わが国の成り立ちの歴史を検証する中で、世界的にも類例を見ないほどの、恐るべき歴史の改竄や捏造が行われていることが分かりました。
その動機は、この列島を征服した唐王朝の勢力により、彼らにとって都合の良い歴史を創作することにありました。
それによって、わが国の成り立ちの歴史は、大きくゆがめられてしまいました。
ここでは、どうして唐王朝がこの列島を征服しようとしたのか、そして、どうして架空の歴史を作ろうとしたのか、その軌跡をたどることにしましょう。
(邪馬台国検証)
1、クーデター的手法で唐を建国
2、謀略で実権を握った武則天
3、改竄された列島の歴史
4、列島征服前夜
5、残されていた侵略者の声
6、唐王朝の傀儡国家誕生
7、唐王朝滅亡
8、列島に避難した唐王朝貴族
9、さらなる歴史改竄
10、『倭』から『和』へ
永らく分裂を繰り返していた中国王朝ですが、581年、楊堅が隋を建国し、589年全土を統一しました。しかし、統一はしたものの、第2代煬帝で隋は滅んでしまいます。煬帝は、父である初代皇帝楊堅(文帝)がやりかけていた高句麗遠征を3度も試みるのですが、ことごとく失敗してしまいます。内政においても、百万人もの民衆を動員して華北と江南を結ぶ大運河(高句麗遠征対策)を建設したり、さらに民衆への度重なる負担で各地に反乱が発生し、隋は大混乱に陥ります。
その混乱に乗じてとばかりに、隋の武将でもあった李淵は、首都大興城を陥落させました。そして、煬帝を太上皇帝に奉り上げ、617年、煬帝の孫、恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握しました。その翌年、江南にいた煬帝が近衛軍団に殺害されると、李淵は、恭帝から『禅譲』を受けて即位し、唐を建国しました。
とは言え、隋も唐も同じ鮮卑族による貴族政治であって、その王朝の担い手が代わったに過ぎません。
また、李淵は、隋の武将であっても、皇帝位を引き継げるような血縁関係にはありません。ですから、煬帝の失政や民衆の反乱に乗じて首都を制圧し、自分の思い通りになり、かつ隋王朝の血縁関係にあたる人物をまず即位させます。そして、前帝の煬帝が殺害されると、その傀儡の恭帝から『禅譲』を受けて皇帝に即位するのです。
つまり、皇帝の地位をそれに相応しい血縁関係にある者へ引き継ぐ場合は、『譲位』とされるのでしょうが、そういった血縁関係に無い者へ『合意』の上でその地位を引き渡すことが『禅譲』とされています。近親者がいないといった場合なら、そういうこともあるのかもしれませんが、通常は血縁関係に無い者へ喜んで皇帝位を譲り渡す天子はまずいないでしょう。『禅譲』の多くは、強制的に皇帝位を奪い取った者による、その征服を正当化するための欺瞞的手段で、実質的には『簒奪』とも言えます。
あくまで、征服者・勝者にとっての都合の良いやり方です。
まずは、混乱に乗じてクーデター的に武力でもって制圧し、その後に都合よく、まるで強制ではなく譲られたんだという形で皇帝位に就くわけです。
煬帝が、ことさら暴君だったと描かれているのも、その李淵による『簒奪』を正当化しようとするものなのかもしれません。
これが、唐王朝を築いた李淵の手法です。
唐王朝第2代皇帝太宗、李世民の時代は、『貞観の治』と言われるほどに善政が行われたと評されてもいます。しかし、第3代皇帝高宗、李治の時代になると、大きく治世が変貌していきます。 649年、李治は、皇帝位に就くも病弱だったため、655年に皇后となった武則天が実質的支配者となります。
武則天は、624年生まれで、幼名、あるいは本名を『武照』と言い、14歳で第2代太宗の後宮に入り、その後李治高宗に取り入ります。その高宗との間に娘が誕生するのですが、武則天は、わが子を自らが絞め殺し、それを王皇后の仕業だとして、王皇后を皇后の座から蹴落とします。武則天は、自分が権力の座を仕留めるためには、わが子をさえも自らの手で抹殺するという残忍な手法を使っています。
この時点で、武則天は人間性を喪失しています。李世民は、武則天を遠ざけていましたから、あるいはその本性を見抜いていたのかもしれません。しかし、李治は、4歳年上の武則天に心を奪われ、周囲の反対の声も聞かず、武則天を皇后にしてしまいます。
皇后となった武則天は、その王前皇后等を虐殺しています。
武則天は、王前皇后と蕭前淑妃を百叩きにした上に、四肢を切断して、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込み、二人は酒壷の中で数日後に絶命しています。蕭前淑妃は、『次は猫に生まれ変わり、鼠に生まれ変わった武則天を食い殺してやる』と呪いながら亡くなり、後年の武則天は宮中で猫を飼うのを禁じたと言われています。
こうして、まるで鬼畜かのごとく唐王朝の実権を握った武則天は、身内の武氏一族を重用しますが、冷酷非道に子や孫であろうと自らに反抗する者を容赦なく抹殺し、また密告により反対派を徹底して潰すなど、独裁的な恐怖政治を横行させました。
ですから、漢代の呂后、清代の西太后とともに『中国三大悪女』と称されてもいます。
また、隋を滅ぼして唐を建国した李淵は、『天子になるであろう』という道教からの予言が、その行動の根底にあったとも言われています。そして、唐王朝初代皇帝高祖となった李淵は、主要な3宗教に、『道教・儒教・仏教』という順位を付けて道教を推奨しました。それに対し、仏教徒は、太子李建成を支持して巻き返しを図ろうとするのですが、道教に推される李世民が李建成を廃し、第2代皇帝となります。
この道教を重視する動きは、第3代皇帝高宗の時代になるとさらに強まり、高宗は老子を道教の祖『聖祖大道玄元皇帝』として崇めます。というのも、『史記』に、老子の名前が『李耳(りじ)』と伝えられていたので、唐王朝の李氏は、同姓の老子を自らの祖先としたからでもあります。それは、高宗の名前が『李治(りじ)』というところにも現れているようです。老子は、上巻『道経』、下巻『徳経』を残しており、李治は、それらを『道徳経』として推奨しています。
また、当時の道教にあっては、錬丹術、あるいは外丹とも言われますが、丹、つまり水銀を服用することで不老不死の仙人になることができると考えられていました。辰砂などから取り出した硫化水銀を原料とする仙丹を、皇帝たちは不老不死の妙薬だとして求めていました。
李治高宗が病弱だったというのは、あるいは水銀中毒の可能性もありそうです。
そして、高宗の皇后となる武則天も、李世民が亡くなった時に女性道士となり、李治も武則天も、道教に大きく関わっています。
その道教では、天の中心を為す北極を『北辰』と呼び、宇宙の中心だとしていました。それが、神格化され、『天皇大帝』とも呼ばれていたのです。こういった考え方を基にして、660年、武則天は皇帝を『天皇』とし、自らも『天后』と改名しています。
ここにこそ、我が国の今にまで続く天皇制の『ルーツ』があります。
このように、道教に深く関わった李治と武則天でしたが、その錬丹術の中心である水銀は、不老不死の仙薬どころか、逆に水銀中毒を起こす猛毒です。
李治が亡くなってそれを悟ったからでしょうか、武則天は、皇帝に就くと一転して仏教を推奨するようになります。自らを弥勒菩薩の生まれ変わりだと称して、仏教を道教の上に置きます。
この武則天の時期に、仏教は大きく勢力をひろげます。
しかし、705年武則天の退位とともに、再び道教が上位とされ、天皇も皇帝に戻されてしまいます。 一時、武則天は、絶対的な権力を手中にして権勢を振るいますが、李氏唐王朝宗家からすれば、所詮は外戚だということなのかもしれません。
中国には、『史記』以来『中国24史』と言われるほど数多くの史書が残されています。それは、同時に、それだけの王朝の交代があったことをも意味しています。滅んだ王朝の歴史を次に興きた王朝が書き残してきました。そこには、自らの正統性を誇示するものであったという側面もあるのでしょう。
一方、隋の時代、2代にわたる皇帝もその東に位置する『高句麗』遠征に出かけるもことごとく失敗に終わっていました。あるいは、それが隋王朝滅亡の原因を作ったとも言えます。そして、唐王朝第2代皇帝太宗、李世民も644年に高句麗遠征を行っています。この隋・唐王朝の度重なる攻撃を撃破していた高句麗に対し、第3代皇帝高宗李治の時代にも、さらにその征服が企てられます。
そういった時代背景の下、太宗の頃に、隋書、梁書、晋書などが編纂されています。
太宗は、すぐに怒ってしまう気の短い人だったそうですが、その側近であった魏徴は、癇癪を起こした太宗を2百回余りもなだめており、魏徴が亡くなった時、太宗は大いに悲しんだと言われています。魏徴は、歯に物を着せぬ人で、皇帝であろうと率直に進言をしていたと言われています。
そういった側近がいたことで、『貞観の治』と評されるような治世が行われていたとも言えます。
その魏徴により編纂された隋書には、この列島の姿がかなり正確に描かれています。
しかし、一方、同時期に姚思廉によって作成された梁書では、この列島に関わる大きな歴史の改竄が行われています。それまでの中国に残る史書は、大陸の王朝からの視点といったこの列島を卑下した表現ではあるものの、この列島の歴史はそのまま描かれていました。ところが、唐代になって、この梁書では、今まで描かれていたこの列島の姿が大きく歪められてしまいました。
梁書での倭人伝は、そんなに長くはなく、極めてコンパクトにまとめられていますが、今までの中国の史書には全く描かれてもいないこの列島の姿が誕生しています。
そして、それは、今のわが国の成り立ちとされている『歴史』と極めて酷似しています。
その基本は、
1)『倭人は、呉の太伯の後と言っている』と描いています。
この列島には、大陸からあるいは南方から数多くの民族が流れ着いています。それを、中国の流れを汲む『単一民族』といった勢力だとしています。
2)この列島の女王国への道順を直列に描いています。
魏書では、大陸から女王国へ行く道順にある国々を並列に描いていました。つまり、大陸から来る使者が伊都国に常駐していて、そこから各国への道順を記していました。それを、すべて同一の道順として女王国へ行くとしています。それにより、女王国は太平洋上にあるようなことにされてしまいました。
3)女王国『邪馬壹国』を『邪馬臺国』と描いています。
いわゆる卑弥呼のいた女王国は、魏書では『邪馬壹国』とあったものを、ここでは『邪馬臺国』としています。それは、勘違いでも書き間違いでもなく、倭王の居するところの『臺』、つまりこの列島の都として描かれています。卑弥呼は、確かに女王ではありましたが、この列島の倭王でもなく、その卑弥呼の地はこの列島の都を意味する『臺』でもありませんでした。
4)卑弥呼が魏へ送った使者を景初3年に行ったと描いています。
魏書では、卑弥呼が魏へ景初2年に使者を送っています。景初3年の正月には明帝が亡くなっており、その年、魏は喪に服して公式な行事は行われないといった時期に、6月から12月まで逗留していることになります。また、その使者に明帝から卑弥呼への詔書が渡されていますが、亡くなった明帝が書くことはできません。
その翌年、喪が明けた正始元年、魏が倭王へ送った使者を、卑弥呼への使者と描くための偽装工作だと考えられます。
5)卑弥呼の次の女王を『臺與』と描いています。
魏書では、卑弥呼の次に女王となったのは、『壹與』とありましたが、『邪馬壹国』とあったものを、『邪馬臺国』としたことと辻褄を合わせるためでしょうか、『壹與』とあったものを、『臺與』としています。今に残されている歴史にあっては、『豊』とも描かれています。
6)倭の5王を卑弥呼の地に居たと描いています。
宋書には、この列島の倭王であるところの『讃、珍、済、興、武』が描かれていますが、決して卑弥呼との関連を意味するような記述はありません。それを、まるで卑弥呼の末裔かのように取り込んだ表現で以って描いています。
これら梁書の基本的な視点は、この列島は倭王と倭女王という2大勢力による統一国家であったという当時の姿を、倭女王であるところの卑弥呼の勢力しかなかったと描くところにあります。
つまり、魏書には、この列島に『一国』と『大国』による統一国家が誕生した頃の様子が描かれているのですが、その実質的支配国の『大国』の姿を消し去るだけでなく『一国』をも消し去り、卑弥呼の国を、当時のこの列島の都を意味する『臺』だと描いています。
すなわち、魏書に『有男弟佐治國』と登場する、当時のこの列島の実質的支配者の歴史からの抹殺です。
卑弥呼を『補佐』していたとされる『弟』であるところの『佐』の王、つまり『すさのお』と後に呼ばれる出雲の大王による支配を歴史から消すところにありました。
この梁書に示された自らに都合よく改竄する手法による歴史は、その後の唐王朝の歴史認識ともなり、今のわが国の歴史認識の基本、あるいはその『ルーツ』にもなっています。
第3代皇帝高宗李治とその皇后武則天は、いよいよこの列島の征服に着手します。それは、東夷などと獣のごとく周辺民族を蔑視していた唐王朝による、高句麗の征服を中心とした東アジア一帯をも制圧する『大唐帝国』構築の一環でもありました。
それに向けて、この列島に対する視点は、単なる南方の孤島に住む倭人と卑下してきたところから、征服の対象へと変化しています。それは、梁書で示めされた視点がさらにエスカレートして『北史』と『南史』に描かれています。この両書は、659年、李延壽によって記されています。まさしく、列島征服を目前にして、李氏唐王朝が、この列島をどう見ていたのかが良く分かります。
北史では、隋書にあったこの列島を記した記述を使い、その中に都合よく文章を入れてまったく趣旨の異なる内容に作り変えています。そして、梁書と同様の工作が施されています。さらに、この列島の倭王の言葉は、すべて消されています。
南史は、宋書の記述を使っています。そして、同様に、その前後に都合の良い文章を挿入しています。
北史・南史とも共通しているのは、梁書と同様、九州の卑弥呼の地に都『臺』があったとする改竄です。そして、梁書にもありましたが、南史でもその東北に『文身国』なる国を作り上げてもいます。『文身』、つまり刺青(いれずみ)をしている国があるとしています。それは、体に獣のような入れ墨があり、額には『三』の文字が入っていて、その大きさで身分が異なるとまで述べています。この記述は、おそらく魏書を参考にし、さらに都合よく改竄しているようです。いわゆる魏志倭人伝には、九州に住まいする『倭人』の風習を紹介しています。その中で、『倭人』は好んで潜水して魚介類を捕獲しており、そのため蛟竜、つまり『サメ』などの被害から身を守るため断髪や入れ墨をしているとあります。それが、風習、あるいは装飾のひとつにもなっていたようです。当時、体に入れ墨をするというのは、海人族として大魚・水禽から身を守るということによるものだったのです。
ですから、騎馬民族である出雲の勢力は、漁に出かけるといったことはあっても水に潜るという漁がその中心にはあらず、ましてやサメなどから身を守るという必要もありませんし、裸になったり入れ墨をするといった必要性も風習も生じません。
体に入れ墨をするというのは、九州以南の民族による風習だと考えられます。
さらに、その国は豊かではあるが、賤しくてお客が行っても食べ物は出さないと、極めて卑下した描き方となっています。その上、国王にいたっては、その住まいは金銀や珍しい華麗な物で飾られていて、周囲には水銀が満ち溢れていて、その水銀の上を雨が流れているとまで記しています。
つまり、『文身国』なる国の国民は物が豊富にあるにもかかわらずお客に食べ物も出さないケチなやつらで、国王にいたっては、金銀財宝にまみれ、あの貴重な水銀を豊富に持っているが雨ざらしにしているとんでもない放蕩な国王だと言っているのです。
ここには、出雲の地にあったこの列島の都『やまと』をターゲットにしている唐王朝の思惑が、極めてあからさまに描かれています。
今も全国に数ある『えびす神社』の総本社は、島根半島の東にある『美保神社』で、そこの神紋は、『三』です。
また、この列島からは、丹波、つまり丹場、そして伊勢でも、水銀が産出されていました。それは、魏書にも記されていますが、かなりの産出量があったようです。伊勢では、江戸時代に至るまで採掘されていました。その水銀鉱脈を出雲王朝が支配していたので、それを唐王朝が狙っていたということを記しています。
唐王朝は、朝鮮半島も制圧するのですが、高句麗を征服した後、すぐに兵を引き上げています。
しかし、この列島では、その後も引き続き占領支配を継続しています。それは、この列島から産出される水銀が、その征服の動機のひとつだったからでしょう。遠い南海の孤島にまで、唐王朝が兵を送ってくるのですから、それも散々卑下してきた倭人の住む島にまでやって来るには、それ相当の『旨み』があったからだと考えられます。今で言えば、アメリカが遠い中東にまで兵を送り続けるのは、そこが石油を産出する地域だからこそです。
当時、水銀と言えば今の石油にも相当する貴重な資源で、朱色の原料であったり、不老長寿の秘薬のように思われてもいました。そして、何よりも、金の加工には欠かす事のできない、唐にしてみれば喉から手が出るほど欲しくてたまらない鉱産物だったのです。その水銀を豊富に持っているにもかかわらず、雨ざらしにするようなとんでもない放蕩な王だと描いています。
今でもそうですが、征服の対象は徹底して貶められます。桃太郎に登場する鬼のようなものです。侵略者は、まず侵略しようとする相手を必ず悪者に仕立て上げます。そして、そんなに悪いやつだから何をしてもいいのだとばかりに征服して強奪するのです。
その手法は、今も昔も変わりません。中東にも東アジアにも鬼が作られています。石油を手に入れるため、あるいは大陸へ侵略するためにそこには悪者が必ず作られ、その悪者を退治するんだとばかりに侵略していくのです。
この南史では、そういった侵略者の思惑が垣間見えるようです。
こういったまともな歴史書などとは言えない『梁書』や『北史』・『南史』の歴史認識、あるいはその手法が今のわが国の歴史認識となっているのですから、わが国の成り立ちの歴史がいかにでたらめかが分かります。
しかし、何故か、わが国の歴史家と言われる人たちから疑問の声があがることはないようです。
今のわが国でも同様なことが行われていますが、この列島への侵略を目前に控えた当時の唐の
兵士たちには、この南史にあるようなことが『教育』されていたことでしょう。それは、唐王朝がターゲットとする国に住む人々を、平気で殺戮する『正義の英雄、桃太郎』にするためであります。唐王朝にとっては、無慈悲に人を殺戮する兵士こそが、『英雄』というわけです。
当時の実質的支配者であった武則天は、わが子をも絞め殺すくらいですから、獣扱いをしている周辺民族など虫けらのごとくに惨殺されたことでしょう。
では、その武則天の手先たちが、周辺諸国をどのように侵略していったのか検証してみましょう。
この列島が唐王朝に征服されていたことは、出雲王朝の歴史と同様に、1300年にわたって、我が国においては消された歴史でした。しかし、そのすべてを消し去ることは不可能です。この列島にも、大陸にもその痕跡は残されています。
大陸に残された資治通鑑には、その侵略の当事者の姿が残されていました。資治通鑑は、北宋の時代、1084年に司馬光によって作成されています。紀元前403年から954年、北宋が建国されるまでの歴史が、編年体で記されています。
では、その資治通鑑に、この列島がどのように描かれているのか見ていくことにしましょう。
660年に百済と高麗は新羅を攻め、新羅は唐に救援を求め、朝鮮半島は大きな戦乱状態に陥ります。唐王朝は、この期にとばかりに、念願の東アジアの制圧を目指します。
その戦乱の中で、唐の武将劉仁軌は、監督下にあった兵糧船が転覆したため、処分を受けてしまいます。翌年、唐軍の武将劉仁願は、百済府城を占拠するのですが、逆に百済軍に包囲されてしまいます。そこで唐は、仁軌に新羅軍とともに仁願を救援するように詔を発します。前年に処分を受けていた仁軌は、名誉挽回とばかりに大いに奮起します。
その折に、仁軌は、「吾は東夷を掃平し、大唐の正朔を海表へ頒布するのだ!」とその征服欲を赤裸々に語っています。東夷、つまり百済や倭国などに住む東方の夷人を一掃して平定し、大唐帝国の正朔、すなわち暦を頒布するということは、征服して唐の暦で支配してやるということで並々ならぬ気概を燃やしています。
そして、仁軌は新羅の兵と合流して、百済軍を攻撃し、打ち破りながら進軍していきます。その結果、百済は万余人が戦死、溺死したとあります。
さらに戦闘は激化し、662年、百済は、倭国にも援軍を要請してきます。
一方、唐王朝も同年12月、いよいよ高麗・百済討伐の詔を発します。
その翌年663年の9月、熊津道行軍総管、右威衛将軍孫仁師等が白江にて百済の余衆及び倭兵を破ったとあります。さらに、仁軌等は、水軍及び糧船を率いて熊津から白江へ入り、陸軍と共に周留城へ向い、倭兵と白江口にて遭遇しています。これが、『白村江の戦い』と言われており、仁軌軍は、四戦して全勝し、倭国の舟四百艘を焼き、煙炎は天を焦がして海水は朱に染まったと記されています。
倭国、つまり出雲王朝は、5万人とも言われる軍勢を百済救援へと送り込みましたが、ことごとく殲滅されてしまいます。その直後に百済は滅ぼされてしまい、倭国もその主力部隊を失ったため、この列島は仁軌率いる唐王朝軍にあえなく占領・支配されることになってしまいました。 百済は戦乱の後で、家などは焼け落ち、屍は野に満ちていたとありますが、この列島も同様の状況下にあったことでしょう。
そして、仁軌は、屍を埋葬させたり、戸籍を作り、村へ人を集め、道路を開通させ、橋梁を立て、堤防を補強するなどといったことも行っています。つまり、戦後復興という『マッカーサー』的な役割をも果たしています。農耕対策、貧民救済、孤老対策や、当初述べていた唐の正朔を頒布したともあります。仁軌は、その後に屯田を置き、兵糧を蓄え、士卒を訓練し、高麗を図ったとあるように、反抗する勢力を一掃した後、そこを唐の勢力下にしています。
つまり、その戦後復興といった行為も、朝鮮半島を高麗征服の拠点にするためというのがその目的だとしています。
その翌年、664年の10月、仁軌は、皇帝にいくつかの進言をしています。
そこには、貴重な資料となる事柄が述べられています。
仁軌は、現地の守備兵について『疲弊したり負傷した者が多く、勇健な兵は少く、衣服は貧しくくたびれ、ただ帰国することばかり考えており、戦意がありません』とその状況を伝えています。
その守備兵が言うには『かつては、出征すると褒章が与えられ、海を渡れば勲1等を賜ったものだ。近年は、海を渡る者の名前さえ記録されず、戦死しても誰が死んだのかすら聞かれることもない。富める者は若くてもお金を渡して出兵から逃れ、貧しい者は老人でも連行されてしまう。出兵したらいろいろ強制に追い立てられ生きることすらままなりません。公私共に困弊し、言い尽くすこともできません。ですから、出兵に引っ張り出されるとこき使われるので、百姓は従軍を願わないのです』と紹介しています。
そこで仁軌が、その兵士に『往年の兵士は五年でも留まったが、今の汝等は赴任して一年しか経っていない。それなのに、なんでそんなにくたびれた有様なのだ』と聞きます。そうしますと、その兵士は、『家を出発する時に、ただ一年分の装備のみが支給されたのに、二年経ってもまだ帰して貰えません』と答えています。仁軌は、皇帝に『兵士達が持っている衣を検分すると、今冬は何とか身を覆うことができるでしょうが、来秋はどうやって過ごせましょうか』とその兵士たちの状況を述べています。
これらのことから、唐王朝軍によりこの列島が侵略されたのは、664年秋の1年前だということが分かります。
仁軌は、さらに重要なことを述べています。
『陛下が兵を海外に留めているのは、高麗を滅ぼすためです。百済と高麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の一国に戻ってしまいます』
先に、唐王朝は、高句麗の制圧を何度も試みてきては失敗していたとありました。
仁軌も、そのことを述べています。
そして、高句麗対策として、その同盟国をまず制圧し、そこを高句麗攻撃の拠点にするために唐は兵を置いていると、この列島の侵略や占領の目的を記しています。
この列島の制圧も高句麗対策の一環だったと仁軌は述べ、さらに重要なことに触れています。
『還成一國』
この列島も百済や高句麗と深い関係があり、守備兵を配置しておかなければ、元の『一国』に戻ってしまうと述べています。つまり、この列島は、『一国』と『大国』の統一した国を為していたと、このサイトでもその認識を公開してきましたが、そのことを仁軌は述べ、記録として残されていました。
卑弥呼のいた女王国の名称が、魏書において『邪馬壹国』とありましたが、それは書き間違いでも認識間違いでもなく『壹国』、つまり『一国』でなければならなかったのです。唐王朝によって『邪馬壹国』は、『邪馬臺国』と改竄されてしまいましたが、それが改竄であったことが、その改竄をした当時者である唐王朝の将軍の言葉によって証明されたことになります。
唐王朝は、その一方の『大国』、すなわち出雲王朝の勢力は殲滅し一掃しましたが、そのままにしておけば、『大国』の支配は消したが、ただもとの『一国』に戻るだけで、その地を引き続き占領支配し続けなければ、高句麗対策という列島征服の目的は果たせないと、その思惑を明かにしています。
この列島は、高句麗制圧のため、そしてアジア一帯を自国の支配下にしようとする大唐帝国構築のために侵略され、その後も高句麗対策などといった戦略のために占領支配が続けられていきました。
仁軌の進言で、この列島の兵は交代することになり、仁軌も帰国するように促されます。
しかし、仁軌は、『国家が海外へ派兵したのは、高麗経略の為だが、これは簡単には行かない。今、収穫が終わっていないのに、軍吏と士卒が一度に交代し、軍将も去るのは良くない。夷人は服従したばかりだし、人々の心は安んじていない。そんなことをすれば必ず変事が起こる。しばらくは旧兵を留め、収穫が終わり資財を揃えてから兵を返すべきだろう。軍をしばらく留めて鎮撫するべきだ。厚く慰労を加え、明賞重罰で士卒の心を奮起させるのです。もしも現状のままならば、士卒達は疲れ果てて功績などとても立てられないでしょう。まだ帰るわけにはいかない』と占領支配の陣頭指揮を現地で続けると答えています。
この列島は、仁軌率いる唐王朝軍によって侵略を受け、その後も占領支配が続けられ、この列島から出雲王朝『大国』や卑弥呼の国『一国』の影響を一掃し、唐王朝の支配が確立するまで、仁軌はこの列島で指揮を執っていたようです。
まさしく、劉仁軌は、第2次大戦後の『マッカーサー』といったところのようです。
この列島は、663年秋、唐王朝に征服され『夷人は服従したばかり』とあったように、出雲王朝の勢力は一掃され、残った人たちも、その支配下で虐げられることになってしまいました。今までは、遠く大陸からこの列島の人々を獣のごとく蔑視していた唐王朝に、これ以降は、直接支配されることになってしまいました。
この列島の実質的支配者であった『大国』の王である『大国主命』は抹殺され、国家的象徴であった『天』は、彼らの隷属下に置かれました。言ってみれば、関東軍の占領下で建国された満州国のような状況だったのかもしれません。
旧唐書には、この列島の『倭王』が、唐に連行されていたことも記されています。
『仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會、高宗甚悦』
665年、この列島を征服した司令官であった劉仁軌は、新羅・百濟・耽羅・倭の四國酋長を連行しており、それを見て高宗は甚だ悦んだとあります。周辺諸国を制圧した功労者である劉仁軌による、勝利の凱旋といったところでしょうか。
過去、唐王朝は、高句麗征服を何度も試みていました。特に、第3代皇帝李治の時代、その皇后に武則天が就いて以降は、特に周辺諸国の制圧する動きが活発になり、とうとう高句麗も668年に滅ぼされてしまいます。
東アジア、特に朝鮮半島を支配していく上では、この列島が唐王朝に反抗する勢力によって再び支配するようなことになっては大変です。出雲王朝の末裔たちが、いつ出雲王朝の再興を目指して対抗してくるとも限りません。そのためには、引き続き制圧しておかなければなりません。そうなりますと、一時的に兵士が支配していても限りがあります。兵士が帰国すれば、またもとの状態に戻ってしまうかもしれません。先に検証しましたように、農民を徴兵していましたから、その兵士たちは帰国がいつかと待ち望むばかりです。ですから、『屯田を置き』とありましたように、一時的な兵士ではなく、この列島を長期に支配するためにいつでも兵士として復帰できる体勢にある『屯田兵』を配置してもいます。
すなわち、この列島を植民地化していったということです。兵士も生きていかなければなりませんから、生業を営む必要が出てきます。農業だけでなく、兵器など軍事産業をはじめ各種産業に携わる人々も移住してきたと考えられます。まさしく、この列島で起きていたことが、満州国において再現されていたのです。
そして、その勢力を大きくしていき、荘園といったことも広がっていきました。この列島の人々は、農奴として隷属させられていき、それは後の地主と小作人という関係につながります。
唐王朝は、この列島の人々を倭人や夷人として獣のごとく蔑視していましたから、まさしく野獣のごとくの扱いを受けていたのかもしれません。
唐王朝の占領下で、その支配体制が確立したのが、701年、大宝元年です。この列島は、律令制度をはじめ租庸調などあらゆる制度が唐の制度に変えられてしまい、名実ともに唐王朝の傀儡国家としてその姿を整えました。
そして、そのことを盟主である唐王朝へ報告に出かけます。それが、長安3年(703)のいわゆる『遣唐使』です。旧唐書には、『長安三年(703年)、そこの大臣の朝臣真人が方物を貢献に来た。朝臣真人は、中国の戸部尚書のようで、冠は進德冠、その頂は花となし、分けて四方に散らす。身は紫の袍を服とし、白絹を以て腰帯としていた。真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美だった。武則天は、これを麟德殿に於ける宴で司膳卿を授けて帰国させた』とあります。
その使者は、『大臣朝臣真人』とあります。先の648年に行った出雲王朝の使者が報告していた、官位12階も消えて全くの唐の官位となっています。また、その使者の身なりは、中国の戸部尚書のようで、良く経書が読めて読解力もあり、その容姿は優雅で温厚だと唐は絶賛しています。さらに、武則天は、麟徳殿において『司膳卿』を授けたともあります。その待遇や描き方には、先に行った出雲王朝の使者とは大違いです。武則天が征服を命じて唐の支配下にしたこの列島からやって来たということで、武則天はご満悦だったことでしょう。
しかし、その使者からは、大陸の王朝などに屈しはしないといった、出雲王朝の使者のような気骨溢れる姿勢は微塵も感じられません。第2次大戦が終結して60年以上経ても未だに駐留を続ける米軍が居て、そのアメリカへの忠誠を競い合っている今のわが国と同様な状況下にあったのかもしれません。
これ以降、この列島の人々は、唐王朝の直接の支配下に置かれ、厳しい隷属と収奪の体制下で今の時代に至るまで延々と苦しめられることになってしまいました。
その上、唐王朝による占領支配の歴史は消し去られ、彼らによって押し付けられた律令制度は、この列島の人々が自主的に導入したといった、彼らにとって都合の良い捏造の歴史が、今のわが国の歴史とされています。
唐王朝は、第3代皇帝高宗李治の時代に高句麗を征服し、東アジア一帯をもその支配下に置き、当時、世界で最大の帝国を築きます。
しかし、高宗李治は病弱であったため、その実権は皇后武則天が掌握し、恐怖政治が横行します。その李治が亡くなると、武則天による専横はさらに強まり、第4代皇帝中宗が武則天に反抗しそうになると直ちに廃立し、傀儡の第5代皇帝睿宗も数年で皇太子に降格させ、ついに自らが皇帝位に就きます。その武則天の専横は目に余るものがあり、周囲から反発を招きますが、武則天はその反対派数百名を殺害しています。
武則天の死後、中宗が復位しますが、その皇后である韋后は、武則天のような皇后による支配を目論見、中宗を毒殺して帝位に就こうとします。しかし、睿宗の子李隆基によってはばまれ、韋后は殺害されます。
睿宗が復位するものの数年でその子李隆基に譲位し、ここに玄宗皇帝李隆基が誕生します。玄宗皇帝による治世の前半は、『開元の治』と言われる『善政』が行われています。しかし、その『善政』も、一部貴族にとっての『善政』であって、貧富の格差は広がっていきます。そして、没落した貧農を、貴族たちは、荘園で小作人として使用するようになります。
一方、玄宗は、異民族の侵入に備え『節度使』を設置して募兵集団の指揮を取らせます。しかし、751年、イスラム大帝国のアッバース朝との戦いに敗れ、唐王朝は衰退傾向に陥ります。玄宗も、晩年楊貴妃を寵愛し、治世を楊国忠に任せてしまい、唐王朝は、大きな動乱状態に陥ることになります。
その楊氏一族に不満をもった節度使安禄山は、755年洛陽を占領し、翌年自国を建て、さらに都長安を陥れ、玄宗は退位します。これが安史の乱と言われるもので、756年、楊貴妃や楊国忠は、四川に逃れる途中、軍隊に殺されてしまいます。
唐王朝は節度使を増兵するなどして盛り返し、763年、安史の乱は鎮圧されます。しかし、安史の乱によって律令制度は凋落し、唐王朝貴族の権威が衰退する一方で、軍事機構としての節度使が次第に兵力も財力も強めて民衆にも大きな影響力を持つようになります。その反面、支配力や財力が低下する唐王朝は、塩の専売により税収を高めようとするのですが、それがさらに王朝貴族への反発を招きます。
唐王朝貴族による圧制に対し、山東の塩の密売商人だった王仙芝と黄巣が、圧政・飢饉への反発で大農民反乱を起こします。この黄巣の乱(875~884)で長安は陥落、穀倉地帯は壊滅し、江南地方は荒廃してしまいます。それでも、唐王朝は反乱軍を寝返らせるなどの工作で反乱を一時沈めます。その黄巣の乱を鎮圧した功績で節度使朱全忠が、901年梁王となります。
その梁王朱全忠は、門閥貴族など唐の残党を残らず一掃したあと、唐王朝最後の皇帝である哀帝に禅譲を迫り、帝位について太祖となり、後梁を建国し、ついに907年、唐王朝を滅ぼしました。唐王朝貴族は、各地で惨殺され長安でも黄河に放り込まれるなど、徹底した殺戮の憂き目に会い、大陸から貴族勢力は一掃され消滅します。
それは、散々民衆を虐げ収奪してきたことによるもので、自業自得と言う他はありません。
その唐王朝貴族の一部は、反乱による殺戮の手を掻い潜り、この列島にまで逃れてきていました。そして、大陸を放逐されたその怨念を子々孫々にまで伝え、その復讐と唐王朝再興を必ずや遣り遂げるよう指示しています。
では、唐王朝崩壊によってこの列島はどのような影響を受けたのか検証してみましょう。
唐王朝は、この列島を朝鮮半島や東アジア制圧のため、反唐勢力の影響を排除するといった目的で支配し続けます。その支配者集団は、唐(藤)を源(原)とするという意味で、藤原氏を構成しました。当初は、屯田兵といったところから次第に勢力を拡大し、倭人を小作人として荘園で支配するようにもなります。その荘園は、近畿地方から各地に広がり、同時に藤原氏は、近くの近藤、遠くの遠藤、伊賀の伊藤、加賀の加藤、王朝を補佐する佐藤などと列島に広く派生し、倭人を支配していきます。
唐王朝による植民地と化したこの列島ですが、それはこの列島を唐の支配下にしておくということが最大の目的でもありました。その軍事的強制力は、『武士』でしたが、それは『武氏』、つまり『武則天』との関わりのある勢力でもあります。
『武士』は、それまでこの列島には存在していませんでした。ですから、その『武士』がどういった勢力なのか紹介するような形で、万葉集にも詠い残されています。
『天雲之 向伏國 武士登 所云人者 皇祖 神之御門尓 外重尓 立候 内重尓 仕奉 玉葛 弥遠長 祖名文 継徃物与』(3-443)
この歌はまだ先があるのですが、『天雲の向こうに伏す国で武士と言われている者は、皇祖神の門の外に立ち、あるいは中で仕え奉る者で、その名は遠い将来にわたって継ぎ行くものだ』と詠われています。
つまり、元々この列島に『武士』と言われる集団は存在していなかったので、それを紹介しているようです。天雲遥か向こうに伏す国とは、唐を意味しています。すなわち、この列島の『武士』にとって唐王朝は、皇祖神となります。その唐王朝を守るのが『武士』だと記しています。そして、この歌の通りに、徳川時代に至るまで藤原氏の守護を任務とする『武士』が存在していました。
この歌が詠まれたのは、天平元年(729)とあり、それは藤原光明子が聖武天皇の皇后となった年でもあります。その天平という年号は、唐王朝藤原氏によって『天』が平定されたことを意味しているようでもあります。
ところが、その盟主唐王朝が反乱軍によって滅ぼされ、庶民を散々収奪してきた貴族たちは徹底した殺戮・掃討といったことにより大陸から駆逐されてしまいます。彼らが、逃れていくとすると、その支配下にあったこの列島に一時身を置くしかありませんでした。
奈良の東大寺正倉院には、分かっているだけでもおよそ1万点もの宝物が残されています。正倉院は、聖武天皇の遺品を納めたところから始まったとされていますが、その聖武天皇の遺品は、当初600点あまりで、およそ半数は消失しています。つまり、正倉院に残されている宝物のほとんどは、その後に持ち込まれた物です。
また、正倉院の近くにある聖語蔵には、隋・唐時代の経巻が5千巻も残されていました。これらは、その唐王朝が滅亡する折に、反乱軍に奪われないように、彼らによって運び込まれた物だと考えられます。東大寺の『東』とは、『唐』を意味しているのかもしれません。
また、日本書紀私記にも、同じく唐が滅亡する前後の時期に、日本書紀のかなり詳しい講座がおよそ30年おきに6回開催されています。当時、唐からやってきていた人たちへの『教育』として開催されたとも考えられます。
しかし、大陸に王朝が誕生して以来、獣のごとく蔑視してきたこの列島にいつまでも居るわけにはいきません。早晩、再び大陸に舞い戻り、唐王朝を再興しなければなりません。しかし、貴族の彼らにとって、そんな戦闘能力はありませんし、大陸を再び制覇できるような勢力も直ぐには持ちえません。
そこで、彼らは、しばらくはこの列島に身を潜め、後世の藤原氏にその大陸回帰という悲願を託すしかそのすべはありませんでした。そして、大陸からの追手や、この列島に残っていると考えられる出雲王朝の勢力から身を守り、後に大陸へ侵攻する時のために兵力を増強していきます。
663年、この列島は唐王朝に征服され、その後も引き続き占領支配されていくのですが、それは唐王朝本国にとってみれば、南海の島をその支配下にしたといったことに過ぎませんでした。 唐王朝のテリトリーが広がった、あるいは本来自分のテリトリーと考えていたこの列島が、夷人であるところの出雲王朝に支配されてしまったので、それを取り返したとでも考えていたのかもしれません。
ですから、梁書や北史・南史では、出雲王朝である『大国』の支配を消し去り、卑弥呼の地をこの列島の都『邪馬臺国』と改竄して描いていました。それは、あくまでも大陸にいて、この列島を蔑視している唐王朝としての視点であります。
しかし、この列島に唐王朝貴族がやって来たということになると、また、その視点は大きく変わってきます。有史以来、大陸の王朝はこの列島を『倭人』の住む島として卑下してきていましたから、その島に身を置くということは、王朝貴族であるにもかかわらず、忌まわしい島に住む人間として、蔑まれることになってしまいます。
ただ、そんなことを考えていたのは、その唐王朝貴族自身でしかありません。
出雲王朝の勢力は、万葉集にこの列島の美しさを愛でて歌に残していることからすると、この列島やそこに住む人々を思う気持ちには大変な違いがあります。
大陸の王朝にあっては、人を5段階に分けるといった差別的な考え方が徹底されていました。それは、人の逝去にあっても同様です。天子であるところの皇帝の逝去は『崩』、諸侯は『薧』、大夫は『卒』、士は『不禄』、庶民や奴婢は『死』とされていました。
この列島の女王であった卑弥呼ですら、亡くなった時には、『卑彌呼以死』と奴隷並みの表現になっています。ましてや、この列島に住む人々は、東夷などと獣並にしか思われていません。
この列島に流れてきた王朝貴族たちにしてみれば、そのような島に住むなど到底耐えることのできないことだったのでしょう。ですから、何としても再び大陸へ戻りたいという執念と、この列島に追いやった大陸の人々に対する怨念は計り知れないものがあったのかもしれません。
しかし、それは、所詮、逆恨みというもので、自業自得でしかありません。ただ、極端に自己中心的な王朝貴族には、そんなことが理解できるはずもありません。
とりあえず、まずは、自らが住まいすることになったこの列島を、卑下される島から『高貴』な島へと装いを替えることにしたようです。さらなる歴史の改竄です。常に自らにとって都合の良いように歴史を造りかえるのが、彼らの基本です。
その装いも新たになったこの列島の『新しい歴史』が、『新唐書』に残されています。
旧唐書では、この列島に日本国の誕生した経緯を記していました。そこでは、出雲王朝が国名を日本と定めたのは、大陸の王朝から倭国などと蔑視され属国のごときの扱いを受けていたことがその大きな要因でした。
ところが、新唐書では、日の出る所に近いから日本という国名になったなどといった全くの架空の歴史となっています。そして、何よりも、この列島は、神武以来の天皇による支配下にあったなどという『歴史』が創作されています。『天御中主』に始まり、32世に至るまで筑紫城に王が居て、神武からは天皇と言うようになり、『大和州』にて統治するようになったとあります。これは、旧唐書にもなかったまさしく『新しい歴史』です。
このように、この列島の『歴史』は、その都度、都合良く変えられてきていることが分かります。
その唐王朝・藤原氏は、この列島にやっ来て、この列島の人々を獣のごとく虐げ、自らに都合の良い歴史を押し付けていました。
ところが、それだけでなく、この列島の人々は、彼らが再び唐王朝を再興するための大陸侵略の兵士として、その手先にまで利用されることになってしまいました。
907年に唐王朝が滅ぼされ、王朝貴族が大陸から一掃されるといった事態に陥り、彼らは、それまでに収集していた宝物とともに、その唐王朝の安定した支配下にあったこの列島に流れてくるしかありませんでした。
そして、彼らは、自らが住まいすることになったこの列島を、過去長年に渡り大陸の王朝から卑下されていた歴史を消し去り、『高貴』な列島に衣替えしました。それは、『大和』という地名にも表れています。『倭』とは、大陸の王朝からこの列島を蔑視した表現で、遠い南海の孤島に住む小さい人々といった意味です。過去、わが国でも、『紅毛人』とか『南蛮人』と卑下したり、また、南海の小民族を『土人』とか、その首長を『酋長』といった表現をしていた時期もあったようです。
彼らによってこの列島にも、人を蔑視する視点が持ち込まれたのでしょう。
その彼らは、大陸からこの列島を散々卑下してきた当事者ですから、『倭』の意味するところは、彼ら自身が最も良く知っています。ですから、その蔑視の象徴である『倭』を『和』という文字に変えたのです。中国の史書には、この列島の都を意味する『大倭』という表現が出てきます。つまり、この列島の都を意味していた『やまと』そして『大倭』は、この列島を支配していた出雲、あるいは出雲王朝を意味していたのです。それゆえ、彼らは、自らが支配するようになってからは、この列島の都は、奈良『大和(やまと)』に存在していたとする『新しい歴史』を創作したのでしょう。そこからは、この列島を彼ら自身が卑下していた表現の『倭』を消しています。
だからといって、この列島の人々を卑下する視点が無くなったかといえば、そうではありません。大陸の王朝による人を5段階で差別する視点に何ら変わりはありませんでした。この列島の人々は、引き続き、実質的には『倭人』として虐げられ、ほとんど獣並みの扱いのままです。
唐王朝貴族・藤原氏たちのみが、その蔑視から逃れようとするものでしかありませんでした。
そして、彼らは、このような列島から脱出し、再び大陸の人々を支配し、唐王朝を再興することを硬く決意しました。しかし、それは、簡単に出来るものではなく、しっかりとした、準備工作が必要となります。
それらの思惑や戦略を、彼らは、古事記に密かに残しています。
一見、古事記は、この列島の歴史を記した歴史書かその物語のようにも思えますが、藤原氏の勢力が読みますと、それは彼らがこの列島を支配する上での戦略を伝え残した指南書であり、大陸制覇へむけての指令書でもあったのです。
今風に言えば、藤原氏、あるいは藤原党の『綱領』といったものでした。
そこには、再び大陸制覇、大陸回帰を究極の目標と掲げる唐王朝貴族の悲願が密かに書き記してありました。
では、古事記にそれらがどのように残されていたのか検証してみましょう。
古代より、唐人藤原一族が抹殺したい神社が奈良三条通りの月日神社である。⇒月日神社へ