出口治明の歴史解説! 日本という国を誕生させた「女性天皇」より

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文藝春秋digital

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2020年3月5日 11:00

 

歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2020年3月のテーマは、「女性」です。

★前回の記事はこちら。

※本連載は第17回です。最初から読む方はこちら。

 

 

この問題とわが国の歴史としての天皇制がどうであったかという問題は、次元の異なる全く別個の問題で、これは学者の研究に委ねればいいのです。以上を前提として、歴史的に事実について述べれば、それはもう持統天皇(645~703)に決まっていると思います。8人いた女性天皇のなかで、第16代(継体天皇から数える)の持統天皇はぶっちぎりのナンバーワンです。持統天皇の業績は男女問わず歴代天皇の中でも飛びぬけていると僕は考えています。

 

持統天皇のお父さんは天智天皇(中大兄皇子、626~672)で、母の遠智娘は、蘇我氏の出身。持統天皇の諱(いみな)、つまり本当の名は鸕野讚良(うののさらら)といいました。彼女は12歳のとき、大海人皇子(?~686)の妻となります。大海人皇子は天智天皇の弟ですから、讚良は叔父さんに嫁いだわけです。

 

672年に天智天皇が死去すると、子の大友皇子(弘文天皇、648~672)が後継者となりました。しかし、大海人皇子がクーデタを起こします。古代日本で最大の内乱だった壬申の乱(672)ですね。『日本書(紀)』によれば、この企てには讚良も加わっていました。そしてクーデタは成功し、大海人皇子が即位し、讚良は皇后になります。大海人皇子はのちに天武天皇と呼ばれることになります。

 

讚良が実力を発揮するのはここからです。皇后となった讚良は、病気がちだった天武天皇に代わって、息子の草壁皇子とともに政治の表舞台に立ちました。天武天皇が686年に没し、さらに689年には草壁皇子が病死します。

 

草壁皇子の息子である軽皇子はまだ6歳。皇位を継ぐ年齢ではありません。讚良は天武天皇の死後、政治を取り仕切っていましたので(称制)、そのまま即位しました。

 

持統天皇は、中国の都城にならって、藤原京を造営します。持統天皇は、唐や新羅に対抗して中央集権国家の建設にまい進し、藤原不比等の助けを借りて律令国家を成立させます。また、「日本」という国号や「天皇」という称号も確立させました。

 

同時に、『日本書(紀)』という歴史書の編纂にも取り組みます。伊勢神宮の式年遷宮も、持統天皇の治世に始まったという説があります。誤解を恐れずにいえば、持統天皇が「日本」という国を誕生させたのです。

 

僕たちが「日本」といって思い浮かべるものの大本は、持統天皇の時代にできたものなのです。

 

そして、孫の軽皇子が14歳になると天皇の地位を譲ります。彼が文武天皇(683~707)です。持統天皇は皇位を譲ったあとも、太上天皇(上皇)という立場で政治を執り行います。日本で最初に上皇となり、「院政」を始めたのも持統天皇です。

 

この話、おばあさんが孫に国を譲ったということですよね。どこかで似たような話を聞いたことがありませんか。

 

そう、「天孫降臨」です。女性の神であるアマテラスが孫のニニギノミコトに命じ、豊葦原水穂国を良い国にするため高天原から高千穂峰へ降り立たせたという神話です。

 

この神話は、持統天皇が文武天皇へ天皇の位を譲った史実をもとにしているのです。持統天皇の別名は「高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」です。外国の建国神話で、おばあさんが孫に国を譲るエピソードは聞いたことがありません。実際に起きたことが神話化されたのです。いや、むしろ神話を創作することで、文武天皇の即位を正当化したのです。

 

『日本書(紀)』は720年に編纂され、元正天皇(680~748)に献上されたことになっています。タイミングもばっちりです。その元正天皇も女性天皇で、草壁皇子の娘であり、文武天皇の姉です。つまり、聖武天皇は甥になるのです。

 

このように持統天皇を見てみると、その名前にも大きな意味が隠されていると思えませんか。万世一系を象徴する中国の言葉に「継体持統」があります。「体制を継ぎ、血統を維持する」という意味ですね。現皇室まで連なる天皇家は、継体天皇(450?~531?)から始まったというのが定説です。その前の武烈天皇が後嗣を残さずに没したからです。現在につながる天皇家の初代が「継体持統」の継体天皇であり、日本という国を誕生させたのが持統天皇というわけです。

 

持統天皇がロールモデルにしたのは、中国の武則天(624~705)だと僕は考えています。中国史上唯一の女帝として知られる則天武后ですね。武則天も皇后から皇帝となった、有能なリーダーでした。

 

武則天が、夫である病弱な唐の高宗(628~683)を差し置いて政治を動かすようになるのは、持統天皇が10歳ぐらいのときです。それから武則天は約50年間、中国に君臨しました。当時の中国は世界一の大国ですから、日本でも話題になったことでしょう。女性が世界のリーダーだと聞いて、持統天皇も「わたしだってやれるに違いない」と思ったことでしょう。

 

現在の世界でも、女性の首相や国際機関の女性リーダーが増えていますね。ロールモデルは決定的に大切です。日本でも老舗の料亭や旅館には、女性のリーダーがたくさんいます。女将(おかみ)ですね。あれは「お母さんやってるんだから、わたしにもきっとできる」と思えるからです。

 

持統天皇と武則天には、むちゃくちゃ有能であるということ以外にも、1つの共通点がありました。夫が病弱で相対的に頼りなかったこと。前回の講義で「上司があかんたれだと部下が高い能力を発揮する」と話しましたが、男女の間でも同じことが起こるのです。