新時代の象徴人

           

                                 大平 隆平

 

凡そ此の宇宙間にありとあらゆるものにして一つとして変化をしないものはない。例へ

ば空に漂ふ雲のたゝずまひも地を流るゝ川つ瀬も一刻として同じ所に止まつてゐるものは

ない。たとひ一見して何等の変化なきが如く見ゆるものも仔細にこれを観察すれば必ずや

何等かの変化をなしてゐるのである。これは自然界に於て其うである計りでなく人間界に

於ても其うである。

 

 今試みに紀元十億三十七年十二月大晦日の夜の銀座の一角をとつて研究せよ。其処には

来る可き正月を待ち焦れてゐる少年少女もあれば来る可き正月を如何にして楽むべきかに

ついて考へつゝある青年男女もある。これ丈けならば大晦日の夜の銀座は至つて平和なも

のである。けれども社会は而かく単純ではない。更らに其れ以上多くの人が歳末の勘定に

苦心しつゝ往来しつゝあるのである。行く人来る人其の中には債鬼もあれば債鬼に苦しめ

られつゝ逃げ廻る人の子もある。凡て此等の人間が相交錯して大晦日の夜の銀座は希望と

失望と歓楽と悲哀との劇場である。

 然るに一夜明けた元旦の朝の同じ銀座の一角を見よ。其処には昨日の債鬼も債鬼に追は

れた人の子も顔の相好を直して新春の気分に酔ひながら右往左往してゐる。吾人の日常生

活の上には常に大晦日と元旦程の大なる変化はなくとも昨日の世界と今日の世界、昨日の

人と今日の人との間には眼にこそ見えないが大小の変化が表はれてゐるのである。

 人は或は考へるであらう。昨日此処を歩いて居た人、昨日此処で働いて居た人、其れは

成程影も形もない。又た昨日の雨と昨日の風と昨日の塵と昨日の埃とは此処にはない。け

れども軒を並べて立つてゐる建築物と我が現在立つてゐる敷石のみは昨日の侭ではないか

と。これは大いに誤つてゐる。如何にも肉眼をもつて観察すれば凡て此等のものは昨日の

侭であらう。けれどもこれを細微な顕微鏡をもつて観察する時は其の間に何等かの変化を

生じてゐるに違ゐない。其の証拠には去年の春建てた新築の家屋は今年の春に於て決して

同一の新しさを保つてゐないのに見ても明かである。

 凡て変化は世界の常態である。其れは自然界にも起れば人間界にも起り、物質界にも起

れば精神界にも起り、主観界にも起れば客観界にも起る。釈迦は此の宇宙の変化相を見て

有為転変の世の中とも無常迅速の世界とも云つた。

 今之れを最も卑近なる物質文明の上に徴するに彼の灯明である。太古に於ては今日の如

く灯明もしくは灯火と云ふものはなかつた。日月が即ち灯明であり雪や蛍が即ち灯明であ

つた。其れが人智の発達するにつれて自然に灯明もしくば灯火を発明する様になり夜の焼

火が発明せられた。其れから自然の必要上野外灯では松明が発明せられ、松明が提灯とな

り、提灯が手提灯となり、手提灯が懐中電灯となつた。又た室内灯にては焼火が暗灯とな

り、暗灯が蝋燭となり、蝋燭がランプとなり、ランプが瓦斯となり、瓦斯が電気となつ

た。これは物質文明の上に起つて来た変化の一例に過ぎないが変化は物質界にのみ限られ

ては居ない。更らに其れ以上の大なる変化を精神界に引き起してゐる。今日は即ち其の空

前絶後の大変化期に際してゐるのである。

 天理教では教祖出現迄の世界を一世の世界と云ひ、教祖出現以後の世界を二世の世界と

云ひ、其れ自身を二世の建て換への教と云つてゐる。

 一世の世界とは即ち旧世界を意味するのである。二世の世界とは即ち新世界を意味する

のである。天理教は即ち旧世界の生んだ凡ゆる文明を破壊して全然新しき新文明を創造す

るにあるのである。

 天理教の第一の特色は陽気な宗教であるといふことである。凡そ一つの物もしくは一つ

の場所もしくば一人の人より得る所の気分は其の物其の人其の所が真であるとか善である

とか美であるとか云ふものを感ずる前に先づ明るいとか暗いとか陽気だとか陰気だとか云

ふ気分を感ずるのである。これは宗教とか哲学とか芸術とかに於ても亦其うである。

 吾人が今日迄呼吸して来た旧世界の空気は何となしに陰気な重苦しい空気であつた。と

云ふのは人間に水中生活や穴居生活の習慣性が残つてゐたからである。けれども今日は神

の所謂「明るいところへ出た」のである。従つて其の思想迄明るく陽気になつて来るのは

蓋し自然の要求である。

 天理教の第二の特色は積極的であるといふことである。積極的と陽気とは同一特色の様

に考へられるけれども陽気と云ふのは気分を指したものであつて積極的と云ふのは力の方

向をさしたものである。

 天理教の第三の特色は活動的であるといふことである。過去の宗教はやゝもすれば消極

的、隠遁的、観照的、冥想的であつたが天理教の特色は既に/\其れ等の境を超越して真

に活動の境に入つたのである。これは啻に天理教の特色である計りでなく、来る可き新時

代の特色である。

 天理教の第四の特色は向上的であると云ふことである。これは前代の頽廃的気分堕落的

分子の反動である。

 天理教の第五の特色は進歩的であるといふことである。これは前代の思想が進んで人格

の改良社会の進歩を計らうとするよりは寧ろ退いて自分一身の一時の安全を計らうとする

退嬰的気分保守的分子に富んで居つた。けれども来る可き時代は其う云ふ亡国的思想に生

くべき時代ではない。更らに大いに人生の向上発展を計らなければならない。この進化の

思想を引提げて生れて来たのが天理教である。

 天理教の第六の特色は創造的であるといふことである。天理教が創造的宗教であるとい

ふのは今日迄の旧世界の文明を破壊して全然新しき第二の世界を創造するにある。これは

従来の宗教の何れも多少持つていた特色であるが天理教の如く而かく根本的に第二の新世

界を創造せんとする宗教は未だ曾つてなかつたのである。

 天理教の第七の特色は建設的であるといふことである。これは天理教の所謂「限なし普

請」の理想が最もよく表象してゐる。

「限なし普請」とは不完全なる自己不完全なる社会を破壊しては創造し創造しては破壊し

て真に完全無欠の神の社(自己、社会)を建設するにあるのである。これを称して「第一

義の限なし普請」と云ふ。「第二義の限なし普請」とは地場即ち大和三島天理教本部の神

殿の不断の建築である。

 天理教の第八の特色は現実的であるといふことである。従来の宗教はやゝもすれば現実

を離れて理想に傾く傾向があつた。これは宗教ばかりではない。哲学でも芸術でも倫理で

も道徳でも其うであつた。けれども今日は時代が一変した。今日は理想を理想として貴ぶ

よりも理想の現実化云ひ換へれば理想的の現実を貴ぶ様になつた。この気運の先駆者とし

て生れたのが天理教である。

 天理教の第九の特色は実際的であるといふことである。

 天啓の声に

「論は一寸も要らん/\。論は世界の理で行ける。神の道には論は要らん。誠一つなら天

の理。実で行くが良い」

 従来の宗教は教論に重きを置いて其の実際的方面を閑却していた傾向があつた。云ひ換

へれば証拠より論を重んじた傾向があつた。けれども天理教は其の反対に論より証拠を重

んずる宗教である。此の論より証拠を重んずる天理教の特色は現代並に未来の特色であ

る。

 天理教の第十の特色は実行的といふことである。これは前二者の特色と血縁の関係にあ

るのであるが天理教が実行教である何よりの証拠は世人が奇異しつゝある御神楽のお手振

りである。彼れは人間は凡て心と口と手の三つが揃はなければ完全な人間でないといふ点

より心に思い、口に唱ひ、手にて舞ふのである。この実行を重んずる点こそ新時代の思想

の一角である。

 天理教の第十一の特色は天理教は生産的の宗教であるといふことである。

 教祖の言葉に

「働きなさい/\。人間であつて働かない者は我が教の子ではない」

と云つてあるが無為徒食することは天理教の第一の厭む所のものである。

 天理教の第十二の特色は平民的であるといふことである。これは天理教の特色であるば

かりでなく実に近代文明の特色である。将来世が進歩すればする程此の平民的思想が勃興

して来るのである。

 けれども此処に一つ誤解してはならぬことは貴族的といへば直ちに上品を連想し平民的

と云へば直ちに下品を連想することである。これは貴族的とか平民的とか云ふことを真に

理解しない為めに起る誤解である。平民的と云へば「低い心」と云ふことであつて全人類

を一列平等視するところより起つて来る思想なり、態度なりを指して云ふのである。従つ

て天理教は平民的だと云ふことは過去の宗教の如く階級的でないといふことを意味するの

である。更らに平民的と云ふ第二の意味は実質的内容的であるといふことである。即ち貴

族的と云ふ言葉の与へる暗示は繁文褥礼、形式儀礼、虚儀虚礼、虚飾虚偽、誇大負誇とい

ふ意味を連想せしめる。平民的と云ふ言葉は其の反対に正直、実直、勤勉、素朴と云ふ様

な意味を連想せしむるのである。之れを古い言葉で云へば剛毅朴訥仁(真実、自然)に近

しと云ふに相当するのである。又た貴族と云ふ言葉の内容は「巧言令色鮮いかな仁」に相

当するのである。従つて天理教が平民的だと云ふことは天理教が実質的だと云ふことを意

味するのである。この平民的特長こそ実に近代文明の特長である。

 天理教の第十三の特色は普遍的だと云ふことである。凡て平民的と云ふ言葉の中には一

般的もしくば普遍的と云ふ意味を含んでゐるのであるが此処では其れと別種の意味で普遍

的だと云ふのである。即ち此処に普遍的だと云ふのは世界的とか人類的とか云ふことを意

味するのである。其れは勿論全世界を大日本国にすると云ふ天理教の終局の理想より見れ

ば特殊的にも見えるであらう。けれども其れは形式上の論であつて其の内容は全然世界的

人類的のものである。

 天理教の第十三の特色は通俗的だと云ふことである。従来の宗教が兎角難解の辞句を並

べて人類の求理心を妨害せしに反し天理教は極通俗平易の大和の時代方言をもつて述べら

れてゐる。これは実に教祖の

「固いものは若い者が食べても老人や子供は食べられぬ。柔かいものは若い者も食べる事

もできれば老人子供も食べられる」

といふ言葉に表はされてゐるが如く学不学、識不識を問はず凡てのものに理解せしむるを

もつて目的としたのである。然るに時代の進歩するにつれて此の通俗平易と云ふことが

益々必要になつて来た。何故なれば時勢の進歩は次第に難解なる辞句の為めに多大の時間

と労力とを費す余裕がないからである。天理教の通俗味は実に此の時代の要求に適応した

ものである。

 天理教の第十四の特色は実質的だと云ふことである。此の実質的だと云ふのは「外の錦

よりも内の錦」と云ふ神の言葉に尽されてあるのであるが凡て無用の装飾や無意義な儀式

の為めに時間と労力と精力と物質とを費すことは天理教の極力反対するところである。こ

れがやがて近代文明の底を流れてゐる新しい潮流である。

 天理教の第十五の特色は単純だと云ふことである。これは近代芸術の最もよく表してゐ

る時代相であつて凡て創造期に通ずる特色である。

 天理教の第十六の特色は社会的だと云ふことである。即ち従来の宗教は多く社会と離れ

て社会生活とは没交渉な隠遁的生活を送るをもつて理想としたが天理教の理想は山の仙人

(不生産的人物)より里の仙人(生産的人物)をつくるをもつて理想とするのである。此

の一つ既に新時代の羅針盤として充分の価値がある。

 天理教の第十七の特色は家族的であるといふことである。此の家族的と云ふ言葉は天理

教が他の宗教よりも特に家庭生活を尊重すると云ふ計りではない。実に世界一列が一家族

として結合せんとするところにあるのである。此の特色は基督教以外の過去の宗教の何れ

にも見ることの出来ない天理教の特色である。

 天理教の第十八の特色は平和的であるといふことである。近代文明の主潮は一二の除外

例はあつても大体戦争よりも寧ろ平和を愛する傾向を有するに至つたのは悦ぶべき現象で

ある。天理教は実に此の平和の使徒である。

 けれども東洋人の通弊として一口に平和と云へば無念無想無作為の状態を想像すれども

天理教で云ふ所の平和は其ういふ希望もなければ生命もない無活動の状態をさして云ふの

ではない。人類相互が平和の関係を保ちつゝ各自の天職に向つて勤勉する積極的平和状態

をさして云ふのである。

 今日の戦争論者は何んな議論を述べるにした所で人生といふものは結局平和の状態に入

らなければならないものである。何故なれば戦争は決して人生の終局の幸福を意味してゐ

ないからである。

 天理教の第十九の特色は楽天的であるといふことである。凡そ宗教の数も数ある中に天

理教程楽天的宗教はない。此の楽天的と云ふこともこれを浅く解釈するものには浅薄なる

享楽派に堕ちる憂はあるが天理教の楽天主義は人事を尽して天命を楽しむといふ点にある

のである。天理教の楽天主義は人間は悲しむも楽しむも結局成る様にさへならぬと云ふ断

念的態度より来たものでもなく又た泣いたところが悲しんだ所が泣く丈け悲しむ丈け損で

あると云ふ功利的運命観より来たものでもない。神が人類を造つたのは人類の陽気遊山を

見て楽しみたいといふ意志に基くこと並に人生一切の事は凡て神意の発現であるが故に人

事を尽して天命を待つと云ふ信仰上の主義から来たものである。此の楽天的と云ふことは

新思想の一つの特色である。

 天理教の第二十の特色は相互扶助的であるといふことである。これは必ずしも天理教特

独の初説の真理ではないかも知らない。けれども人生は今日迄の所謂生存競争と云ふ残忍

な動物的世界を脱して真に相互扶助の世界に入らなければならぬものである。従つて相互

扶助といふことは新人生の内容であらねばならない。

 天理教の第二十一の特色は日の寄進的であるといふことである。日の寄進といふことは

日々の誠を神に寄進するの謂であるがこれを実生活の上より云へば日々結構に通らして戴

く神の大恩に対する感謝の一念より生れた利害観念を離れた献身的労働をさして云ふので

ある。来るべき新人生は正さにかくの如くあらねばならない。

 天理教の第二十二の特色は科学的であるといふことである。科学的だと云ふことはやが

て又た実験的、実際的だといふことを意味するのである。即ち今日迄事実を無視した空想

の跋扈に対する反動である。

 天理教の第二十三の特色は一元的であるといふことである。これは神と人と人と人との

関係が一元的であるといふ計りでなく全人類がこれ迄もつて来た異つた風俗習慣地理歴史

政治を全然手一つの理に統一せんとするのである。これが新時代の必然の要求である。

 天理教の第二十四の特色は地場中心的と云ふことである。これは新人生の空間的焦点で

ある。

 天理教の第二十五の特色は神霊中心的であるといふことである。今日迄の人類生活は或

は法律を中心とし、或は芸術を中心とし、或は哲学を中心として生活して来た。云ひ換へ

れば人間中心的であつた。けれども来る可き新時代は必らずや神の絶対理想に統一せられ

なければならない。云ひ換へれば信仰中心の時代に到達しなければならない。

 以上は天理教と旧思想との比較研究の上に成立する天理教の大体の特色であるが更らに

之れを実質的方面より観察すれば天理教の齎らせる新しき特質と使命とは過去の宗教哲学

のなさんとしてなし得ざりし精神的革命を根本的に完成するにある。云ひ換へれば過去の

宗教哲学の荒い熊手を逸したる小埃即ちほしい、をしい、かはゆい、にくい、うらみ、は

らだち、ゆく、かうまんに満ちたる現在の人類社会を根本的に清掃して塵一点も止めぬ清

浄潔白の甘露台世界  黄金世界  を此の地上に実現せんとするのである。此の新時代

の特色と使命とを負ふて生れた新時代の象徴人こそ人類の原母伊邪那美命の後身と称せら

れつゝある天理教祖中山ミキ子である。

 釈尊(宇宙の根本現在の神国床立命の化身)在世の予言に

 我が歿後の世界には正法世に住すること一千年像法世に住すること更らに一千年、其の

間に月光菩薩が表れて仏法を説くけれども奸悪なる世は之れに向つて耳を傾けるものがな

い。為めに正は蔽はれて邪ははびかる。けれども其の後に弥勒の世界が来る。弥勒の世界

が来たならば正法は復活して世界は根本的に改革せられるであらう。

と。

 思ふに月光菩薩の出現とは基督の降誕をさしたものであらう。而して天理教祖の出現こ

そ将さに吾人の待ちに待ち倦ぐんだ弥勒菩薩の再来なりと信ずるのである。

 教祖在世の予言に

「此の道を世界中に附け通したならば百姓は蓑笠要らず。雨が欲しけれは雨を授けてや

る。多ければ預つてもやるで。又た百姓の仕事の邪魔になる様な時には雨は降らさぬ。月

六斉に雨降らし、風はそよ/\と吹かせ、地震もなければ海嘯もなく、噴火もなければ地

辷りもなく、大風もなければ洪水もなく、旱魃もなければ飢饉もない。四時の気候が調和

せられて厳冬もなければ酷暑もない。外へ行くにも提灯要らず笠要らず小遣銭要らず。尚

ほ人間の徳が進んで行つたならば病まず死なずに弱りなき様にしてやる」

と説かれてある。誠にかくの如き黄金世界の到来は人類が長い間望んでゐた所の理想であ

つた。而かも其れは早晩此の世界に実現せられて来るのである。其の時来らば此の世界に

は一人の貪婪者もなければ一人の吝嗇者もなく、一人の邪愛者もなければ一人の憎悪者も

なく、一人の怨恨者もなければ一人の憤怒者もなく、一人の強欲者もなければ一人の高慢

者もなくなる。凡てが同胞兄弟として相親しみ教祖の所謂

「提灯要らず笠要らず鎖さぬ(夜戸を)御代にするが一條」

の世界が宛然に此の地上に実現せられるのである。

 教祖の降誕

 教祖の降誕日について今日伝はつてゐる所説に二つある。其の一つは寛政十年四月十八

日説であつてこれは今日普通伝はつてゐる所の説である。最う一つは四月四日説であつて

これは古い戸籍簿に依つた誕生日である。今日何うして四月十八日説が一般に用ゐられて

ゐるかと云へばこれは生前教祖の誕生日に就ては無頓着であつたものが教祖歿後に至つて

憶測によつて定めたものらしい。これはよくある例である。殊に戸籍法の不完全なる時代

にあつてはかくの如き誤謬は往々免かれないのである。けれども私は此処に戸籍に依つて

四月四日説をとるのである。

 凡て釈迦の誕生にせよ基督の誕生にせよ不世出の偉人の誕生には必らずや一種の奇瑞を

伴ふものである。教祖の誕生にも亦此の種の奇瑞を伴ふてゐる。

 伝説に依ると教祖の降誕日即ち寛政十年の四月四日の朝旭日の昇天する頃教祖の生家な

る大和国山辺郡三昧田の前川家の家根の上には五色の雲が棚引いた。其れと同時に家内に

は赤児の泣声が聞えた。かくの如くにして此の新時代の救世主は生れて来たのである。

 幼少年時代の教祖

 揺籃時代の教祖は泣いて両親を困らせると云ふことはなかつた。夜はよく眠り昼は温和

しく母の懐に抱かれて只管成長を待つてゐる様であつた。普通の子供では四つになつても

五つになつても汚物の世話を親にさせてゐるが教祖には二つの時から其れがなかつたとい

ふことである。

 三歳にしてよく物事を理解し四五歳の頃には生来の慈悲心が発芽して来た。即ち食物を

貰つても其れを自分で食べて了ふといふことなく近所の遊び友達に分配して其の喜ぶのを

見て自分も喜んだ。

 七八歳の頃には花だの蝶だの鳥だのといふものゝ形を切つて友達に与へたり又た編物や

袋物を拵つて子供に与へて喜んだ。

 近所の母親達の忙しい時なぞには自ら其の子を預り朝から晩まで色々な玩具を取り換へ

引き換へて子供の守りをして遊ばせてやつた。将来全世界の母たる所謂親心は既に此の時

に芽組んでゐたのである。

 寺小屋に通つたのは七八歳より十一二歳頃迄と伝へられてあるが其の頃のミキ子は他の

小供の様に家を離れて遠く遊ぶといふことはなかつた。多く両親の側にあつて其の細かし

い用を手伝ひながら家事を見習ふのを唯一の楽みとした。かくの如くにして十二三歳のミ

キ子は裁縫にせよ料理にせよ糸機にせよ婦人一人前の仕事は充分出来たといふことであ

る。

 凡て一技一能の名人は早くより其の天才を顕すものであるが教祖も亦早くより其の宗教

的天才を顕はしてゐる。

 前川家は元来浄土宗の信者であるがミキ子は早くも其の浄土和讃の全文を暗誦して朝夕

両親と並んで之れを仏前に唱へることを此の上ない楽みとした。それが年と共に発達して

十一二歳の頃には剃髪して尼にならうと云ふ決心を小さな唇より漏らす様になつた。

 教祖の結婚

 十二歳の秋官幣大社石上神社の大祭に父-前川半七正信-に伴はれて隣村庄屋敷村の親戚

中山善右衞門方へ行つた。之れを機会に中山家と前川家との間に縁談が開始せられたので

ある。ミキ子は此の縁談に対しては敢て進んで同意するでもなかつたが又た強ゐて不同意

を表はすでもなかつた。唯

「結婚後観経和讃を許されるならば」

といふ世にも珍らしい条件にて両家の間に婚約が結ばれた。

 中山家では始め此の条件は少女の口より出た無邪気の戯談として受取つたのであるがミ

キ子にとつては決して無邪気な戯談ではなかつた。彼女にとつては真に真面目なる宗教心

の要求より出たものであつた。其の証拠に結婚後ミキ子は

「中山家の嫁御は気が狂うたのではあるまいか」

と善悪なき村の賎女の噂に上つてゐるのにも耳を傾けず朝夕の観経和讃を実行したのに徴

して明かである。

 ミキ子と善兵衞氏との正式の結婚は或は十三歳とも云ひ或は十五歳とも云はれてゐるが

当時両家の縁談を立ち聞きしたミキ子は母に漏らした言葉に

「嫁なら行くし子なら行かぬ」

と云つたと云ふ言葉より推測して見ると両家の間には一二年の間は養女として貰ひ受け改

めて一定の年齢に達してから正式に結婚をさせやうと云ふ下相談があつたらしい。其れを

聞いてミキ子は此の言葉を母に対して漏らしたものと思はれるが兎に角十三歳の時中山家

に行く時は養女として行つたものではなく嫁として五荷の荷物をもつて行つたことは明か

なる事実である。

(大和地方では嫁の身分を示すに荷物の荷数によつて定める習慣がある。五荷の荷物と云

へば上の部である)

 花嫁時代の教祖

 教祖は元来蒲柳の質であつたが其れにも係らず中山家に嫁してよりは朝は家族に先つて

起き夜は家族に遅れて寝ね暫時も身体を遊ばせて置くと云ふことはなかつた。往々内の雇

人等が眼を醒して起き出やうとすると

「お前さん達は昼の働きで疲れて居るからもつと休んでお居でなさい」

と云つて休ませて自ら焼火から朝飯の用意をするを常とした。又た夜休む時は一同を寝せ

てから自分は家人の気附かぬ様に起き出でゝ昼仕残した仕事をした。殊に常人に出来ない

事は其の臥床前の三十分乃至一時間は両親の身体を按摩せずに床に就いたことはなかつた

といふことである。

 後日教祖が人に語つた言葉に教祖のしなかつた仕事は荒田起しに溝掘り。此の二つを除

く外の仕事は何んな仕事でも手にかけない仕事は一つもないと云ふことである。而かも一

旦仕事に従事するや天性の器用と生得の熱心とは常に常人の二倍の仕事をしたといふこと

である。

 両親を始め夫善兵衞氏は余りに教祖の過激なる労働をするのを見て屡々其れを止めたが

教祖は常に之れに向つて

「身体は使ふ為めに神様がお貸し下されたのを今迄は余り大事にされ過ぎた為めに却つて

弱かつたがこれから確つかり使はして戴かうと思いまして」

と答へるのを常とした。

 かくの如く彼女が両親や夫を始め下女下男に対する態度が何処一つとして非点の打ち所

のない鮮かな勤め振りであつたから結婚後五年即ちミキ子十七歳の時両親より一家の世帯

を任せられた。もつて彼女が尋常一様の婦人でなかつたことを知ることができる。

 主婦としての教祖

 庄屋敷では安達金持ち善右衛門様地持ちと云はれた程の豪農であつたから召使の者も一

人や二人ではなかつた。ミキ子が其等の雇人を使ふ方法は世間の所謂使へば使へ得と云ふ

が如き無法の使用法ではなかつた。使ふ時は充分使つてもいたはることも亦充分にいたは

つた。殊に祭日とか休日等には弁当迄持たせて遊びに出したといふことである。

 ミキ子が中山家の主婦となつた二年目即ちミキ子十八歳の時一夜中山家の綿倉に一人の

綿盗人が入つた。が幸か不幸か其の盗人が綿を一荷ウンと盗み出さうとした所を内の下男

に発見せられた。盗人は其処に荷物を投げ出して心得違ゐを詫びたが中山家の隠居善右衛

門氏は将来の為め代官所へ引き出す様にといふことを下男に命じた。其処へミキ子が出て

「此の盗人も貧の盗みで腹からの盗人ではなからうと存じます。此処で此の人を代官所へ

出せば罪人となつて一生人中へ出られない人間となります。将来の為め心得違ゐの所は充

分申し聞かせますから此の度は私に免じて免るして戴きたい」

と願つた。善右衛門氏もミキ子の殊勝な心掛けに感じて之れを免るした。其処でミキ子は

盗人に向つて其の不心得を説き聞かした上更らに一重の綿を添へて

「サアこれをお持ちなすつて下さい。これは何代か以前の内の先祖が貴方に借をして置い

たものですから遠慮なく御持ちなさい。又此の綿は之れは利息だと思つて持つて行つて之

れを資本にして堅気の商売をして下さい。これが私の頼みで御座います」

と詫びられる人が却つて詫びて傷を附けずに其の盗人を帰した。其れから再び両親の前に

出て

「誠に今程は有難う御座いました。就ては誠に御両親に申訳のないことを致しました」

と云つて盗人の盗んだ綿と尚ほ其の上に綿を添へて帰したことを述べ

「其の代り私は木綿物は一生着るだけ内から貰つて来て居りますから其れで通らして戴き

ますから」と云つて両親に謝した。両親もミキ子の英断を賞讃して

「其れは良い事をなさつた。今後も決して心配に及ばんから内のものを使つて下さい」

と云つて其の場は首尾能く治まつた。其の後二三日経つと前の盗人がボテ振りになつて来

「私も彼れを資本に此う云ふ商売を始めましたから今の後共に宜敷く御願致します」

と云つて礼に来たといふことである。此の真心をもつて人を愛するこれが彼女の一生を通

じて変らない唯一の感化法であつた。

 其の頃孫見たさの両親の寝物語に

「内の嫁は申分のない良い嫁だけれども何分子供がなくて困る」

と語り合ふ声がミキ子の耳に入つた。ミキ子も成程子供がなくては先祖に申訳がない。こ

れは剃髪して尼となつて衆生済度の傍此の家を立てる様にと決心して其の意志を近隣のあ

る懇意なお婆さんにほのめかした。お婆さんはミキ子に向つて

「貴女マア其う短気をお出しになるものではない。十九や二十で子供のあるもないもあり

ません。マア最う暫時お辛抱をなさつたが良う御座いませう」

と云つて止めた。ミキ子も其の言葉に力を得て出家を思ひ止まつたといふことである。

 こう云ふことが動機になつてミキ子は益々仏法に親しむ様になり遂に文化十三年二月勾

田様の善福寺で五重相伝を受ける様になつたのではないかと思はれる。

 其れにミキ子をして最う一つ仏法を頼らしむるに至つた他の動機があつた。其れは夫善

兵衛と下女かのとの不正の関係である。

 妻として耐へ難き苦痛の経験

 或る書では夫善兵衛とおかのとの関係を中年の恋の様に書いてあるが彼れは誤つてゐ

る。此の二人の関係は善兵衛氏とミキ子との間に子の無い間而かも両親在世中の出来事で

ある。

 ミキ子は此の両人の間の不正の関係を知りつゝも決して世の常の婦人の如く嫉妬に気を

狂はして常規を逸した醜態を演ずるといふことはなかつた。否寧ろ其の反対に二人の関係

が密なれば密なる程皆なこれ自己の不徳の致す所と足納して静かに両人の迷夢の醒めるの

を待つていた。然るに凡婦の浅間敷さにはおかのは教祖が柔しくすればする程増長して教

祖殺害の悪心をおこし一夜教祖を刺さんとして果さず、更らに毒殺せんとしてこれも失敗

した。

 本人の教祖はかのの悪計によつて一旦毒は嚥下したが幸ひ吐瀉して了つたので身体には

何の障りもなかつた。其の時周囲の人々はこれをかのの悪計と知り表向きの沙汰にせうと

したが教祖はこれを止めて

「これはかのが悪いのではない。私に何か心得違ゐの所があるから神様が私の腹の中を掃

除して下すつたのだ」

と云つて二人に対する態度は聊かも従前と異る所はなかつた。凡婦には出来難いことであ

る。

 然るに善兵衛もおかのもこれに依つて自分等の関係が道ならぬ関係であつたことを自覚

し遂に教祖の前に今日迄の罪を謝するに至つた。

 其の時の教祖は弥陀の精神其の侭両人の心よりの懴悔を納受しおかのには尚ほ半年の間

行儀作法等仕込んだ上嫁入の仕度迄して相当の家に嫁せしめた。此の敵も味方も一視同仁

の教祖の至誠に感応して今迄仇敵であつたかのは改つて教祖の無二の味方となり終生中山

家に出入したといふことである。 此等は教祖ミキ子が青春の色香もさめぬ新妻時代に残

した世にも貴き不滅の足跡であるが此処に止まつて暫時考へなければならぬことは教祖ミ

キ子に依つて示された絶対道徳と世間一般の相対道徳との区別である。

 絶対道徳と相対道徳

 今日の一般の婦人の道徳は夫夫たらざれば妻妻たらず夫夫たれば妻妻たることである。

(男子の場合も同じ)即ち相手の態度の善悪に依つて自己の去就を決するのが今日一般に

行はれてゐる婦人道徳である。けれどもミキ子の通つた絶対道徳は

 夫夫たらずとも妻妻たり

 夫夫たるも妻妻たり

と云ふのである。即ち相手の態度の如何に係らず終始一貫真実をもつて貫く此処に絶対道

徳の権威がある。

 前者の道徳即ち相対道徳は一見合理的の様に思はれる。けれども其れは真に自己並に社

会を治める所以の道ではない。何故なれば他人が我に向つて善をなしたるが故に我も亦他

人に向つて善をなし、他人が我に向つて悪をなしたるが故に我も亦他人に向つて悪をなす

ならば此の世界には悪の亡ぶる時がない。此の欠陥を救ふものが天理教の所謂絶対道徳で

ある。

 凡て凡夫凡婦の手にて授けられたる瓦は聖者の手より再び凡夫凡婦の手に帰る時は既に

玉と変じてゐるのである。而かも此の真実自然の絶対道徳は一身の利害を中心として進退

を決するものにとつては不可解の道徳である、けれども此の不可解の道徳を万人に理解せ

しむるのがミキ子の使命である。

 母としての教祖

 文政三年に隠居の善右衛門を失つた中山家は翌年の七月二十四日に長男善右衛門(後秀

司と改む)を挙げミキ子は始めて人の子の母となつた。これで結婚後長い間教祖の胸を痛

めて居た子供の問題は解決せられたのである。

 之れより先き夫善右衛門氏を失つた善兵衛氏の母(姑)は大病で五体の自由を失つたが

教祖は妊娠中に係らず之れを負ふて其の好む所へ行つた。

 教祖の精神

 蓋し教祖の精神を解剖すれば彼女には人を喜ばせる人を楽ませると云ふより外何物もな

かつた。従つて人を喜ばせ人を楽ませる為めには自分は如何なる難境に立つも敢て辞する

所がなかつた。これが真実の愛である。此の真実の愛は後に我が二人の寿命と我が寿命迄

天に捧げて人の子を救ふ大慈大悲の善行功徳とはなつたのである。

 教祖が一生の中に経験した最大の愛

 教祖は文政四年に長男善右衛門を挙げてから同じく八年に長女政子を挙げ、同じく十年

に二女安子を挙げた。教祖は出産の度毎に乳が沢山あつたから隣家の足達源右衛門の息照

之丞の乳の不足なるを憐れみ引き取つて養育してゐたが文政十二年の四月に疱瘡にかゝつ

て十日目には黒疱瘡に変じた。近所の医者と云ふ医者にかけて見たが何れも皆匙を投じて

了つた。其れで教祖は最早や人力の如何ともすることの出来ないことを悟り一夜氏神に詣

「もし照之丞の生命をお助け下さるならば長男を除いて二人の子供の寿命を捧げます。も

し其れで足らない様ならば我が寿命迄も捧げます」

と云つて一心篭めて祈願した所忽ち霊感あつてさしも危篤と伝へられた黒疱瘡が薄紙を剥

ぐ様に本復した。

 此の事あつて以来間もなく二女安子は歿した。其れから天保二年に三女春子を挙げ、四

年に四女常子を挙げたがこれも三年目即ち天保六年に歿した。最後に生れて来たのが末女

小寒子である。

 天保九年に教祖に神憑があつて刻限/\のお話に

「此の世に何が可愛いと云つても我が子程可愛いものはない。其れを二人迄も天に捧げ尚

ほ其の上に我が寿命迄も上げて人の子を助ける精神と云ふは元人間を生んだ伊邪那美命の

魂であるから。其れを天より見澄して天降り万人助けの道を授けるのである」

と。又た二女安子の死について

「いかに覚悟の前とは云へ一時に二人の子供を引き取つては気の毒故一旦安子一人を引き

取り其れを常子として生れさせてこれも引き取り其れで二人の寿命を天が受け取つた」

といふ天啓があつた。此の常子の魂が生れて来たのが後に「若い神様」と云はれた末女小

寒子である。

 此処に吾人々類が心を鎮めて学ばなければならぬのは教祖の絶対無限の愛と云ふことで

ある。

 世人は往々愛と欲とを混同視して愛即ち欲欲即ち愛と思つてゐるけれども其の間には天

地の区別があるのである。欲とは取ることである。愛とは与へることである。教祖の愛に

は欲はない。唯純粋無垢の愛がある計りである。而かも我が子二人の寿命を与へ尚ほ其の

上に我が寿命をも与へると云ふことは愛の極致である。

 凡そ大なる価値を得んと欲せば大なる犠牲を払はなければならない。教祖に神憑があつ

たのも偶然ではない。誠や此の絶対無限の愛なればこそ今日並に今日以後万人の母として

尊敬せらるゝのである。

 天啓の声に

「サア/\これを良ふ聞き分け。価と云ふもの与へる心なくばならん。与へのない処へ何

も価はあらせん。これだけ心にもつてくれにやならん」

 我に与へる心あつて天に与へる心あり、我に施す心あつて天に施す心あり。価は即ち与

へである。与へ即ち人に慈悲善根の愛がなくば天の価は決して我に下ることはない。

「我が身捨てゝも構はん。身を捨てゝもと云ふ精神もつて働くなら神が働らく」

のである。

 教祖九十年の生涯其の間有形無形の所有物を人に施与した慈悲善根は数へるに遑がな

い。けれども此の眼目はと云へば我が子二人の寿命を与へ尚ほ其の上に我が寿命迄も与へ

た偉大なる愛に如くものはない。此の一事は実に教祖伝中の花であり、実であり、核であ

る。

 神憑

 教祖に神憑があつたのは天保九年十月二十三日教祖四十一歳の時である。此の日麦蒔き

に畑に出て居た長男の秀司が小昼過ぎに足が痛いと云つて畑から帰つて来た。中山家では

人を長滝村の修験者市兵衛の元へ走らせたが市兵衛は恰度中山家の隣家の乾家に亥の子に

招ばれて来て留守であつた。其れで使を再び隣家に走せて市兵衛が来て祈祷の用意に取り

掛つた。其れが恰度二十四日の夜明前であつた。

(秀司氏にはこれまで七八回も同じ様のことがあつた。其の度市兵衛に祈祷を頼んで全治

した。今度市兵衛を頼んだのも其れが為めである)

 然るに其の日は何時も市兵衛の加持台に立つ勾田村のおそよと云ふ巫女が矢張り亥の子

に招ばれ出て行方不明であつたので臨時ミキ子を加持台に直して祈祷に取り掛つた。暫時

するとミキ子の容貌態度が一変すると見るや一人の神が降つた。

 市兵衛下つた神を尋ると

「我は天の将軍である」

 市兵衛もこれまで色々の神に接したが天の将軍と云ふのは始めてゞあるから

「天の将軍とは何方様で御座います」

と尋ると

「天の将軍は月日じや」

「根の神実の神である」

「此の屋敷は世界始めの元の地場世界一列助けに天降つた。皆が心得」

 其の音声と云ひ態度と云ひ恰かも三軍を叱咤するの漑があつた。其処に居合せたる人々

は其の威厳に打たれて思はず平伏して居ると神は其の宣言を水の流るゝが如くに述べて行

く。

「よつてミキの身体は神の社と貰ひ受ける。異存はあるまい」

 善兵衛を始め其処に居合はせたる人々は余りに思ひ掛けぬ突然の要求なので返答に困つ

てゐると

「今云ふたこと異存はあるまい。今云ふたこと不承知あるまい。主人返答は何んとある?

 其処で善兵衛よりミキを神の社とすると仰せられても彼女は五人の母でありますから差

上かねますと云ふことを申上ると

「神の云ふこと聞き入れぬとあらば家は断絶。当屋敷を一矢の中に黒焦にする」

と云ふ強硬な宣告である。

 此の云ふ問答が神と人との間に続くこと二昼夜。其の間ミキ子は水一滴飯一粒口にしな

い。其の様子を見るに見兼ねて漸く二十六日の朝に至つて承知の旨を申上ると

「満足/\」

の二語を残して神は退参になつた。これが天理教の立教日である。

 天理教成立の由来

 此処に注意して置かなければならぬことは天理教成立の由来である。

 天理教々典には人間の徳が進歩して所謂、霊淵に一瑣滓なきに至れば神明之れに授くる

に救世の大任を以つてすと云ふ様なことを云ふて居るが天理教の成因と云ふものは徳さへ

積めば誰でも済世救人の大任を授けられる、其んな単純なものではない。屋敷に人間始め

元の地場と云ふ深い因縁あり、教祖に人間最初宿し込んだ元なる親と云ふ切つても切れぬ

因縁あり、瞬刻限(時節)と云ふものがあつて始めて天理教と云ふ世界最後の宗教が成立

したのである。従つてこれを以つて在来のありふれた宗教と同一視することは出来ないの

である。此の点に於て天理教々典の如きは全然天理教の立場を誤解して居る。

 天理教々祖としての中山ミキ子

 世間では今日の天理教は始めより今日の如きものであつたと考へる人があるかも知らな

い。又た天理教の教祖も始めより晩年の教祖の如く神秘不可思議な天啓人であつた様に思

ふものがあるかも知らない。けれども其れは皆誤つてゐる。

 天理教は始めより三百万四百万の信徒を有した天理教でもなければ天理教祖は始めより

晩年の教祖の如き精神内容をもつたものでもない。皆小より及ぼして大に至つたのであ

る。

 お言葉に

「道の発達は世界の発達」

と云ふお言葉があるが初期の天理教は其うではない。寧ろ

 道の発達は教祖の発達

と云つて良かつたのである。

 天啓後の教祖は凡そ二期に分つことが出来る。

 第一期は物質的救世主としての教祖である。

 第二期は精神的救世主としての教祖である。

 第一期の物質的救世主としての教祖は四十一歳に天啓があつてから以後夫善兵衛氏の帰

幽後迄約二十年の間であつて此の間は専ら物質をもつて社会を救済した。教祖の言葉によ

ると六十になつて始めて神の世帯をもつたと云はれてゐるが真の意味の救世主としての活

動は六十歳以後である。其れで天啓以前の教祖を救世主として第一期の準備時代とすれば

天啓後六十歳迄は救世主としての第二期の準備時代と見ることが出来るのである。真の意

味の救世主としての活動は晩年の三十年である。

 貧のドン底

 天啓後間もなく教祖の受けた天啓は

「世界助けの為め谷底に落ち切れ其処から本道が見えて来る」

と云ふことであつた。

 其れで教祖は先づ自分の手廻りの物から施を始めたのである。其の施をなすにも教祖の

施は世の所謂慈善家と異つてゐる。

 彼女は先方より襤褸を纏ふた寒相な人間が来ると先づ其の人の行く先きに廻つて着物を

置いて置く。其の人が正直な人なればこれは内のものではないかと云つて届けて来る。其

の時教祖は

「これは内のものではありません。其れは貴方へ授かつたのだから遠慮なくお持ちなさ

い」

と云つて持たせてやる。其の人が

「其れを有難う御座います」

と云つて持つて行けば其の後姿を見送つて手を合せて

「御苦労様」

此う云ふ風に食ふ物がなければ食ふ物を持つて行つてやる。着る物がなければ着る物を持

つて行つてやると云ふ風に成らん者不自由なものに施して自分の実家から貰つて来た五荷

の荷物は忽ちの間に施して了つた。

 其れから段々中山家の金銭米穀を施してやる。其れも限りあるものであるから何時かは

尽きる。今度は田地田畑に手を附ける。其れを拒めば直ちにミキ子の身体は病気になつて

了ふ。止むなく夫の善兵衛も黙つて見て居たが段々内の財産が減つて行くにつけて世間で

は色々の噂さも立つ様になり親類よりも注告されるので神に誓つた誓言も忘れて一夜教祖

を先祖の位牌の前に座らせて来し方往く末のことを語り聞かせた上もし狐狸の業ならば此

の止め度もなき慈善を止めて呉れ止めぬとあれば先祖への申訳にお前の生命を貰はねばな

らぬと云つて先祖伝来の刀に手を掛けて迄嘆願したが教祖はこれに対して

「貴方の仰せは尤もでは御座いますが最う暫時の御辛抱を願ひます。神様は一粒万倍にし

て返して下さるから」

と云つて手をついて夫の前に謝した。夫も人に物を貸しても催促もし得ない様な善人であ

るから其の場は其れで治まるが其れも永くは座視するに忍びない。其れで度々異見もし反

対もした。此の間にあつてミキ子の経験した精神上の苦痛は善兵衛の経験した其れよりも

より以上に深刻なものであつた。即ち神の云ふことを通さうとすれば内々の者が反対す

る。内々のものゝ云ふことを通さうとすれば神の言葉を無にする様になる。遂に煩悶の結

果死を決すること前後三度其の度に彼女の耳に聞ゆる神の声

「短気を出すな。今暫時の辛抱」

強ゐて決行せうとすれば五体が縮つて動くことが出来ない。其れで仕方なく思ひ返して自

分の不心得を神に謝すると再び身体が動く様になる。

 此う云ふ具合で天啓後の中山家は一家の心が個々別々で統一と云ふものを失つて了つ

た。従つて傍の見る眼は随分哀れに陰気なものであつた。けれども其れにも係らず神の思

はくは着々実行されて天啓後十年には中山家の財産は殆んど施して了つた。けれども神は

其れでは満足しない。更らに家を毀つて施せと云ふ神命であつた。

 其の家を毀つ時には人は中山家の零落するのを気の毒がつたが一人教祖のみは大勇みで

「サア/\皆さん祝つて下さい。これから世界の普請にかゝるのだと云つて神様は大喜び

で御座います。何もないけれども祝つて下さい」

と云つて手伝に来た人達に酒肴の御馳走をして其の労をねぎらつた。此処に教祖の偉大な

る精神が遺憾なく発揮せられてゐる。

 天啓の声に

「天理王命と称する源由は元無い人間無い世界を拵へた神である。サア神の社になること

は小さい百姓家より大きな百姓家へ来た様なものである。」

と云ふ言葉があるが此の時の教祖は最早や何処から観察しても中山家の主婦中山家の母で

はない。

 世界の主婦万人の母

である。彼女が自分の家の毀されるのを見て大勇みに勇んだのは彼女にとつては最も自然

な行為である。

 夫の死

 中山家が毀たれた屋敷の跡に雑草が生えるのを見て夫の善兵衛は亡くなつた。其れが嘉

永六年教祖天啓後十六年目である。

 其の頃の中山家は貧の谷底に落ち切る真最中であつて一家族が塩と水とで通る様なこと

も往々あつた。其の間にあつて教祖は道を宣伝する傍賃機を織つたり賃糸をとつたりして

衣食の資を得長男の秀司は薪や青物を町に売つて生活を支へて居た。又た末女の小寒子は

仕事の傍母を助けて布教に従事した。(此の頃は二人の女は既に他に嫁してゐた)此の二

人の兄妹が神命を奉じて始めて大阪に布教に出たのも此の年である。

 最初の産屋助け

 産屋の理を説けば長くなるが婦人が七十五日産屋にあると云ふのは人間の母親伊邪那美

命が七十五日かゝつて人間を全部生み下ろした御恩報じの為めである。けれども此の度人

間元生み下ろした元の親が表れてだめの教(世界最後の宗教)を始める証拠として七十五

日の産屋の不自由を三日に縮め三日目より常の如く働かしてやると云ふのである。其う云

ふ理由で初期の天理教では天理王命のことを特に産屋神様/\と云つて方々から願ひに来

たものである。

 凡て産屋助け計りではない。病人の救済で貧人との救済でも教祖が身自ら一度実験しな

いと云ふことはない。教祖が貧の谷底に陥つたのも人間は難儀不自由をして見なければ難

儀不自由な人の苦労がわからぬ。難儀不自由な人の苦労がわからねば同情と云ふものがな

い。同情がなければ真の助けと云ふことは不可能である。其れで神は教祖を一旦貧の谷底

に落して貧苦の味を経験せしめ更らに産屋助け病助けの実験までなさしめたのである。

 第一回の産屋試しは教祖神憑後四年目自分自身に産屋試しの経験を受けられた。其の時

は分娩後自分で一切掃除して何時もの如く立ち働かれたのである。第二回の産屋試しは安

政二年教祖五十八歳の時三女春子の出産の時産屋許るしをなされて安産させた。これが親

戚に産屋試しの始め

 第三回は安政五年六十一歳の時隣家の百姓惣助と云ふ者の妻お雪といふ婦人に産屋許る

しを与へられた。これが他人に対する産屋許るしの始まり。

 爾来神を信じてお願ひに来るものにはお助けがあつた。今日大和地方では未信者でも難

産の時は天理教へお助けを戴きに来る。其れでも不思議にお助けを戴いて軽るきは生むと

直ぐ重きは三日目より常人の如く働くことが出来るのである。これが為めに庄屋敷の産屋

神様と云ふ名が一時専ら地方に喧伝せられたのである。

 最初の病助け

 教祖が始めて病助けの霊力を天より授かつたのは天啓後十年目である。

 一日一家は朝来の断食の為めに空腹を忍んでゐると表より杖に縋つた一人の病人が

「庄屋敷のおみき様といふのは此方で御座いますか」

と云つて入つて来た。

「私は人から庄屋敷のおみき様へ行つて願へば病気がよくなると云ふことを聞いて参りま

したが私の病気をよくして戴けますまいか」

 其の頃のミキ子は未だ病人助けの経験はなかつたから

「私はミキで御座いますが其れは人違ゐで御座いませう」

と云つて見たものゝ兼ての天啓に

「貧の谷底に落ち切れ。其れから先きは珍らしい助けをさす」

と云ふことを思ひ出して

「マアお上りなさい」

と云つて病人を上げ、胸に手を当てゝ考へて居ると

「あしきを払ひ助け給へ天理王命とこれを三遍づゝ三遍唱へて病人の身体を撫でれば助か

る」

と云ふ天啓に接したので其の通りすると不思議にも其の病人は即座に癒され帰る時は杖を

捨てゝ帰つた。これが病助けの始めである。

 道の発展と社会の迫害

 此等が原因となつて元治慶応にかけてはボツ/\信者が出来て来た。其れと同時に神官

僧侶の間に反目嫉視するものが出来て一難去れば一難来る、教祖の一身は全く火中に包ま

れる様の悲境に陥つたのである。殊に明治七八年より明治二十年教祖昇天に至る迄の間は

官憲の圧迫甚しく一人の信者でも屋敷の中へ引き入れゝば直ちに罰金もしくば拘留に処せ

られたのである。其の為めに一時は宿屋兼空風呂の鑑札を受けて信者の便宜を計つて居た

が何処迄も教祖を誤解して居る官憲は其の空風呂の中に薬品を投じて迄罪に陥れんとし

た、其れ計りでない御簾を飾れば御簾を取つて行く鏡を飾れば鏡を取つて行くこれを今日

より論ずれば当時警官が天理教に対して用ゐた法の乱用は随分問題になるのであるが如何

にせん当時の天理教は四面楚歌の中にあつたので如何ともすることが出来なかつた。

 巡査が拘引に来ると教祖は

「サア/\又来たで/\子供にや何うも仕様ない」

と云つてサツサと仕度をして何処かへ客にでも行くかの様にイソ/\として出て行くを常

とした。

 警察や監獄へ行つても警官や獄吏に対すること子供の如くであつた。最後に櫟本署に十

五日間の拘留に処せられた時の如きは巡査の苦労をいたはる為め表を通る菓子屋を呼び入

れて買つてやらうとして付添人に注意せられ始めて警察署なることに気附いた様であつ

た。

 彼女に取つては至る所これ我が家逢ふ人これ我が子であつて人の様に自他の区別はなか

つた。唯監獄もしくば警察の飯のみは不浄の飯だと云つて一粒も口にしなかつた。其の間

の飲食物と云つては唯水あるのみ。

 当時官憲の彼女に加へた暴行は随分甚しいものであつた。或る時は頭より水をかけたり

或る時は親指と親指とを縛つて天井に釣るして拷問したことさへある。而かも如何なる暴

行を加へられるも神色自若として毫も動ずると云ふことはなかつた。かくの如くにして彼

女が警察もしくば監獄に監禁もしくば拘留せられること前後十八回罰金もしくば科料に処

せられたこと数を知らない。

 昇天と昇天の理由

 今日の天理教界では彼女の長男秀司氏も末女小寒子も共に一身を捧げて教祖を助けた様

に云つて居るけれども実際は其うではなかつた。成る程末女小寒子のみは身装も構はず母

を助けて神に仕へたが其れも晩年には教祖の止むるをも聞かず梶本家へ嫁入して死んで了

つた。秀司は始めの程は善かれ悪かれ教祖と生活を共にして来たが晩年松枝子を娶つてか

らは両人共教祖に反対して余程彼女をして苦境に陥らしめた。殊に松枝子(松枝子は明治

十五年教祖に先つこと六年前に死んだ)の欲深い歪んだ性質は事毎に教祖の感情を害する

事多く為めに五十年の後半生中真に一日と雖も心の休まつたと云ふ日に逢はずに明治二十

年正月二十六日百十五歳の定命を二十五年縮めて昇天した。

 これについては色々の不審を抱くものがあるが彼女が定命を縮めて昇天を急いだのは

「何時迄此うして居ては傍も分らん。世界も分らん。助け一条遅れて了ふ」

と云ふにあるのである。宜なるかな彼女の昇天と共に世界の天理教に対する圧迫も止み翌

年二十一年には教会を設置して公然布教が出来る様になつた。

 天理教祖の理想

 天理教の理想は

「谷底をせり上げ高山を見下し世界を直路に踏み平らすといふことにあつた。之れを詳し

く云へば今日の世界は上流下流の区別があるが将来は人類の人格的価値を向上せしむると

共に其の生活の程度も向上せしめて人類間に上下の区別を根絶せんとするのである。

 此の理想を具体的に表現したものが地場中心主義である。

 地場中心主義とは御神楽歌の十下り目に示されてゐる

 一ツひのもとしよやしきの かみのやかのぢばさだめ

 二ツふうふそらうてひのきしん これがだいゝちものだねや

 三ツみればせかいがだん/\と もつこになうてひのきしん

 四ツよくをわすれてひのきしん これがだいゝちこえとなる

の所謂人間始め世界始めの元の地場大和庄屋敷天理教本部甘露台霊地を中心として不老不

死無病息災の道徳的理想の世界を実現せんとするのである。

 この理想の世界を称して甘露台世界と云ふ其の時来れば全世界には一つの歴史一つの地

場一つの風俗一つの習慣一つの言語一つの文章一つの宗教一つの政治に統一せられるので

ある。而してこれを統一するのは実に日本人ー神の長子ーの先天的特権である。

 日本見よ小さい様に思たれど根が表れば恐れ入るぞや

 だん/\と何事にても日本には知らん事をばないと云ふ様に

 今迄は唐(外国)や日本と云ふたれどこれから先きは日本計りや

 信ずべき人格と信ずべき宗教

 世間では天理教と云へば愚夫愚婦を迷はす愚民の宗教の如く信じ天理教祖と云へば愚夫

愚婦を迷はす妖婆の如く信じてゐる。けれども其れは其う信ずる人自身に真に宗教に対す

る批判力人格に対する批判力の欠けたることを証明するものである。

 天理は明かに愚民を迷はす愚夫愚婦の宗教ではないのである。もし天理教を利用して愚

夫愚婦を迷はすものがあらば其れは天理教其の者が悪いのではなく天理教を利用して邪欲

を充さんとする教師が悪いのである。此の二者の区別を明かにしなければならない。

 次には教祖の人格である。

 古来何時の世にか生命土地財産名誉を捨て更らに其の上に最愛の夫に反き最愛の子供を

捨てゝ迄万人の為めを計つた悪人があるか? もし其れをしも悪人と云ふならば此の世に

善人と称すべきがあるであらうか? 吾人は未だ曾つて其う云ふ者のあつた例を聞かな

い。天理教をもつて愚夫愚婦を迷はす妖婆の如く毒言するものは正に此の種の黒白顛倒論

者である。

 何故なれば

 人は皆日の寄進をなさゞるべからず

 人は皆互ひ助け合ひをなさゞるべからず

 人は皆朝起きをせざるべからず

 人は皆正直ならざるべからず

 人は皆働かざるべからず

と教へ且つ自らこれを実行した彼女の思想生活はこれ天理であり、天理に合した生活であ

つて些の非点を打つべき性質のものではないからである。否な/\今後の人類は是非共か

くの如き思想を有しかくの如き信仰に生きざるべからざるからである。

 新時代の象徴人

 古来宗教の数は多い。又た偉人の数も多数である。けれども今日は人生の定義が変つた

如く人の定義も亦変つた。今日並びに今日以後の人間は家庭を離れ社会と断つた遊離的人

物不生産的人物であつてはならない。家庭の一人社会の一員として活動する活動的人物生

産的人物でなければならぬ。云ひ換れば今日並に今日以後の人間は所謂「山の仙人」であ

つてはならない。「里の仙人」とならなければならない。更らに詳しく云へば今日並に今

日以後の人物は

 第一に朝起者ならざるべからず

 第二に正直者ならざるべからず

 第三に働き手ならざるべからず

 これが天理教祖の画いた新時代の理想の人物である。而して彼女は此の新時代の理想を

具体化した新しき象徴人であつた。

 けれども此処に一つ注意しなければならないことは天理教祖の教へた朝起きと正直と働

きとをもつて利己的の方便として同一視せざらんことである。何故なれば彼女の教へた朝

起き、正直、働きは決して一個体の盲目的欲望を満足さする為めではなく其れ自身が人生

の真の目的であつたからである。わけて働きの意義については注意しなければならぬこと

は世人は屡々働らきの意義を誤解して利己的労働と同一視するからである。

 けれども教祖の教へた働らきの意義は傍楽即ち周囲の人々を安楽ならしめんが為めの活

動を云つたのである。これが即ち彼女の所謂互ひ立て合ひ助け合ひ」である。此の「互ひ

立て合ひ助け合ひ」の教理と表裏の関係を有する教理に「日の寄進」がある。これは日々

の真実を神に寄進するの謂にして其の本体は正直其の者に外ならない。従つて今日並に今

日以後の人間はかくも定義することが出来る。

 第一 新時代の人間は相互扶助主義者ならざるべからず

 第二 新時代の人間は日の寄進主義者ならざるべからず

 之れを縮めて誠の人(真人)と云ふ。

 奸悪なる世界と幼稚なる社会とにあつては天理教は愚夫愚婦を迷はす淫祠邪教と誤解せ

らるゝであらう。又奸悪なる世界と幼稚なる社会とにあつては天理教祖は愚夫愚婦を迷は

す妖婦と誤解せらるゝであらう。けれども

  人は互ひ助け合ひをせざるべからず

  人は日の寄進をせざるべからず

  人は朝起きをせざるべからず

  人は正直ならざるべからず

  人は働かざるべからず

 更らに云ひ換へれば

  人は誠(真実)ならざるべからず

と教へた天理教祖の言葉を其の言葉を自ら実現した彼女の人格と生活とは真実である

 更らに偉大なる真実は人類を生み且つ育てゝ今日の人類に迄発達せしめた計りでなく更

らに彼等をして真の幸福に達する道を教へんが為めに一身の利害を忘れ有りと凡ゆる人生

の難苦を通つて根の教、本の教、実の教、止めの教を実伝した偉大なる真実である。此の

真実こそ今日は知らず将来の人類より永遠に感謝せらるべきものである。

 教祖歿後高弟飯降伊蔵を通じて語られた天啓の声に

「雛型の道より道はないで。何程急いだとて/\行きやせんで。雛型の道より道はない

で」

と教祖は実に神が人類の為めに下した新しき典型人であつた。今日迄天理教に反対した

人々並に将来天理教に反対する人々も最後の終局には神が人類の為めに示した此の最後の

雛型の道を通らなければならん様になる。これは世界の進歩と神の予言とに徴して明かで

ある。