男 之 部

 

淋病(りんびょう) 重きは女を甘く口先で騙した理色情の間違い。又金銭出し惜しみ、婦人に金を渡すと云うて後からだます軽きは日々人の不足を見聞いて不足腹立つ嘘を云う。うそをつく事上手と云うのが淋病を諭す本家なり。

 

誠無き心にてほんまらしい嘘を云う。すべて親不孝の埃有り。負け惜しみ出し惜しみ出すべき事でも口先で甘く出さぬ理。色情に関する道と尿水に関する道とありて、尿水の方はくもよみ様我が身可愛が元から嘘云うて人と続ぎが切れる。淋病と云うても段々ある女の消渇も同じ。

 

 例えば心の運び身の運びと云う心で思う事多く身に行う事少ない。あしたらよかろ、こしたらよかろと心で思うては身に行わず。なれども我が身の事は気がつかず人の事には目で見て不足、物事聞いては不足、日々心のにごる埃にて来たる。しかし前世では色情の埃には違いない色情に関せざれば起こらん病だが若年のものは前世。今世は色情に関せずとも出る。

 

○尿道カタルも淋病と同じ理尿道カタルは小腸カタルも同じ事小便道(大腸カタルは大便の道痔も同じ)

○口先で人を使い口先で礼を云う物出し惜しみ口先上手。

○穴つきと云う人の欠点を探す目上の穴をひろう概して親なり。

○親と心合わぬ親と水くさい心短気理詰めを云い腹立つ。

○出すべき筈の金を少し出しては痛め出し惜しむ。

○小便の残るは十銭のもの九銭出してあと残す如き人に理詰めを云われてから出す如き痛んで出す出した後で痛む心。

○色情の間違い。色情の道余計に罪を造って人にりんきをさせ又自分もりんき腹立て罪が深い。人の妻を盗むとか、人の女を取るとか其の埃にて取られるが惜しいりんきから心煮やし沸かす埃で悋気病とも云う人のなさん事でも己が気を廻して日々心濁し沸かす。

○誰彼なしに色を好むみだらなる心。人道を外れる獣欲と云う如し。

○血の出るは同じく気を腐らす又女をうろに立たす理又女をかこう抱き囲う理。淋病でも中の続ぎが切れるには違いないから、くにさつち様になるが皆細かくしらべると全ての悩みが八社の神が御寄り下さる事になるが臺はくもよみの尊から諭す。我が身勝手の道或いは色情の道楽女郎買いなどに使いて使うべき出すべき所に出し惜しみ親でもあざむく如し。尿道狭窄等も淋疾の慢性より起こる事多し。

 

梅毒 (黴毒(ばいどく)瘡毒(そうどく)、かさ、ひえ、とも云う)自分の気ままで親の大恩を無にする埃親不孝。全て一道具の病は大抵皆色情で心得違い借り物知らずに勝手気ままに使い誰でもかまわずに色情みだら道を踏み外し身持ち道楽の理。疾と云うしつこいと云う。梅毒等は人のよく知りたる著しき病故記載を略す。

 

いんきん田虫 は金の心配と云うて金の使い方に色々心配する埃。例えば物を求めたき心あれども求めかけてはよう買わず買うと思うては止めにしつい/\三四度目に仕方なく惜しい/\ながら求めるという如き心。

○人の心を探り人の心にさわる事を云う心に不足を積もりて口で云わず一と口づゝ人の気にさわる事を云う。

○出すべき金を出さずまたぐらと云うくらにためて腐らすという(例えば一円の所なら八十銭返し二十銭は催促なくばよいとすてる如し)やるべき所へ金やらず滞る続ぎを切る掻きこむ。

○色情の欲も係る色の道放埓みだら。

○重症なるは無理に色情を行う理も有りて或いは人の妻を盗む如きもあり。

 

睾丸 大きくなる睾丸大きいも種々あり。

○欲にて嘘を云い取り込みの悪気高慢の理。

 ○色情に付きりんき嫉妬にて腹立ちより起こるのと金銭上の続ぎを切って恨み腹立つとか。 

○無理なる事して金を溜める人の金取り込み又女に付いて色情気ままから誰彼なく行いて道ならぬ欲をなす之れは色情の泥棒とも云う。

○例えば若き時女に付き渡すべき金銭かたりて出さずに恨まれる如く出し惜しみの強い又女より金を取り込む如き。

 

睾丸炎 色情の道縁談の道に付いて余程気随気まましたる埃なり且つ親不孝。例えば親の金でも引き出して女遊び女道楽に使う如し。

○淋病又は梅毒より起こるもの多し依って其の埃を知るべきなり。

 

男女間に就いて たとえば男であれば前世に妻を粗末にし、又色欲気まま我がままの如き埃あれば今世には我れの理想に叶うた妻を持って満足に仲良く通れぬ。或いは不器量な女とか病身で心配するとか、或いは我が身に故障有るとかいずれか欠点が生じて不足となる(夫婦が一切の本也)

 

 神様と云うものは人間の目に見えぬもの。形有る人間万物に現われ居て下さるが故、人間は十柱の神が入り込み居らるゝものなれば、人間に対してなす行為が皆神様に対すると同一なれば、色情気ままで妻を粗末にするのはくにさつちの尊を無にした埃となり。女なれば夫に不貞女をなして色情気ままするはつきよみの尊を無にするのである依って其の理に迫り幸福は与わらぬのである。

 

女なれば前世に夫を立てゝ貞女を尽くし、大切にせし因縁有れば心通りにて今世は結構なる夫に添うて貞女を立て円満に通れる。もし是れと反対で貞女を失い、我が夫を不足にして見下げ或いは不義等心得違いせし因縁有れば又心通りにて今世は不都合な夫に添うて人の夫に目を付けて羨ましがって通らねばならんのが因縁。

 

皆前世蒔いた種からして段々と間違いとなって来て益々悪因縁を深くする或いは中折れ、病身若死に生き別れ死に別れ等すべて世の中を満足に渡る事が出来ず不都合や不自由をせねばならん。

 

勿論前世の心は今世の性質となって居るものなれば其の欠点ある心を日々に使うて居るなり。又神の大恩を知り親様に対し満足して頂くと云うても神は目に見えない、やはり形に現われたる親又恩人の恩を知り、又人は互いに助け合い立て合いて大切に仕合うのが即ち神様に孝行となり大恩を報ゆる神様を立てるも同一のものなり。

 

依って例えば前世に親不孝、親を無にせし埃あれば、現世は幼少から親に別れるとか、親の顔も知らぬとか、或いは不都合な親に添うて行くとか、親の有難さを見る事が出来ぬが如く、皆心の作った境遇なれば、親大切、夫は妻を愛し、妻は夫を敬して前世の因縁を果たし、恩報じが出来る。

 

或いは結構な親方とか主人とか師匠の引き立て又は目上の引き立てを受ける事が出来ぬとか、例えば気まま放蕩して家の財産を潰し、家族に難儀を掛けた結果は、貧困の境遇に落ちて不自由せねばならんと同じ。

 

例えば、前世に子を粗末にしたる埃あれば、今世は子に不自由して或いは病身とか馬鹿とか放蕩とか不具とか、却って子の為に苦労する。我が子が与えて貰えぬとか、継子にかゝらねばならんとか皆神様の摂理で互いに添わせて互いの因縁報じをさせて下さるのである

 

 皆如何なる事も前世より今日迄我れの行うて作った心通り此の世に蒔いたる種が生え茂って其の理を見る心の道が因縁として、皆前世の天の借りを済まさねば此の世で通れぬのである故、日々に我が身に係り来る事は一人一名の天命にして、又我が心の鏡なれば、人を不足にせず、足納の理を治めて我が心を顧みて立替え、我が心さえ明らか美しくなるなれば、神の守護にて段々結構が見えて、互いに仲良く喜んで暮せる様に立替えてくる也。人を不足として居れば益々迫る。

 

 日々の足納は前世因縁の懺悔と仰せらるゝ通り、悪因縁が切れてしまう。神の教えを聞き分けて立替えせざれば我が魂が段々落ちて行くなれどそれが三十年か五十年の間か分らんのが人間故分らんのである。全て悪しき事でも思い切れざる心は前世持ち来たりの因縁心と云う。又日々思い詰めて気の発散付かざる心は身の内に障る理となり心悩む理が身の悩みとなる。神様の言葉にどんな理でも日々に皆受け取る、とある通り、日々我れの心使い言行は善悪共に此の世に種を蒔いて居るのである故、我れに帰る。楽しむべきは因縁怒るべき因縁なり。