古事記に秘められた指令

1、出雲対策


 李淵が唐王朝を築いた手法や、武則天の強権的な恐怖政治も含めて、王朝維持にあたっての教訓は、この列島の占領支配を続ける唐王朝の残党勢力・藤原氏にとっては、その『バイブル』となっています。
 まず、武力で以って制圧し、そこに傀儡の政権を作り、禅譲といった形式的方法で自らの『正統』なる地位を築きます。そして、敵対する勢力は抹殺し、たとえ危機的な状況に陥ったとしても、『寝返り戦術』で延命工作を図るといったものです。
 その大帝国を誇った唐王朝も、塩の専売で過酷な税収を庶民から取り立てたために、大きな反乱が起き、徹底した掃討戦のあげくに滅ぼされてしまいます。唐王朝貴族の一部は、その殺戮の手を掻い潜って、命からがら大陸から逃避することになってしまいました。
 唐王朝李氏は、当時彼らの支配下にあった、この列島に逃避すると、「李」という文字は、「木」と「子」で構成されるので、「き」と「し」で、「岸」を名乗りました。その支配は、今にまで、延々と続いています。
 また、そういった反乱は、王朝貴族の過酷な特権的支配に対して大きな怒りが巻き起こったのであって、自らが招いたことでもあります。しかし、極端に自己中心的な彼らに、そんなことが理解できるはずもなく、大陸から放逐されたことに対する復讐と、大陸回帰に執念を燃やします。そして、再び大陸へ戻って大唐帝国を再興せよと、後の唐王朝の残党勢力・藤原氏に引き継いでいます。
 ところが、貴族の彼らにそんなことができるはずもありません。そうなりますと、彼らの思惑に沿って、この列島の倭人を利用するしか方法はありません。
 つまり、そういった彼らの思惑や戦略を書き残したものが、古事記だったのです。しかし、本当の歴史や、そんな計略をストレートには書けませんから、さまざまな装いを凝らして彼らのメッセージを盛り込んでいます。
 ですから、そういった認識が無ければ、ちょっと変わった歴史書といったところですが、唐王朝の残党勢力がそれを読むと、唐王朝からの貴重な、そして強烈な大陸回帰へのメッセージだと理解できるという仕組みになっているのです。
 では、どのようにメッセージが盛り込まれているのか検証してみましょう。
 まずは、何と言っても出雲対策です。
 古事記のおよそ3割が出雲についての記述です。その中で、まずスサノオ尊を初めとした出雲の神々を徹底して貶めています。出雲の勢力にとってその始祖神であるスサノオ尊は、出雲王朝の基礎を作った最も尊い神ですが、悪行三昧の妖怪かのごとくに描かれています。
 ただ、大国主命は、兄神たちに苛められながらも、白兎を助ける慈悲深い神と描かれています。唐・藤原氏が『国譲り』を受ける大国主命ですから、悪く描くわけにはいかなかったようです。あるいは、支配の対象とする勢力は、分断・差別せよと伝えているのかもしれません。

2、天照とは武則天を意味していた!


 唐王朝のこの列島に対する認識は、梁書や北史・南史に描かれていました。それは、唐王朝によって征服された後も支配されている今のわが国の歴史認識でもあります。
 その北史・南史でのこの列島に関する記述は、北史では隋書を、南史では宋書が使われていました。それも、参考にしているといった程度ではなく、まったくそのままの文章を部分的にパクリのごとく使っています。そして、自らの思惑に沿って、都合よく付け加え、あるいはカットし、さらに書き換えるといった改竄を行っていました。
 この改竄の証拠こそが、わが国の矛盾だらけの『歴史認識』を解明するカギとなりました。
 わが国の成り立ちを記したとされる古事記・日本書紀の原本は今に残されていません。おそらく、当初は、時代背景とその内容から考えますと、663年に出雲王朝が滅ぼされ、その出雲王朝に伝わる歴史がそれらに残されていたのでしょう。それを、唐王朝・藤原氏は、自らの支配に都合よく改竄し、それが今に残されているという経緯が見えてきました。
 日本書紀には、本来、系図もあったようですが、それは写本すら残されていません。
 唐王朝が崩壊し、この列島にその王朝貴族が流れ着いて、改竄の手法を受け継ぐ人たちによって、この列島の歴史も北史・南史のように、彼らにとって都合よく作り変えられたということがうかがえます。
 そこで作り上げられた『新しい歴史』が、『新唐書』に反映しているとみられます。 
 その改竄された『新しい歴史』の中心を為す古事記の中で、最強の神は『天照』です。そして、『天照』の弟は『スサノオ尊』となっています。
 本来、この列島で最強の神であるはずの『スサノオ尊』は、まるで妖怪のごとく忌まわしい姿に描かれていて、その上『高天原』で大暴れします。
 つまり、征服された民族の象徴は、征服した民族によって貶められるということです。
 こうして、出雲王朝の最強の神は、唐王朝・藤原氏の神を意味する『天照』の下に置かれてしまいました。
 その『天照』は、古事記の中では、勇猛な姿に描かれています。スサノオ尊が天照のいる高天原へ近づくと、天照はスサノオ尊が国を奪いに来たと思い、武装して『何ゆえに来たる』と言ってスサノオ尊を迎え撃とうとします。ここでは、出雲の勢力には決して油断することなく万全の構えをせよということが述べられているとも言えます。
 そして、その天照は、自分の子どもにスサノオ尊の世界を支配させたいという意思を表明します。その時期は、スサノオ尊からすでに大国主命に国の統治が移っていました。これは、まさしく663年、武則天の命により、この列島の出雲王朝『大国』が征服されたことを伝えているようです。
 天照は、まず一人二人と出雲の平定に向かわせるのですが、大国主命に取り込まれてうまくいきません。そこで、武甕槌神(たけみかづちのかみ)にお供を付けて中つ国、出雲国の平定に向かわせます。その武甕槌神が降ったのが出雲国伊耶佐の小浜、今で言う稲佐の浜です。武甕槌神は、浜に剣を突き立て、『天照大神は、自分の子どもにこの国を治めさせようと言われているがお前の気持ちはどうだ』と大国主命に迫ります。大国主命は、二人の子どもの神に相談するのですが、つまり家臣でしょうか、その二人とも武甕槌神に太刀打ちできず、結局、大国主命は国を『献上』すると言ったとされています。
 まずは、交渉をするのですが、所詮は侵略行為ですから『平和的』にそんなことができるはずもありません。結局、武甕槌神による実力行使で出雲が平定されたと描かれています。
 ここでは、李淵によって唐が建国された時と同様の手法で、この列島が征服されたことを描いています。まずは、武力で以って制圧し、その後に『禅譲』という形式でその侵略行為を正当化するというものです。ここでは、さらに『献上』されたとまで美化しています。
 武則天の忠実な家臣であった劉仁軌によってこの列島が征服されていたことが、古事記では『天照大神』の指示で武甕槌神により出雲が征服されたとあり、まさにその史実に相当しています。
 また、同時に、武甕槌神の働きがなければ、その後に続く神武天皇以下の天皇も成り立たないということにもなります。その武甕槌神を、藤原氏は、奈良春日大社の第一殿で奉っています。
 これらのことからも、『天照』は、武照、つまり武則天を意味し、その武則天の命によりこの列島が征服され、今にも続く天皇のルーツは武則天にあるということを物語っています。

3、出雲の祟り


 唐王朝・藤原氏は、出雲を征服したものの、その祟りに怯えていたということもうかがえます。
 出雲王朝が、唐に対して何をしたわけでもありません。服従しないからとか、あるいは水銀欲しさといった身勝手な理由でこの列島を侵略し、占領したのですから、決して心安らかではなかったのでしょう。その上、出雲から『献上』されたといった都合の良い偽りの『歴史』をでっちあげているのですから、相当恨まれるだろうということぐらい分かります。
 その自責の念にかられ、あるいは出雲の祟りに怯えて、その不安から枕を高くして眠れぬ夜もあったことでしょう。崇神天皇の段には、その時代に疫病が大流行して、人民が死に絶えようとしていたとあります。そして、その時、天皇の夢の中に大物主神が現れて、『これは、私の意思によるものだ。だから、意富多々泥古(おおたたねこ)をして私を奉らせるならば、神の祟りによる病も起こらず、国もまた安らかであろう』と言っています。そこで、その意富多々泥古を探し出して、大物主神を奉る三輪山で意富美和之大神(おおみわのおおかみ)を拝み、さらに天神(あまつかみ)と地祇(くにつかみ)を祭る神社を定め奉ると、疫病はすっかりやんで、国家は平安になったとあります。
 つまり、出雲を征服した彼らは、その『祟り』に相当怯えていたということがうかがい知れます。
 ですから、後の藤原氏にも出雲を奉る事を忘れてはならないと伝えているようでもあります。
 『祟り』の話は、まだあります。
 垂仁天皇の御子は、大人になるまで物が言えませんでした。その天皇の夢に神が出てきて、『私の宮を天皇の宮殿と同じように整えたら、御子は必ずきちんと話せるようになるだろう』と言うのです。そこで天皇は、『その夢は、出雲大神の御心によるものだ』と、御子を出雲に参拝させました。すると、その御子は言葉が話せるようになり、天皇は、出雲の宮殿を新しく造らせたとあります。
 そういった理由からかどうかは分かりませんが、彼等の『天皇』の住まいであった『京都御苑』の敷地内にはいくつかの神社があります。その御所の南の真正面には『厳島神社』が、そして、その傍には『宗像神社』があります。
 このように、藤原氏が出雲の『祟り』に大層怯えていたということ自体、加害者としての認識を持っていたことの証明でもあります。同時に、加害者意識があることから、その報復を危惧してもいました。
 つまり、その対策を講じる事も決して疎かにしてはいません。出雲の勢力による報復や出雲王朝再興などといった反攻の対策として、『征夷大将軍』を設置して、常にその監視と制圧を行っていました。
 征夷の夷は、夷人であるところの出雲の勢力をも意味しています。
 平安朝の頃に設置された征夷大将軍は、その後も徳川時代に至るまで残されました。
 そういった出雲対策は、遠い過去のことではなく、今も引き続き行われています。
 歴史認識という点においても、出雲大社をはじめ神社や遺跡などの分析も含めて、記紀認識内に押し留めるような対策は怠ることなく徹底されているようです。 

4、大陸を侵略せよ!


 第十四代仲哀天皇の段で、仲哀天皇が、神のお告げを請い求めると、その神は『西の方に国があり、金銀をはじめとして、目もくらむような種々の珍しい宝物がたくさんその国にはある。私は今、その国を帰服させようと思う』と答えています。
 つまり、その神は、大陸を征服せよと天皇に指示を与えています。
 仲哀天皇は、西の方を見ても何も見えないので、『国土は見えず、ただ大きな海があるだけです』と答え、その神の言うことに不信を持ち、知らん顔をして琴を弾いていました。するとその神は、『およそこの天下は、お前の統治すべき国ではない』と怒ってしまいます。それでも、仲哀天皇は無視して琴を弾いていましたが、そのまま絶命してしまいます。まるで、神の言うことに従わない者は、たとえ天皇であっても許されないということを意味しているようです。
 そして、次にその皇后が、また神にお告げを請います。その神は、『この国は、皇后の胎内にいる御子が統治する国だ』と言い、さらにその御子は『男子である』とまで答えます。そこで、その皇后は『今こうして教えをさとす大神は、いずれの神であるのか、その名前を知りたいと思います』と聞きます。すると、『これは天照大神の御意思である』と答えたとあります。
 つまり、天照大神の意思は絶対だと言っています。
 これは、どういうことを意味しているのでしょう。
 天皇は、一般庶民に対しては絶対的な権力者であり、明治憲法下では、神聖にして侵すべからずと、強権でもってその支配力を行使していました。ところが、記紀にあっては、天皇よりも天照大神の方がさらに絶対的な支配力を持っていたということになります。天照大神の意思であるとすれば、天皇であっても従わざるを得ないということのようです。つまり、絶対的な権力者であったかと思われる天皇の背後には、さらに強力な支配者がいたことを意味します。
 すなわち、唐・藤原氏こそが、天皇の背後にあって実質的な支配者だったということになります。その『天照大神』は、同時に『武則天』を意味しています。『私は今、その国を帰服させようと思う』といったような征服欲は、武則天の意思だともとれます。
 また、武甕槌命が稲佐浜で剣を突き立てて『天照大神は自分の子どもにこの国を治めさせようと言われているがお前の気持ちはどうだ』と『国譲り』を迫っていますが、この天照大神の意思も武則天の意思でした。
 つまり、この列島の藤原氏の勢力にしてみれば、天照大神、すなわち、武則天の意思は絶対だということを意味しています。そして、『本当に西方の国を求めようと思うならば、天神や地神などあらゆる神を奉り、様々の捧げ物を大海に散らし浮かべながら渡って行くが良い』と、天照大神の大号令が発せられます。それに従い、皇后が海を渡っていくと、船は波のまにまに進み、追い風も盛んに吹き、波に乗って船は一気に新羅国の半ばにまで達したとあります。
 このように、天照大神により大陸侵略への指令が出され、皇后はそれに従って侵略に向かっています。
 この神功皇后も、皇后武則天とだぶります。武則天自身、朝鮮半島を征服していますし、武則天が帝位に就いていた時、六九七年には『神功』という年号を付けています。
 また、ここでは、大陸侵略に消極的な天皇は消されるかもしれないという、藤原氏からの『脅し』とも言えるほどの強烈な大陸侵略へのメッセージが残されています。恐ろしい事に、現実の歴史上にあっても、秀吉の時代、あるいは明治以後第二次大戦中まで、実際に大陸を侵略しています。
 その背景に、この記紀で述べているようなことがあるとしたら、かなり危険なことです。というのは、天照大神の大陸を征服したいという意思、あるいは仲哀天皇や皇后に大陸を侵略せよと出した指令が、その後撤回されたような話は出てきません。
 それが、武則天の大陸回帰への指令を意味しているとしたら、大唐帝国再興という、彼等の大陸侵略への策動は、天皇が存在する限り途絶えることはないということになります。
 また、その『天照大神』は、全国の神社の頂点に立つ伊勢神宮で奉られています。
 つまり、『天照大神』は、わが国の最強の神と位置づけられています。
 それは、同時に、『武則天』こそが、この列島の皇祖神だということをも意味しています。
 1960年代後半以降、現職総理大臣が毎年年始に伊勢神宮を参拝しています。
 庶民の『初詣』とは、訳が違います。政教分離を厳格に定める憲法と相容れないその行為が、はたして何を意味しているのでしょうか。
 そこにおいて、この国の最高権力者が、唐・藤原氏と大陸侵略への号令を発している天照大神、つまり『武則天』への忠誠を誓っているとしたら、この列島の将来にとって極めて危険な動きだと言わざるを得ません。 

5、『騙せ!』・・・謀略の基本


 武則天は、第3代皇帝李治との間にできたわが娘さえも、皇后の座を手に入れるためには、自ら娘の首を絞めて殺害しています。そして、それを王皇后の仕業だとしてその王皇后を失脚させ、尚且つ自らが皇后に就くやいなや、その王前皇后らを虐殺しています。その後も反対派を数百名も殺害するなど、徹底した独裁的手法を駆使しています。
 その武則天を皇祖神とする唐・藤原氏ですから、彼らの手法もそれに徹しています。
 倭建命が、天皇の命を受けて、天皇に服従しない熊曾建の兄弟を討ち取りに行くという話があります。つまり、唐王朝が、周辺諸国に『朝命』でもって従属させようとした視点と同じです。唐王朝に服従しない出雲王朝を征服したということでもあります。
 ところが、その倭建命は、熊曾建の兄弟が軍勢に囲まれていて中に入れないので、しばらくして祝宴の時、少女のように髪を結い、女装して紛れ込みます。その兄弟は、倭建命が女性だと思い、油断をして二人の間に座らせました。そして、宴もたけなわの頃、倭建命は、懐から剣を出して兄弟を刺し殺してしまいます。
 『正体を隠して隠密行動で仕留めよ』
 こういった隠密裏の謀略が、彼らの基本的手法だと述べています。
 まさしく武則天の手法と同様です。江戸時代にまであったと伝えられている忍者とかも、そういった理念から作られたのかもしれません。あるいは、装いを変えて、その後も残されていることも考えられます。最近でも公安警察や自衛隊などによって、秘密裏に情報を収集するといったことが行われています。
 さらに、倭建命は、出雲国へ行き出雲建の殺害を計画します。まずは、出雲建と親しくなり、その一方では、木で偽物の太刀を作ります。相手に敵意を持たせず、油断させろということのようです。そして、倭建命は、その偽物の太刀を身につけて、出雲建を河へ水浴びに誘い出します。そして、二人で水浴びをしていると、倭建命は河から先に上がって、出雲建の解いて置いてある太刀を身につけます。さらに、後で上がってきた出雲建に『太刀を交換しよう』と言って、出雲建に偽物の太刀を身に着けさせると、倭建命は、『さあ太刀を合わせよう』と言います。そこで、二人は太刀を抜こうとするのですが、出雲建の持っている太刀は偽物だから抜くことができません。倭建命は、すぐさま、持っている太刀で出雲建をうち殺してしまいます。
 もう、相手は手も足も出せない状態にして、圧倒的優位の状況で確実に討ち取ります。こういった卑劣極まりないやり方が、彼らにとっては最良の方法だと言っているようです。
 唐・藤原氏は、だまし討ちを基本戦術としており、それは後々にまで受け継がれています。   

6、『唐王朝再興』こそがすべての基本
 自業自得であるにもかかわらず、大陸を追われた唐王朝・藤原氏にとっては、再び大陸へ戻り『唐王朝を再興』することこそが、彼らの歴史的使命であります。大陸に王朝が誕生して以来、散々卑下してきた『倭人』の住むこの列島にいつまでも身を置いているつもりは毛頭ありません。必ずや大陸へ戻るというのが彼らの最大の存在理由です。
 では、そんなに大陸へ帰りたければ勝手に帰ればいいのにとも思いますが、密かに帰っても意味を成しません。つまり、現在ある勢力を打倒し、過去の復讐をしたうえに自らの王朝を築かなければなりません。それも、正統なる皇位としてそこに『唐王朝』を再興するという手法です。
 しかし、事はそう簡単に成就できるものではありません。自らの体制がどうか、大陸の情勢はどうかなど見極めなければならないことは山積みです。とりあえず、武士の力を増強し、秀吉の頃にも加藤清正などが大陸へ向かいましたが、破綻してしまいました。
 そして、逆に徳川時代にあっては『鎖国』とされました。
 大陸では再び襲来があってはいけないと用心しますから、しばらくは手を出さず、『油断』させようとしたのかもしれません。どちらにしても、藤原氏は、大陸への侵攻をしばらくは断念せざるを得ませんでした。
 そして、長年待った甲斐もあったということでしょうか。待てば海路の日和ありで、千載一遇のチャンスが到来しました。大陸の清王朝が、各列強国からの攻撃で弱体化し、徳川幕府もその開国を巡って混乱していました。唐王朝を建国した李淵の手法、つまり混乱に乗じて首都を制圧したように、世情が不安定な時こそが、彼らにとっては最大のチャンスです。
 その中心にあった伊藤博文は、数々の策を講じて実権を奪取します。この一連の開国をめぐる動乱とも言える動きは『明治維新』とされ、まるで新しい時代が来たかのように思われています。しかし、その実態は、唐王朝・藤原氏による全権の掌握であり、平安朝の再来とも言えます。
 彼らの特権的貴族支配を確立し、彼らの象徴である天皇を絶対的支配者として、裏でその実質的支配力を行使できる、そんな彼らにとって最高の支配形態が『明治憲法』です。そして、『富国強兵』などと、さも国民には自らの国が発展していくかのように思わせて、大陸侵略に向けて一路邁進します。
 彼らにとっては、『島流し』にあって以来、およそ1000年後にやってきた、史上最大のチャンス到来です。すべてが、大陸侵略、そして『唐王朝再興』へと事態は進みます。歴史教育では、彼らの『バイブル』である記紀認識が国民に徹底されました。
 そして、大陸へと侵攻していきました。
 当初は、南満州鉄道の警備だと言って軍事力を増強し関東軍を構成します。関東軍は、1928年に張作霖爆殺事件を起こし、1931年には石原莞爾らが柳条湖事件といった謀略事件を起こして、中国東北部満州を武力制圧し、翌1932年、満州国を建国します。
 まずは、武力で以って制圧し、滅んだ清朝のラストエンペラー溥儀を傀儡の皇帝とする満州国を建国しています。これは、まさしく唐を建国した李淵の手法そのものです。
 しかし、それは、まだ大陸制覇の橋頭堡を築いたに過ぎません。彼らは、その本命である中国全土の支配へと戦線を拡大していきます。 当時、『大東亜共栄圏』といったアジア一帯を日本の支配下に置く構想が叫ばれました。これは、まさしく、大唐帝国再興がその基本的な狙いであったことが分かります。
 そして、南京大虐殺など各地で殺戮を繰り返し2000万人とも言われる人々を虐殺します。彼らは、そういった復讐により、大陸で殺戮されたあげく大陸を放逐された唐王朝貴族の怨念を晴らし、もうあと一歩のところで、このアジア一帯を制圧し大唐帝国再興に至るところでした。
 しかし、そんな侵略行為が成功するはずもありません。世界的な民主主義の包囲網の中で、秀吉に続き、再び彼らの『唐王朝再興』の構想は破綻してしまいました。
 では、戦後、『天照大神』、つまり武則天を頂点と戴く唐王朝貴族の末裔たちである藤原氏による『唐王朝再興』は、どういったことになったのでしょう。彼らの、1000年以上にわたる『唐王朝再興』の歴史的策動は、これで終焉することになったのでしょうか。  

7、再度挑戦・・・まだばれていない
 第2次大戦で無条件降伏という状況に陥り、『明治維新』以後邁進してきた唐王朝・藤原氏による『唐王朝再興』などといった時代錯誤もはなはだしい妄動は、破綻いたしました。しかし、彼らは、戦後処理の中で、『国体護持』と称して、彼らの大陸回帰の象徴である『天皇』を何としても残そうとしました。そして、現憲法のように『国民統合の象徴』といった形ではありますが、残されました。
 しかし、それは、彼らにとっては本来の『天皇』ではありません。そもそも『天皇』は、唐王朝・藤原氏のシンボルであり、倭人を強力に支配できる絶対的権力者であってこそ、その背後で支配力を行使できます。『まあ、天皇が廃止されるよりはましだろう』ということで、彼らにしてみれば『押し付けられた』としか考えていない現憲法下で彼らは『耐えて』いたようですが、その忍耐ももう限界とばかりに、明治憲法下への回帰が急速に進められています。
 そして、再度、大陸侵略へ向かおうと画策しています。戦後、多くの人々は戦争に対して数々の『反省』をされたことでしょう。そして、その戦争の『手先』とされ、『騙されていた』と自責の念にかられた人も数多くあったことでしょう。
 しかし、誰が、誰を、どのように騙していたのかは明らかになっていません。つまり、唐王朝の残党勢力・藤原氏による大陸回帰と『唐王朝再興』のために利用されていたことに気づいた人はありませんでした。
 1300年にわたって、延々とこの列島の人々は偽りの歴史によって『騙されて』きていたのですから、無理もないことでもあります。 この列島の人々は、まだ『騙されたまま』の状況だとも言えるのです。
 ですから、我が国の支配勢力は、まだ自分たちの目論見は露呈していないと考えています。そして、今、彼らは、その無謀な企てに再度挑戦しようとしています。強力な軍事力を持つ米軍の戦力を『助っ人』として『次は失敗しないぞ』と、その準備工作を着々と進めています。米軍への『思いやり予算』やあるいは基地移転を理由に何兆円もの税金を湯水のごとく投入するのも、その『用心棒代』といったところでしょう。彼らは、軍事力でもその口実においても、日本だけで大陸侵略ができるなどと考えてはいません。米軍があってこそ可能になる構想です。それゆえに、米軍が居なくなって困るのは唐王朝の残党勢力・我が国の支配勢力の方です。したがって、アメリカの言いなりになりながら、一方では、何とか米軍が大陸で戦闘を始めてくれることすら願っているのかもしれません。
 つまり、朝鮮戦争の時のように米軍が戦争を引き起こしてくれれば、その混乱に乗じて大陸へ侵攻できるという、李淵以来受け継がれ、この列島が征服された時や明治以降でも試され済みの彼らの常套手段です。
 しかし、彼らは、決してそういった目論見を口にすることはありません。何故ならば、古事記に決して口にしてはならないといったことが盛り込まれているからです。
 古事記に出てくる、因幡の白兎のお話は、よく知られています。島に流された白兎が、サメを騙して対岸に渡ろうとするものです。そして、目指す陸地にまでもう一歩のところで、サメを騙していたことを口にしてしまいます。そのため、白兎は並んでいた最後のサメに酷い目に遭わされます。白は、皇帝の色でもあり、また、兎の音は、唐にもつながります。つまり、この列島に流れてきた唐王朝が、再び大陸に戻るためにこの列島の人々を騙して利用したとしても、決してその本心は口にしてはならないといった『口止め』のお話だと、彼らの立場から読めばそういった戒めの話だと理解します。
 しかし、このような認識にない人が読んでも、ただの昔話か御伽噺としか読めません。
 極めて、巧妙に作られています。    

8、大陸侵略を阻止するためには
 では、彼らの企ては、明治時代のように彼らの思惑通りに進んでしまうのでしょうか。
 当時は、世界的にも列強各国が世界を分け合うような流れもあり、そういった背景で彼らの企ても功を奏したというところもあるかもしれません。しかし、現在は、紛争を平和的に解決することを中心とした流れが定着してきています。一部、テロ対策を理由に戦争を引き起こした国もありますが、それが彼らがあるいは『期待』していたかもしれない世界大戦といった流れにはなりませんでした。ですから、混乱に乗じて武力で以って制圧するといった彼らのチャンスは、そうそう来ることはありません。
 そうなりますと、謀略的手法を使ってでもその機会を作り出そうとするのが、彼らの常套手段です。すでに、いろいろ戦略を立てているようです。
 その大きな柱は、北朝鮮をターゲットにすることです。拉致問題は解決しなければいけませんが、彼らにとって拉致問題は大陸へ侵攻するための、大義名分に過ぎないようです。ですから、彼らにとっては、解決してしまったらむしろ都合が悪いとでも思っているのかもしれません。
 自衛隊の海外出兵を常態化するなど、着々と、大陸侵略への準備を進めています。もう、彼らは、その体制が整ってきていると見ていいかもしれません。
 今のわが国は、満州へと侵攻していったその前夜と同様の時期だとも言えます。
 しかし、彼らの思惑が成立するには、2つの大きなハードルを越えなければなりません。
 まずは、憲法の改定です。
 憲法9条で国家による戦争は禁じられており、海外での戦闘行為はできません。ですから、いろいろ理由をつけては、海外で戦争をできるように憲法を改定しようとするでしょう。
 もう一つは、海外で大きな戦争状態になったとしますと、その戦費は計り知れません。そのための財源を自分たちが『自腹』を切って作り出そうなどいったことはあり得ません。つまり、それも庶民から取立てるために、消費税の大幅な増税をしなければなりません。
 この二つの大きなハードルをクリアしなければなりません。
 そのためには、『郵政民営化』の時もそうでしたが、マスコミを最大限に利用して、そうすればまるですべてが良くなるといった宣伝を振りまき、国民を誘導するでしょう。
 つまり、逆に言えば、この二つを阻止すれば、彼らの思惑を食い止める大きな力となります。
 また、満州事変から満州国建国の時もそうですが、軍隊だけが行っていくら戦いに勝利したとしても、軍隊が帰って来てしまえば、元に戻るだけです。ですから、農民や各種産業に携わる人々もそこに動員し、居座らなければなりません。そういった人々を守るといった理由でまた軍隊を増強もできます。
 しかし、そう簡単にこの列島から他国に移住しようなどといったことにはなりません。
 では、どうすれば、それが可能になるでしょう。その最大の手法は、国民を貧困に陥れることです。
 この列島では、生きていくことすら大変だということになれば、それも可能になってきます。戦時中、地主は、耕作地があるにもかかわらず、小作人に作らせず、『このままではみんなが生きていけなくなる』と言って、小作人の半数は残し、半数は大陸へ送るといったことをしました。残った小作人は作付けを増やすことができるし、大陸へ行く小作人は、そこに夢を描いたという訳です。このようにして、大陸へこの列島から多くの人々が送られました。
 今は、地主が居ませんから、政府が耕作地を制限するために減反をしています。
 銀行は、中小企業に貸し付けしたお金の貸しはがしを強行しています。
 大企業は、毎年、数十兆円という莫大な利益を懐にしていながら、非正規雇用の大量の首切りをしています。まずは、非正規ですが、その次には正規雇用の首切りです。これらの動きは、大陸へ動員するための人員の確保とも言えます。
 お金で動かせる『貧困で自由な人々』が膨大に必要となります。そして、景気対策、あるいは雇用対策といった口実で大陸へ誘導しようとしているのかもしれません。
 この列島を苦しみのどん底に陥れ、大陸を侵略すれば、残った者も行く者も幸せになれるといった方向に国民を誘導しようとする策略です。
 自衛隊を賛美・合憲化する動きが活発に行われているのも、その一環なのかもしれません。中東から自衛隊を帰国させましたが、自衛隊を海外へ派遣することに国民を慣らすという役割を終え、これからは本命の大陸侵略へ集中するということでしょうか。
 そして、さまざまな口実で彼らは、自衛隊を海外派遣しようとします。
 すべては、大陸侵略を大前提とした方向へ舵がとられています。
 満州国建国に至った経過と同様、大陸諸国を徹底して挑発し、相手国に『刀を抜かせる』ことで自らの侵略を合理化しようとする発想がその根底に見えます。満州にあっては、その『刀』すら抜いてもいないのに、『抜いた』とする謀略事件を自ら起こし、それを口実に侵略行為を進めていきました。
 彼らは、派遣した自衛隊が、むしろ攻撃されて、それを口実に『報復だ』などと戦乱を起こそうとしているのかもしれません。
 再び、大陸へ侵略し、周辺諸国のみなさんを殺戮するようなことを決して許してはなりません。
 誰しも、この列島の人々が再び戦争の加害者になることを望む人はいないでしょう。しかし、そういった大きな流れを作られると、人はそちらに流されてしまいます。
 一人でも多くの人々が彼らの思惑を見抜き、『大陸侵略のための憲法改定』や『その戦費調達のための消費税増税』を阻止すれば、必ずやその力で彼らの妄動を破綻させることができます。
 また、彼らの象徴は、伊勢神宮に奉られている武則天を意味する『天照大神』です。その伊勢神宮に閣僚や政党の幹部が参拝するということは、政教分離に反するだけでなく、大陸侵略にむけてその決意を表明する行為でもあります。それは、庶民の参拝や初詣とか、信教の自由といったこととはまったく意味が異なります。ニュースを良くチェックして、与党や野党に限らず、天照大神に忠誠を誓う行為をしている勢力を見極めなければいけません。
 彼らは、マスコミや宗教組織なども含め、世論操作、選挙操作など、自らの思惑を実現するためには、手段を選びません。謀略の限りを尽くします。
 また、自民党支配に反抗する勢力は、徹底してつぶされてしまいます。それに迎合することは、戦時中の『体制翼賛会』とその趣旨は同じです。
 日本が、再び大陸侵略に進むことを阻止するために、『憲法改定』と『消費税増税』は、絶対に許してはなりません。それは、わが国の将来を大きく左右することになります。再び、この列島の人々が、白兎に騙されたサメのごとく、大陸へ送り込まれることがないように、彼らの動きを阻止する国民の大きな民主主義の大同団結を築かなければなりません。ですから、我が国の支配勢力は、反対する勢力を徹底して分断してきます。国民の未来は大同団結できるかどうかにかかっていますし、彼らは命がけで分断してきます。
 多くの人々の力で、彼らの時代錯誤もはなはだしい『唐王朝再興』などといった策動を阻止できれば、この列島の人々が、彼らによって偽りの歴史を押し付けられ、そのうえ1300年来、彼らに虐げられてきたその支配から解放され、自らの歴史を取り戻す道が拓けることでしょう。
 しかし、彼らは、あらゆる手段を使って、国民を分断し、大陸侵略に向かって支配を強化します。その策動に騙されたら、再び日本と日本人は、大陸侵略の手先にされ、あらゆる批判が弾圧されることになってしまいます。

 

新説古代史研究より