の血を引く欽明から本格的に始まると見た方がいいかもしれない。継体の年齢(欽明が生まれた時、継体は58歳以上)から言うと、欽明は継体の子ではない可能性も高い気もするが、それは私の推測にすぎない。しかしいずれにしろ、欽明は大和の旧勢力に推された新王朝の大王という位置づけであったことは間違いないだろう。大和の旧勢力からすれば、地方豪族であった継体やその子孫から、再び権力を奪い返したという思いだったのではないだろうか。
蘇我氏は葛城氏から分かれたとも言われるが、新しい信仰である仏教への肩入れ具合や稲目の父の名が高麗であることなどから、彼ら自身もそう遠くない昔に日本にやってきた渡来氏族である可能性も高いように思われる。であるならば、大和の旧勢力と言っても、蘇我氏という新たな勢力が中心ということになる。物部氏は継体の協力者になり勢力を伸ばしたが、安閑・宣化と欽明の対立の中では、朝鮮経営に失敗した大伴氏と心中する道は選ばず、欽明側についた。結果として、この後しばらく、蘇我氏と物部氏が2大勢力として拮抗する時期が続く。
8.大和朝廷とは豪族による連合政権
ここまで見てきてわかる通り、大和朝廷とはこの時期(6世紀)に来ても、豪族たちの権力をめぐる闘争と連合の歴史と言える。この後、7世紀の終わりから8世紀にかけての(天武・)持統朝で唐をまねて律令体制を整え、大王を天皇と呼ぶようになるまで、大王というのは大和連合政権のトップに与えられた称号(今で言えば大統領のようなもの)に過ぎなかったのではないかという仮説も十分立てられる。天皇家の系図というものが存在する今から見ると、系図のつながりの不自然さが明らかなところから3~4の王朝交代があったと語るのがせいぜいだが、本当はもっともっとトップは代わっていたのかもしれない。物部氏も三輪氏も葛城氏も平群氏も蘇我氏も、本当はある時期は大王であったのかもしれない。俗に「大化の改新」(厳密には「乙巳の変」)と呼ばれる、中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿の暗殺事件も、当時の政権トップだった蘇我氏を引きずり降ろして、自分たちが取って代わろうという個別氏族の私的利益をめざした行動だったと解釈した方が納得がいく。
こうした大和朝廷の歴史を書き変え、神から続く天皇家という特別な一族の存在を創作し、それを操ることによって実利を得ようとしたのが、藤原氏(特に藤原不比等)の戦略だったという仮説は傾聴に値する。各地の豪族の反乱や、恵美押勝や弓削道鏡のような皇位を狙う人物の登場も、藤原氏によって書き換えられた歴史の中では、「反乱」であり「怪僧」ということになってしまうが、もしも大和朝廷がもともと力のあるものをトップに立てる連合政権であったのなら、彼らの試みは決して特異な事件ではなく、たまたま政権奪取に失敗しただけのケースとも見ることができる。
9.桓武の新王朝意識はなぜ生まれたか?
奈良から京都に都を移した桓武天皇には父の光仁天皇(天智の孫)から始まる新王朝を建てたという意識が強かったようだが、これについて、しばしば天武系から天智系に戻ったといった説明がなされている。しかし、私はそうした単純な天智系、天武系の争いでは説明がつかないと考えている。むしろ、桓武天皇の新王朝意識は、持統から始まる怨念の女帝政権からの決別と解釈すべきと考える。持統から始まる女帝政権は8代のうち6代が女帝(持統→(文武)→元明→元正→(聖武)=光明子→孝謙→(淳仁)→称徳)という日本の歴史でも稀な異常な時代である。聖武の皇后は藤原不比等の娘で政治的力のあった光明子であったこと、また淳仁の時代は、実質的権力は太上天皇と称していた孝謙が握っていたことを考え合わせると、見方によってはこの8代(奈良時代と重なる)はずっと女帝の時代であったと言えるのかもしれない。
怨念の歴史と呼ぶのは、まず持統が夫であった天武に多くの優秀な息子がいたにも関わらず、自らの血を引いた子・孫を天皇の地位につけるために、多くの天武の息子たち(大津皇子、高市皇子)を排除してきたことに始まる。この持統の戦略がみずからの立場を確立する上で好都合だった不比等とその子孫(藤原氏と光明皇后、孝謙・称徳天皇)はこれに協力し、持統なき後も、天武系の男系子孫を次々と排除してきた(長屋王、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王)。
桓武の父で光仁天皇となる白壁王も、天皇就任への誘いを非常に警戒したという話が伝わるが、この流れを知っていれば当然だろう。平城京はこうした歴史から怨念と祟りの渦巻く場となっていたからこそ、桓武は遷都が必要だと考えたのだろう。(それは、女帝時代から短期的に独立をはかった聖武も必要と考えたことであり、聖武自身も紫香楽、恭仁と遷都を繰り返した。)桓武の意識の中では、天智系に戻したというより、持統から始まる怨念の渦巻く血統を断ち切り、父・白壁王(光仁天皇)と母である百済系渡来人高野新笠から始まる新王朝を建てるという認識だったのだろう。持統朝最後の天皇である称徳と光仁では8親等も離れており、一般的には親族扱いもされないほどの血の薄さである。現天皇が、桓武天皇の母が百済系渡来人だったことに言及して韓国に対する親近感を語ったことがあるが、これも光仁・桓武から始まる新王朝だという意識が、現天皇家の人々も含めて、面々と伝わってきている表れと言えよう。
長々と書いてきたが、桓武天皇となり、平安京に都をおいて、天皇を特別な存在とし、藤原氏がそれを支えるという体制が確立し、ようやく日本統一国家は安定したと言えよう。この後は、10世紀前半に平将門が「新皇」を称する例外的な事件が起こるが、基本的には天皇の特別な地位は万人の認めるところとなり、権力をめざすものはすべからく、天皇に取って代わるのではなく、天皇をシンボルとして利用して実質を取るという「藤原氏方式」を踏襲していくことで、日本の政治は動いていくのである。