教祖のもとへ「たすけ」を乞いにくる人が増えた結果、「奈良の木辻口町、楢屋の五兵衛といえる人、白米五合持参したのが、世界より持ち来た始めでありか」(『松永好松遺稿参考書』)という言い伝えがあるように、遠く奈良からも病人がきていたことがわかるが、木辻町といえば、『奈良坊目拙解』にも傾城(けいせい)町(遊郭)として賑わっていたと述べられているように、江戸時代を通して奈良を代表する遊廓であった。
少し想像をたくましくすれば、五兵衛とはそこの遊女屋の関係者であり、抱えの遊女の病気快復のお礼にきたとも考えられる。この人物についての推測の当否はともかくとして、こうした伝承が語り伝えられる背景には、当時、教祖のもとに救いを求めてやってくる人びとのなかに、遊里として栄えていた木辻町界隈の人がいたことがわかる。言い換えるならば、教祖の噂は遊廓に身を売られた女たちのもとにも届いていたにちがいない。
彼女たちは病んでいた。浅草吉原の遊女の投込み寺であった南千住の浄閑寺では、人権学習のために江戸時代の過去帳(複製)の一部が公開されているが、それを見ると、弔われた遊女のほとんどが二〇歳代の前半までで亡くなっている。こうした現実は奈良の遊女も同じであったからこそ、教祖の不思議な「たすけ」の噂にすがる思いで病の癒しを願い出たであろう。とするならば、教祖のもとへは性の病に苦しむ遊廓の女たちの悲痛な願いも寄せられていたと考えられる。
こうした想像が荒唐無稽のものでないことは、慶応三年四月五日から五月一〇日にかけての参詣人を記録した『御神前名記帳』のなかに、奈良の木辻町京屋平吉が参詣にきていることからも言えるのではないだろうか。
京屋とは木辻町の遊女屋の株仲間一五軒を記録した「木辻町轡之覚」に記載されている京屋庄左衛門のことであり、平吉はその身内と思われる。また同様に、庄屋敷村の隣村ともいえる丹波市の遊妓屋の主の名前も見いだされる。ともあれ、娼妓は稜れ観念とは別に金銭で売買される性の隷属民として貶められた存在であり、人びとの蔑視のまなざしに晒されていた。
幕末の民衆世界を書き残した日記群のなかに、伊勢参りの道中で遊女を買った旅の商人が「女は男より罪深い。女のなかでも、川竹の流れの女(遊女)となるのは、前世戒行の浅かったゆえと思う」と、娼妓に対する当時の庶民意識をつづっているものがある。つまり、彼女たちは二重の意味で虐げられた被差別の民であった。
(『中山みき・その生涯と思想』P29.池田士郎他.明石書店.1998)