唐王朝による支配の歴史

わが国にしかけれたトリック10より転写

 

『邪馬台国の女王卑弥呼』

 

このフレーズを聞いて、疑問に思う方がどれだけおられることでしょう。わが国の歴史にあっては、その前提とでもいうほどに徹底されています。ほとんど、『常識』として疑うことなく多くの皆様の頭脳にインプットされていることでしょう。しかし、この『邪馬台国の女王卑弥呼』というフレーズこそが、わが国の歴史に仕掛けられた最大のトリックとも言えます。

 まず、『邪馬台国』という文字で表記される国は、歴史上存在しておりません。その『台』は、後漢書に登場する『邪馬臺国』の『臺』という文字が常用漢字にないため、『台』が使用されています。

 ですから、『邪馬台国』とは、本来『邪馬臺国』なのです。

 そして、その後漢書に登場する『邪馬臺国』には大倭王が君臨していました。

 つまり、この列島の都です。

 では、そこに卑弥呼がいたのでしょうか。

 ところが、卑弥呼は、その『邪馬臺国』とは別の『女王国』に居たと描かれています。

 その地も九州だとされています。

 一方、『邪馬臺国』は出雲にありました。

 今は、出雲と言っていますが、当時は『やまと』と呼ばれていました。

 その『やまと国』が、後漢書に『邪馬臺(やまと)国』と記されたのです。

 ですから、卑弥呼は、『邪馬臺国』、つまり『邪馬台国』には存在していませんでした。

 唐王朝は、その『邪馬臺国』を出雲の地から消し、さらに卑弥呼のいた『邪馬壹国』に、『邪馬臺国』があったという歴史の改竄を行いました。唐王朝は、西暦663年秋、出雲の地にあった都『やまと』つまり『邪馬台国』や,、この列島を征服し、改竄された歴史をこの列島に押し付けたのです。

 その唐王朝の勢力が、今に至るまでこの列島を支配しているため、彼らによってその後、さらなる改竄のされた歴史がこの列島の歴史となってしまいました。

 ですから、唐王朝の時代より前の史書にこそ、この列島の本当の姿が残されています。

 

『魏志倭人伝には邪馬台国へ至る道順が記されている』

 

 このフレーズも、多くのみなさんが当然のごとく思っておられるようです。古代史にあっては、その前提ともなっているがごとくです。しかし、魏志倭人伝には、『邪馬台国』などと表記される国は登場しておりません。

 また、魏志倭人伝には、今で言う『大使館』のあった『伊都国』への道順が記されているのであって、その『伊都国』から周辺諸国が紹介されているだけのことです。その中のひとつに『邪馬壹国』という卑弥呼のいた女王国が紹介されています。

 ですから、魏志倭人伝には、『邪馬台国』など登場もしていませんし、ましてやその『邪馬台国』への道順など何処にも記されていません。

 そうなりますと、魏志倭人伝に『邪馬台国』なるものの道順が記されていると思っている限り、永遠にその『邪馬台国』へたどり着けることはありません。

 江戸時代、新井白石や本居宣長などに始まり、今現在に至るまで、魏志倭人伝に記されている道順が『邪馬台国』へ至るものとして研究されておいでの皆様には、誠にもってお気の毒としか言いようがありませんが、それらの推察は、全くの徒労でしかありませんでした。

 これも、同様に唐王朝の改竄によるものです。

 唐王朝の時代に作成された史書では、本来『邪馬壹国』へ行く道順が、まさしく『邪馬臺国』への道順として描かれています。意図的に、『邪馬臺国』への道順に書き換えています。

 ですから、その『邪馬臺国』は太平洋上にしか存在できないような記述となってしまい、『まぼろしの邪馬台国』となっているのです。

 それらの史書こそが、歴史の改竄を行ったという永遠に消すことのできない歴史的証拠です。その改竄を行ったことを覆い隠すことが、今を以って続けられています。

 ですから、それが改竄だとばれないためには、『邪馬台国論争』に決着がつかない状態を続けて行くしかないのです。

 『唐王朝が歴史の改竄を行い、その唐王朝がこの列島を征服し、改竄された歴史をこの列島に押しつけている』という認識を持たない限り、『邪馬台国』の謎は永遠に解くことはできません。    

 

 

 魏志倭人伝には、女王国の国名が、『邪馬壹国』と記されています。

 この『壹』という文字は、数字の『一』を意味した文字です。たとえば、『一』という文字は、『二』とか『三』とか、『十』とかに書き換えることも可能です。ですから、そういった改竄ができないように、領収書などで、『壹』や『壱』という文字が使われています。つまり、女王国の国名は、『一国』だったということになります。

 しかし、現在のわが国においては、この卑弥呼のいた女王国の国名は『邪馬台国』だとされています。また、ほとんど、それに疑問を持つ人などいません。しかし、魏志倭人伝に記されている女王国の国名は、『邪馬壹国』なのです。

 だから、その三国志を記した西晋の陳寿が間違って『壹』と書いたとされています。本来、『臺』と書くべきところを『壹』と書いてしまったのだろうということになっています。『壹』と『臺』という文字が、少々似ているということで、陳寿は書き間違えたと言われています。

 では、文部科学省の歴史研究者には、『太平洋』と書くべきところを、『犬平洋』と書き間違える人がおいでになるということなのでしょうか。もし、わが国の歴史を書き残す重要な資料にそのような間違いをおこす研究者がおられるようであれば、そのような研究者は、もう一度小学校からやり直していただかなければなりません。もし、『そんな間違いを起こす研究者などいるはずがない』と当然のごとく言われるのであれば、陳寿とてそんな間違いをするはずなどあり得ません。

 『壹』とは、数字の『一』を意味する文字です。『臺』とは、皇帝の居する都を意味する文字です。今で言えば皇居とか、東京都を意味しています。

 まったく意味の異なる文字を、当時の国を代表する歴史家が、間違えて書いたと『見なして』いるのです。

 ここには、人というものは、騙されやすいものだということが如実に現れています。自らの信念で以って、確かめなければ、そういうことなのかなと流されてしまうということです。現在、わが国で言われている陳寿が書き間違えたというのは、歴史的冤罪です。

 『死人に口無し』

 陳寿には一切弁明の余地なく、『書き間違えた』という汚名が着せられています。歴史の真実は、『唐王朝による歴史改竄』です。この列島の歴史を解明しようとお考えの皆様は、早くそのことにお気づきいただきたいと切に願うものであります。

 一方、唐王朝の歴史改竄を引き継いでいる勢力も、この列島を支配している勢力の中に厳然と存在しているのです。そして、今を以って、極めて巧妙に、且つ、徹底してその改竄したことをも隠し続けているのです。

 これをお読みの方が、わが国の文部科学省の歴史研究者が、米国や中国に届けるわが国を紹介する国家的威信のかかった資料の中で『太平洋』を『犬平洋』などと書き間違えることなどあり得ないと、もし思われるのであれば、陳寿も同様に、そんな書き間違いなどしません。

 しかし、『そうは言っても、もしかしたら間違えたのかもしれない』と、まだ疑問に思っている方も中にはおいでになるかもしれません。

 残念ながら、やはり、陳寿は間違えてなどいないということを、唐王朝の武将が、自らの口からそれを証明しているのです。

 『資治通鑑』という史書で、唐王朝の武将劉仁軌が、この列島を征服した翌年、664年の10月、当時の皇帝にこの列島を占領している兵士の置かれている状況を報告しています。その中で、この列島にいた出雲王朝は滅ぼしたものの、兵が帰国してしまったら、元の『一国』に戻ってしまうということを述べています。当時、唐王朝は、高句麗制圧を大きな目標としていました。そのためには、この列島は、戦略的に重要な位置にあり、引き続き占領支配しなければならないとも述べています。

 この列島にあった、卑弥呼の国『一国』、スサノオ尊、出雲王朝の『大国』、この両国により、統一国家が誕生しており、その国家的象徴が『天』でした。『天』という文字は、『一』と『大』という文字で構成されています。卑弥呼の勢力と、スサノオ尊の勢力の統一で、この列島が支配されているという概念がそこに表されています。

 つまり、唐王朝の武将劉仁軌は、それを認識していたということなのです。この列島の実質的支配者の『大国』の勢力は一掃したが、放っておけば、一方の『一国』に戻ってしまうということを言っているのです。

 その言葉通り、この列島は唐王朝の制度でことごとく徹底され、701年、この列島に唐王朝の傀儡国家が誕生しています。

 そして、今に至るまで、その基本的支配関係は当時と変わりません。変わったのは、この列島の人々の認識から唐王朝に征服されたということが消えてしまったことです。

 卑弥呼のいた女王国の国名は、『一国』だったということを、その改竄の当事者である唐王朝の武将自らが証明してくれていました。陳寿の冤罪を、早く晴らしてあげなければなりません。また、過去、写本を作成された方々とて同様です。

 それは、同時に、唐王朝が歴史を改竄していたことを証明することでもあります。 

 

 

1972年8月、島根県雲南市神原、斐伊川の支流赤川護岸工事の時に、神原神社の真下から古墳が発見され、竪穴式石室から刀剣や勾玉、そして三角縁神獣鏡と言われる中国製の銅鏡が発掘されました。その直径約23センチの三角縁神獣鏡には、『景初三年陳是作』という銘文が刻まれていたのです。

 この発見は、実は、わが国の歴史を変えるほどの大きな意味を持っていました。『景初三年』という年号は、魏の年号で、その銅鏡は、魏で作成された物でした。ところが、今、わが国にあっては、驚くべきことに、この銅鏡は卑弥呼から渡ったものだとされているのです。

 魏志倭人伝では、卑弥呼が使者を魏へ送ったのは、『景初二年(238)』とありました。その使者は、同年12月には、数々の品物を授かって帰国しています。卑弥呼の使者がすでに帰国してしまった翌年である『景初三年(239)』に作成されているにもかかわらず、その銅鏡は、魏に存在してもいない卑弥呼の使者に渡されたというのです。時空の壁を越えなければ、そんなことは成立ちません。

 実は、魏志倭人伝に記載されているように、魏は、『景初三年』の翌年、『正始元年(240)』に、この列島の『倭王』に使者を送っています。その折に、印綬や詔書を始め、多くの品々とともに銅鏡も下賜しています。

 つまり、出雲で発見された『景初三年』の銅鏡は、この時の物だということになります。すなわち、出雲に『倭王』がいたということの『物証』でもあります。

 そうなっては、極めて都合が悪いようで、何としても出雲の地に魏が届けたなどということにならないようにと、卑弥呼から渡ったなどと、平気で歴史を改竄できるのですから、『歴史の専門家』のみなさんはすばらしい技術をお持ちです。何と、卑弥呼の使者は、『景初二年』ではなく、『景初三年』に行ったから、その銅鏡を手に入れているはずだというのです。わが国の『歴史の専門家』の皆様は、そんなあり得もしないことを、『可能』にしてしまいました。時空の壁もなんのその、卑弥呼の使者が行った時を、1年遅らせてしまいました。『歴史の専門家』の皆さんは、自由に歴史を変えておしまいになられます。

 しかし、嘘をつくとその嘘をついたばかりに、また新たな嘘をつかなければならなくなってしまいました。『景初三年』に、卑弥呼の使者が行ったとしますと、翌年『正始元年』に、魏が倭王に使者を送っているのですが、それとの関係はどうなるのだろうということになります。すると、その倭王も卑弥呼だということにしてしまいました。

 では、『正始元年』に、魏は、倭王に、同様に印綬や数々の品物を授けています。その倭王が、卑弥呼だとしたら、魏は、2年連続して、同じように授けたことになります。そんなに魏は気前が良かったのでしょうか。そんなことをするはずはありません。

 すると、驚くことに、卑弥呼の使者は、手ぶらで帰ってきて、その翌年に、魏が持って来たのだそうです。もう、何でもありです。6月に魏へ行き、半年待たされて、手ぶらで帰国したなどと、笑い話にしかなりません。半年待たされたのは、銅鏡が100枚渡されていますから、主にはその作成によるものと考えられます。

 『景初二年』には、遼東半島で公孫氏をめぐる抗争があったから行けるはずはないなど、いろいろ理由をつけて、卑弥呼の使者が『景初三年』に行ったのだと、どうしても変えたいようです。そこまでして、歴史を歪めたいのなら、どうぞご勝手にということにもなってしまいますが、ですが、卑弥呼の使者は、いったい誰に会いに行ったというのでしょう。

 魏志倭人伝には、卑弥呼の使者が『景初二年』に行き、当時の皇帝は大いに悦び、その言葉が詔書に記されてあります。つまり、卑弥呼の使者は、当時の皇帝である明帝に会っているのですが、その明帝は、『景初』三年の正月に亡くなっています。同時に、その年、魏は、喪に服しています。『景初三年』に行こうと思っても、帯方郡で、皇帝が亡くなって喪に服していることが告げられ、都に行くことはできません。たとえ、行けたとしても卑弥呼に詔書を授けた明帝は、この世に存在していません。

 次に、皇帝に即位したのは、8歳の子どもです。『景初三年』になど、魏へ行けるはずもありませんし、行っても明帝はすでにあの世に旅立っていて、もう会えることはできません。いったい、どうやって『景初三年』に行き、明帝からの詔書を持ち帰ったのでしょう。

 その前年に、すでに書かれていたなどといったことを、理由にしないでいただきたい。卑弥呼が、どんな貢物を持ってきたのかまで書かれているのですから、明帝にそこまでの予知能力があったとは思われません。

 どちらにしても、卑弥呼の使者が、『景初三年』に行ったなどということは、あり得ないのです。それを、平気で、卑弥呼の使者は『景初三年』に行ったなどとしている『歴史の専門家』がいるということ自体が、不思議でなりません。よくもそんなあり得もしないことを口にできるものだとあきれてしまいます。これも、唐王朝による改竄が基本となっています。そして、その動機は、この列島を支配していた出雲王朝(大国)を歴史から抹殺するということです。

 もう少し、『歴史の専門家』の皆さんは、自らの頭で物事を考えるようにしなければ、いけません。いつまでも、唐王朝による歴史改竄のお先棒を担いでいても、この列島の本当の歴史に到達することはできません。

 この列島の本当の歴史を隠蔽しようというお考えであるのなら、それはまた別の話になりますが・・・。

     

 西暦190年頃、『倭国大乱』を征した倭王であるところのスサノオ尊は、卑弥呼(日皇子)を女王とし、また、その勢力を『一国』として奉り、自らはその下に位置する『大国』という国名にしました。つまり、『一』と『大』の統一で国家的象徴の『天』が構成されるという概念がそこに生まれました。国家的象徴と実質的支配者という、今にもつながる国家形態がそこに誕生したのです。

 その後、出雲王朝・大国は、この列島のみならず、朝鮮半島をもその支配下にしています。そういった歴史が、昇明2年(478)、出雲王朝の倭王武から南朝宋の順帝へ送られた上表文に残されていました。

 それ以後、しばらくは、大陸の王朝との交流は残されていません。

 581年、隋の楊堅は、西晋が滅んで以来、300年ぶりに大陸に統一王朝を築きます。その隋に対し、出雲王朝は、600年に使者を送っています。隋とは、初対面になるので、出雲王朝の自己紹介をしています。

 その中で、まず『倭王は、天を以って兄と為し、日を以って弟と為す』と、国の基本的な構成について述べています。つまり、国家的象徴の『天』を兄とし、実質的支配者の『日』を弟と見なしています。スサノオ尊以来、その基本的なあり方は、脈々と受け継がれていたようです。

 そして、その使者は、出雲王朝の官位についても触れています。『徳・仁・義・礼・智・信』にそれぞれ、大と小があり、これが『官位12階』と言われているものです。周辺諸国でも、官位が、高句麗13階、新羅17階、百済16階などと定められていたようです。

 このように、600年の出雲王朝の使者が、この列島の国家形態を紹介する中で述べている官位12階(冠位12階)ですが、今のわが国の歴史にあっては、聖徳太子が、その600年の『第1回遣隋使』の教訓から、603年に導入したとされています。

 これも全くあり得ない歴史が創作されています。

 どうして、600年に隋に報告している官位が、603年に導入されたことになるのでしょう。さらに、その時に述べられている『倭王』は、推古天皇だとされています。その『倭王』は、大王(おおきみ)と呼ばれていて、妻があると紹介されてもいます。推古天皇は、女性の天皇となっていますが、女性の天皇に妻があるなどといったことに矛盾は感じないのでしょうか。

 『そんなの関係ねえよ』

 とにかく、自らの創作した歴史こそが、絶対的な歴史ということなのかもしれません。

 そもそも、当時は、出雲王朝の支配下にあり、天皇制などこの列島のどこにも存在していません。聖徳太子も創作された架空の人物に過ぎません。

 すべては、出雲王朝による支配を消し去るために、その歴史が、唐王朝によってこの列島が占領支配された後に持ち込まれた天皇制の歴史として簒奪されたことに起因するものです。

 そのために、矛盾だらけの歴史になっているのです。 

     

大陸に王朝が誕生して以来、この列島に住む人々は、『倭人』と卑下されてきました。今は、言われなくなりましたが、わが国においても、近年まで南方の少数民族を『土人』だといった蔑称で呼ぶことがありました。それと全く同じで、大陸から見て、南方に住む小さい人間だという意味で『倭人』と呼んでいました。

 そして、この列島にあった国々が統一されますと、『倭国』と呼ばれるようになりました。さらに、大陸の王朝も統一されて隋が誕生すると、そういった卑下するだけでなく、この列島は、まるで隋のテリトリーかのごとくの扱いをするようになります。アメリカが、カリブ海をまるで自らの庭のように考えているようなものでしょうか。

 600年、その隋に出雲王朝は、使者を送ります。その使者が、出雲王朝の国家体制について紹介しています。

 『倭王は、天を以って兄と為し、日を以って弟と為す』

 つまり、国家的象徴と実質的支配者という関係を述べています。

 そういったこの列島の国家体制について、隋の皇帝は、『此太無義理』と答え、訓令で以って改めさせたとあります。この列島の国家体制が、気に入らないから改めよと命令しているのです。隋は、『倭国』を、まるで属国かのごとくの扱いをしています。

 それに対し、出雲王朝は、607年に、第2代皇帝煬帝の即位にあたり、再び使者を送っています。その使者が携えていった国書には、『日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無しや云云』とありました。出雲王朝は、この列島を属国扱いする隋あるいは煬帝に対し、『あなたが天子であるなら私も天子である』と対等の立場を表明したのです。

 今のわが国の政府が、何をされてもアメリカに抗議ひとつできない卑屈な外交をしているのに比べたら天と地の開きがあります。それを、1400年も前にそういった外交姿勢を貫いているのですから、驚愕します。

 しかし、大陸の王朝としたら、天子は隋の皇帝ただ一人だと当然ながら考えています。ましてや、『倭国』といった蔑視している南海の孤島に『天子』を名乗る『倭王』がいるなど許せるはずもありません。

 隋王朝は、その国書を見て激怒し、出雲王朝との国交は断絶します。ところが、その隋はほどなくして滅び、618年に唐が建国されます。しかし、隋も唐も同じ鮮卑族による貴族政治ですから、いわゆる『政権交代』といったところで、単なる王朝の担い手が替わったに過ぎません。

 その唐王朝に対し、出雲王朝は、631年に様子見といったところでしょうか、第2代皇帝太宗李世民の時代に使者を送ります。それに対し、太宗は、遠いこの列島からの朝貢は不要だといった使者をわざわざ送ってきます。

 ところが、その使者と出雲王朝との間で『礼』を争って、その使者は『朝命』を伝えることなく帰国しています。『朝命』ですから、あくまで唐王朝は、この列島を属国扱いしています。

 その扱いに対し、出雲王朝は、『礼儀』に反すると、その『朝命』を拒否したということなのでしょう。そういった、隋・唐王朝による属国的扱い、そして、『倭国』などと蔑称で呼ばれていることに、出雲王朝は断固とした姿勢を貫きます。

 本当に、米国内の軍事基地建設にまで税金を湯水のごとく注ぎ込もうとしている今のわが国の政府に教えてあげたいと思わずにはいられません。しかし、サービス精神だけで多額の税金を投入するほど、お人よしではないでしょう。そこには、米軍の軍事力を大陸侵略のために利用しようとする思惑や見返りが秘められているようでもあります。

 そして、出雲王朝は、歴史上かつてなかった大きな改革を行い、648年、それを唐王朝に伝えるために使者を送っています。その大きな改革とは、この列島が『倭国』と呼ばれていた国名を、『日本(ひのもと)国』と改めたことでした。

 国名を変えた動機は、『倭国』という国名は、大陸の王朝からの蔑称で『不雅』、よろしくないからということです。また、その『日本』の根拠は、東出雲の地、つまりこの列島の都であり中心地であった『日』の地名を国名としたとあります。スサノオ尊の奉られる熊野大社には、『日本火之出初之社(ひのもとひのでぞめのやしろ)』という別名が残されています。

 このような経過の中で、わが国の国名『日本国』は誕生しています。

 つまり、大陸の王朝からの蔑視や属国扱いとの戦いの中で『日本国』という国名は誕生しています。 これこそが、645年『大化の改新』の真実です。大国を大きく変化させたという意味で『大化』という年号が付けられたのです。そういった崇高な歴史を、唐王朝は徹底して抹殺し、『大化の改新』を、血生臭い政治的クーデターに貶めてしまいました。

 そういった歴史の改竄は、過去のことではなく、今現在も続いているのです。唐王朝は、大陸にいる時から、この列島の歴史を改竄していましたが、この列島を征服した後、907年、唐王朝が滅ぼされる頃、この列島に王朝貴族が流れ着き、さらにこの列島の歴史は、改竄されてしまいました。

 その改竄された歴史が、『新唐書』に反映しています。その中で、日の出る所に近いので日本国という国名にしたなどとされています。新唐書は、1060年、北宋の欧陽修らによって作成されましたが、錯誤もあり資料的価値は旧唐書に及ばないとされ、同時期に作成された『資治通鑑』を作成した司馬光は、新唐書は一切使わず、旧唐書を資料としています。

 ところが、今のわが国では、この新唐書にある歴史認識が基本となっています。改竄の上にさらに改竄を重ねた歴史が、わが国の歴史となっています。

 早くそのことに気づかないと、いつまでも、わが国の歴史は闇の中をさまよったままになります。

  

648年、出雲王朝は、唐王朝に対して、大陸の王朝からの蔑称である『倭国』などともう呼ばないでくれ、『日本(ひのもと)国』という国名にしたから、そう呼ぶようにという使者を送りました。648年に『日本国』と改めたという報告に行ったということは、その直近に国名を変えるほどの大改革があったということを意味しています。

 この列島で、648年の直近に行われた改革と言えば、『大化の改新』がそれに相当します。

 つまり、『大化』とは、出雲王朝であるところの『大国』を変化させたという意味の年号のようです。

 隋書に登場するこの列島の『倭王』は、608年、隋からやってきた使者に対して、『大国維新の化』を問いかけています。その頃から大国をどう変えるかということが検討課題になっていたのかもしれません。

 しかし、617年、隋は滅んでしまいます。そして、618年に誕生した唐も、王朝の担い手が代わっただけで、隋と同様の貴族社会にあり、この列島を属国扱いします。

 631年に出雲王朝は、様子見といった朝貢の使者を送りました。それに対し、第2代皇帝太宗は、遠いところからの朝貢は不要だという使者をこの列島に送ってきます。しかし、その使者は『朝命を下す』といった立場で来るのですから、先に隋から属国扱いされることに反発していた出雲王朝は、『そのような朝命を受けるいわれはない』と、唐王朝の使者を追い返します。

 そして、出雲王朝『大国』は、十数年後に大改革を行い、その年、年号も『大化』としています。その改革の一番の中心だったのが、この列島の国名を、『日本国』とすることでした。隋や唐に『倭国』などと蔑まれ、また、属国的扱いをされることに対し、出雲王朝は、決して屈従することなく毅然とした姿勢を貫きました。

 ところが、663年秋、唐王朝は、この列島を征服し、出雲王朝を滅ぼしてしまいました。彼らは、その後も、藤原氏として占領支配を続け、この列島の歴史をも自らに都合よく変えてしまいました。大陸の王朝に屈することなく毅然と戦った出雲王朝の支配を、歴史から消し去り、そして唐王朝・藤原氏らの勢力が『太古の時代から支配していた』という虚構の歴史をでっち上げました。

 つまり、歴史の改竄です。その彼らの末裔が今もこの列島を支配し続けているので、未だにこの列島の歴史は、改竄されたままで、本当の歴史は闇の中に閉ざされたままです。この列島では、国家的歴史改竄が堂々とまかり通っているという、人類史上まれに見る『洗脳教育』が行われています。

 しかし、1300年にわたって改竄された歴史で洗脳教育されていますと、洗脳されているという認識も、改竄された歴史だという認識もこの列島の人々の中からは消えてしまいました。洗脳されているという認識がないから、何の疑問もなく千数百年も前に改竄された歴史がこの列島の歴史として通用しているのです。

 この列島で初めて、自らの国名を宣言するという『独立宣言』とでもいうべき『日本国』誕生を含む崇高な変革であった『大化の改新』は、今、わが国にあっては、醜い政治的クーデターのごとくに貶められています。

 その当時には、まだ天皇制はこの列島に存在すらしていません。蘇我氏が滅ぼしたとされる聖徳太子一族も本当に存在していたかどうかも極めて疑問です。法隆寺に残されていたとされる、お札に使われた聖徳太子の絵も、決して聖徳太子の絵として残されていたのではありません。

 その蘇我氏自体も同様に架空の勢力だったのかもしれません。蘇我氏は、甘樫の丘に邸宅を構え、そこには武器庫もあり、さしずめ要塞のようだったと言われています。しかし、その甘樫の丘の上には、そのような建築物を建てるようなスペースはありません。山の尾根の狭い所ですから、仮にも天皇家を凌ぐといったような勢力の大きな拠点など築けるはずもありません。もしも何らかの建築物をその場所に建てようとすれば、しっかりとした基礎が必要になりますが、そこにはそのような痕跡は一切ありません。

 架空の聖徳太子一族を同じく架空の蘇我氏が滅ぼし、その蘇我氏を中大兄皇子等が滅ぼしたといった創作をしたとしても、もともとそれらの勢力が存在していなければ何も問題は生じません。そこに、残るのは、悪者を退治したという権威だけです。

 しかし、それが架空だったことが明らかになると、捏造した歴史が根底から崩れ去ってしまいます。ですから、それらがあたかも存在していたかのように意識させるため、聖徳太子をお札にしたり、奈良地方で何かの遺跡が発掘されると、ことさら蘇我氏に関連した施設とされているようです。

 一度嘘をつくと、今を以ってその嘘に上塗りを続けなければなりません。彼らは、1300年にわたってその捏造した歴史が、捏造だとばれないために、必死に辻褄合わせをしているのです。

     

 この列島の都であったとされる『大和(やまと)』、そこにいた大王が、近くの山に登り、国見をした折に歌を詠みました。

 その歌が、万葉集の第2首として残されていました。

 

大和には 群山(むらやま)あれど 取り寄ろふ 

天の香具山 登り立ち 国見をすれば 

国原は 煙(けぶり)立ち立つ 

海原は 鴎(かまめ)立ち立つ 

うまし国そ あきづ島 大和の国は 

 

 

 このサイトの冒頭でもご紹介していますが、この歌が奈良大和にある大和3山の香具山で詠まれたとされているのです。しかし、奈良盆地にあっては、何処にも海原など見えませんし、鴎も飛んでいません。また、『あきづ島』、つまりトンボのような島など何処にも存在していません。

 この第2首にまつわる疑問が、私を古代史の道へと導いたのです。

 当時の都『大和』には、いくつもの山があったのですが、その中から選んで『天の香具山』に登り、国見をすると、広々と見渡せる平野には煙があちこちで立ち昇り、他方、眼前に広がる海原には鴎が飛び交っており、何てすばらしい国なんだ『大和』の国は、と愛でています。

 この歌を詠んだ大王は、確かにそういった風光明媚な情景を眺めていたとしか私には思えませんでした。しかし、現在、この歌の解釈は、奈良盆地にある香具山の上で詠まれたとされています。

 では、海など見えないのに、どうして海原が詠まれているのでしょう。それは、香具山の近くにあったとされる『埴安の池』を海に見立てて詠んだと解釈されています。

 では、『あきづ島』、つまりトンボのような島など何処にもありませんが、どうやってそれが詠まれたのでしょう。その大王は、この列島が、そういった形状をしていると想像して詠んだそうです。地図もなければ人工衛星も無い時代にあって、この列島の形状を認識できたのでしょうか。この列島の人々が、正確な地図を手にしたのは、江戸時代、間宮林蔵以降です。

 つまり、この歌は、想像によって詠われたとされているのです。それなら、別に山に登る必要などありません。

 私には、むしろ潮の香りすら漂ってくるほどに写実的な歌に思えました。

 本当に、奈良盆地で詠まれた歌なのでしょうか。それを確かめるために奈良大和3山へも行きましたが、この第2首は、奈良盆地などでは詠われていないということを、ただただ確信するだけでしかありませんでした。

 では、奈良盆地で詠われていないということになりますと、何処で詠われたのでしょう。それは、同時に、この列島の当時の都を探すことでもありました。つまり、その都で大王が国見をしているのですから、それが奈良の地でないということになると、この列島の都は、奈良にはなかったということにならざるを得ません。

 しかし、それが何処だったのかを特定できなければ、やはりこの歌は想像の産物だったということにしかなりません。

 そこで、まず私は、万葉集にある『大和』について調べました。

 ところが、万葉集の原文で『大和』という文字の登場する歌は1首たりともありませんでした。読み下し文、または歌の解釈では、数多くの歌に『大和』は出てきますが、歌の原文には全く登場していません。つまり、万葉集の詠まれた時代に、『大和』と表現される都は存在していなかったという結論にいたりました。

 もう、奈良盆地に都『大和』があったなどということは、私の中ではあり得ないことだとなりました。

 では、この列島の都は何処にあったのでしょう。

 そこから、いろいろ調べましたが、今現在、この国にある資料からは、それを見出すことは出来ませんでした。

 そして、ほぼ諦めかけていた時、ふと、この列島の都であるなら、何らかの痕跡が中国の史書に残されているかもしれないと思い浮かびました。その史書を調べる中で、『出雲』に都があったということが見えてきたのです。

 そこからは、絡み合っていた糸がほぐれていくように、次から次と謎が解けていきました。古代、この列島の都は、今現在は『出雲』と呼ばれている地にありました。

 しかし、663年11月18日、旧暦の10月10日、出雲の地にあった都は、唐王朝に滅ぼされてしまいました。今に伝わる、出雲で毎年行われている『神在祭』は、その時に殺戮された大国主命をはじめとした多くの人々を弔う行事として残されてきていると考えられます。

 そして、唐王朝の勢力は、この列島の歴史から、その都も出雲王朝による支配も消し去り、奈良の地に都『大和』があったという歴史を捏造して、この列島に押し付け今に至っています。

 万葉集は、消された出雲王朝の栄華盛衰を残そうとした人麻呂の悲痛とも言える思いから綴られたものでした。その第2首は、出雲大社から西に500メートルほど行き、詠われた当時は海岸に位置していて、今は『奉納山』と呼ばれている高さ70メートルほどの山の頂上で詠われていました。

 出雲の地こそが、古代、この列島の都だったのです。

 

 

『大和(やまと)』、『吉野』と言えば奈良県、『近江』と言えば滋賀県だと、誰しも疑うことなくそうお考えのことだと思います。

 確かに、今はそうです。しかし、唐王朝にこの列島が征服される以前においては、そうではありませんでした。『トリック(8)』でも検証したように、『大和(やまと)』は、唐王朝に征服される以前、奈良には存在していませんでした。

 この列島の都を意味する『やまと』は、出雲の地にありました。『あきづ島』とは、今の島根半島がまだ島だった時の名称でした。そして、今の出雲大社のある地に大王が君臨していて、その近くの『天の香具山』、今の『奉納山』で大王が歌を詠い、それが万葉集の第2首として残されていました。

 ところが、出雲の地に『天の香具山』があったということになりますと、持統天皇の歌との矛盾が生じてしまいました。

 

 

春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山

 

 

 持統天皇が、奈良大和3山の中心にあったとされている藤原京大極殿から香具山を眺めながら詠ったとされています。

 この歌にもいくつか疑問を持っていました。まず、その大極殿があったという場所から香具山までは、1km以上も離れています。それだけ離れていますと、何が干してあるのかなどほとんど分かりません。たとえ何か白いものが干してあることが分かったとしても、それが何なのかを判別することはかなり困難です。

 大極殿からは、他にもいろいろ見えていたことでしょうが、持統天皇は、どうしてそんなに見えにくい物を歌のモチーフとしてあえて選んだのでしょう。歌には、何らかのモチーフがあり、それが読む者にも伝わってきます。しかし、この歌からは、持統天皇が何を詠もうとしたのか、私には理解しがたいところがありました。春が過ぎて夏が来るからといって、そこに何を盛り込もうとしたのでしょう。香具山に見えるかどうか分からない程度の衣らしき物がたとえ見えたとしても、それがどうだというのでしょう。

 そういった、疑問が、『天の香具山』は出雲にあったということで紐解かれていきました。

 そして、持統天皇は、吉野に30回以上も行幸しています。

 これにも大きな疑問がありました。

 奈良大和3山のあたりから、吉野の辺りまで行くとなると、当時、交通の便から考えますと、そう容易く行けるとも思えません。それに、どうして吉野にそんなにたびたび行こうとしたのか、それもよく分かりませんでした。その『吉野』が万葉集ではどのように詠われているのかを調べていきますと、『吉野』も出雲の地にあったことが判明しました。

 『近江』は、万葉集に『淡海』と詠われており、それが琵琶湖を意味するということから、琵琶湖のあたりは『近江国』と呼ばれることになりました。万葉集に詠われている『淡海』を調べていきますと、その『淡海』から鯨漁に出かけるという歌がありました。琵琶湖は確かに大きいですが、決して海にはつながっていませんし、万葉集の時代に、鯨が生息していたということはありません。それを調べていきますと、『淡海』とは、塩分の淡い海、つまり今に言われる『宍道湖』だったというところに行き着きました。

 つまり、『やまと』、『吉野』、『近江』など、今は、近畿地方を意味する地名は、実は、元は、この列島の都の地、『出雲』周辺の地名だったことが分かりました。

 出雲の地がこの列島の都だったという歴史が消される中で、それらの地名まで出雲の地から消され、近畿の地名だとされてしまったのです。

 その当時には、それが分かる人も数多くいたことでしょう。しかし、千数百年以上も経ちますと、その改竄された歴史に疑問を持つ人などほとんどいないということになってしまいました。

 同時に、唐王朝にこの列島が征服されたことも、出雲の地に都があったといった歴史も、誰も知らないというところに至ってしまいました。この列島を今なお支配し続けている、ほんの一部、唐王朝・藤原氏の末裔のみしか知らないこの列島の秘められた歴史とされてしまいました。その彼らにとっては、この列島の人々は、今なお『倭人』でしかありません。今なお、ほとんど獣並みの扱いで徹底して卑下され、収奪され続けているのです。

 今のわが国の真の姿を知るためには、1300年以上も遡らなければ理解できません。

 ですから、いまだに、この列島の人々は、その改竄され捏造された歴史で洗脳されたままでしかありません。

 私たちの住むこの列島の本当の歴史を取り戻すことは、この列島を支配し、そこに暮らす人々を奴隷のごとく支配している勢力の本性を見出すことでもあります。

     

 

 

天皇の祖先だとされる『天照大神』は、男性神イザナギ命が禊で顔を洗った時に左目から誕生し、その折に鼻からは『スサノオ尊』が生まれています。また、天照の曾孫とされる山彦は、その妻豊玉姫が出産する時に妻から産屋を覗かないようにと言われるのですが、覗いてしまいます。すると、そこには八尋大鰐がのたうち回っていました。つまり、豊玉姫は、今で言うサメの化身だったのです。そして、その時に生まれた子と豊玉姫の妹玉寄姫との間に誕生したのが神武天皇です。

 全くあり得ない系図です。

 つまり、天皇というシステムのルーツを秘匿しなければならなかったということのようです。

 663年秋、この列島を侵略した唐王朝の勢力は、この列島に居座り、藤原氏という集団を構成しました。

 その彼らのシンボルが『天皇』だったのです。660年に武則天は、皇帝を『天皇』という呼称に替えましたが、武則天の失脚と同時に大陸では再び皇帝に戻されています。その武則天によって造られた『天皇』は、唐王朝では消えましたが、この列島において今に至るまで残されています。

 武則天の幼名、あるいは本名は、武照といいます。つまり、この列島の最強の神社である伊勢神宮に今にも奉られている天照大神とは、武則天を意味していました。ですから、伊勢神宮の神紋は、花菱、別名唐花菱、唐花とも言われています。

 唐王朝は、907年に滅ぼされ、その王朝貴族は、大陸を追われ、命からがらこの列島に流れ着きました。その時に持ち込んだのが、東大寺正倉院に残されている1万点にも及ぶ宝物やその近くにある聖語蔵に保管されている5千巻からの隋・唐代の経巻だと考えられます。

 ところが、この列島は、大陸に王朝が誕生して以来、『倭国』、あるいは『倭人』などと蔑視されてきていました。ですから、王朝貴族の彼らにとっては、そんな忌まわしい列島に住んでいるなどということに耐えられるはずもありません。そのため、この列島が蔑視されていたなどという歴史は消され、天皇が遠い太古の時代から支配していた高貴な列島だと装いを変えました。つまり、歴史の捏造であり、改竄です。しかし、この列島に住む人々は、彼らにとっては、所詮『獣』並みの倭人でしかありません。

 さらに、彼らは、たとえ歴史を変えたとしても、こんな列島にいつまでもいる訳にはいきません。いつか、必ず大陸に舞い戻り、再び大唐帝国を再興せよと後の藤原氏に指令を残しました。そういったことが古事記に描かれています。武則天によって生み出された『天皇』を、再び、大陸の支配者として復活させようとするものです。

 秀吉の時代や、明治維新から後の終戦まで、彼らは、大陸支配を着々と進めていました。 しかし、そんな時代錯誤もはなはだしい侵略行為が、世界の民主主義勢力によって破綻させられたのは当然のことでした。

 ところが、彼らは、米軍という強力な援軍を盾にして、再び大陸侵略に邁進しているのが今です。彼らは、自国の自衛隊だけで大陸侵略が可能だなどとは思ってもいません。ですから、米軍が頼りですから、米軍の基地強化のためには、税金を湯水のごとく何兆円も注ぎ込むのです。

 明治維新以後、第2次大戦に至るこの列島から大陸へ侵略した一連の戦争行為の本質は、『大東亜共栄圏』、つまり唐王朝・藤原氏の末裔による『大唐帝国再興』にありました。

 今、再び大陸をめざそうとしている動機も同様です。そういった、彼らの、その意図、思惑は決して口にされることはありません。古事記では、白兎が陸に戻ろうとしてサメを利用しますが、最後の1匹に騙していたことを口にして酷い目に合わされます。これは、唐王朝の勢力がこの列島に流されてきたことを白兎として描いたものです。後の藤原氏に、大陸侵略の思惑や意図を決して口にするなという戒めとして残しているのです。

 ですから、彼らは、絶対にそういったことを、口にすることはありません。大陸に、悪者を作り、それを口実にして侵略するという戦略をとっています。とりあえずは、北朝鮮を徹底的に悪者に仕立て上げ、散々挑発して『脅威』、『敵』として大陸侵略の口実つくりに邁進しています。

 わが国は今、大陸に『鬼』をつくり、再び『桃太郎』を復活させようとしています。

 北朝鮮の側にも、決して問題が無いわけではありませんが、それを徹底的に利用しています。『拉致問題』も解決しなければいけませんが、戦時中、わが国では、大陸の人たちを強制連行してきて工場や炭鉱で強制労働させていました。北朝鮮の『拉致』など比較にならないほどの『拉致国家』だったのがこの日本です。さらに、『拉致』どころか、2千万人ものアジアの人々を殺戮し、強盗・強姦など言語に絶するほどの行為を行ったのがこの日本という国です。

 ですから、周辺諸国から、そういった甚大なる被害の『報復』を受ける可能性は、当然ながらありました。しかし、アジアの皆さんは、『報復戦争』といった行為は行いませんでした。

 それに関しては、わが国の人々は、周辺諸国の皆さんに『感謝』しなければなりません。そうなったのは、わが国が憲法に『戦争放棄』、『戦力は保持しない』と、『反省』を明記したからであります。

 ところが、『戦後50年も経ったのだから、もういいだろう』と、この列島の中枢を支配している唐王朝・藤原氏の勢力は、『反省』を終えて、戦力を増強し、再び大陸侵略を目指すことにしたのです。

 1960年代後半以降、政教分離を厳格に規定している憲法に反し、現職総理が、正月に伊勢神宮に参拝しています。個人の参拝とは、全く意味が違います。年始にあたり、この国の最高権力者が、天照大神、つまり武則天に、大陸侵略を必ず成し遂げるという決意をそこに表明していることになるのです。ある意味、首相の忠誠心を試す現代の『踏み絵』とも言えます。

 同様に、憲法を変えようとする動きの中心にある動機は、大陸侵略を可能にしようとするものです。

 こんな日本こそが、アジアの人々にとっては最大の脅威です。その脅威の根幹が、この列島に今にまで潜む唐王朝・藤原氏の勢力なのです。彼らは、この列島が再び戦火に覆われようと、所詮は、倭人の住む忌まわしい列島ですからどうでも良いことです。むしろ、攻撃されれば大陸へ侵攻できる口実ができたと喜ぶかもしれません。過去、アメリカも日本軍がパールハーバーを攻撃することを知りながら、あえて攻撃させました。それを、口実として参戦し、この列島を占領支配下に置くことを戦略としました。今、わが国の中枢の勢力も、北朝鮮が『刀を抜く』ことを待ち望んでいるかのように、挑発しています。

 その大陸侵略のためには、彼らにとって憲法9条が邪魔で仕方がありません。また、大陸侵略により戦費が膨大に膨れ上がりますから、戦費調達のため、消費税を増税します。

 『北朝鮮の攻撃から国民を守るために憲法9条を変えよう』と宣伝もしています。

 本当に国民のことを考えている勢力であるのなら、お年寄りや身障者から搾り取るかように税金を無慈悲に取り上げるようなことはしません。本当に国民のことを考えているのなら、この列島から自殺者が毎年3万人も出るようなことにはなりません。他国からの攻撃よりも前に、自国の政府によって数多くの国民が命を落としています。

 彼らは、さも、国家国民のためにといった宣伝で、自らの大陸侵略の目論見を隠そうとします。今、この列島の人々は、戦時中と同じように、また白兎のサメのごとくに騙されて大陸侵略の手先として利用されようとしています。彼らは、マスコミを操作しながら、その思惑に向けて巧妙に誘導しています。2大政党の勢力があたかも対決しているかのように見せかけて、都合よく彼らの戦略を着々と確実に進めています。つまり、源氏と平家、将棋で言えば飛車と角行のようなものです。国民にとっては、右手で首をしめられるか左手で首を絞められるかの違いでしかありません。その本質は、唐王朝・藤原氏なのです。

 今、彼らの思惑を見抜かなければ、そして、その目論見を止めさせなければ、再び、この列島は本当に、大陸の国々からの攻撃で戦火に包まれることになりかねません。大陸の人々も、いつまでも心優しく考えてくれるかどうか分かりません。そういうことなら、第2次大戦中の被害の報復だと、過去の怒りや怨念が再燃しないとも限りません。そうなりますと、この列島の2千万人が殺戮されることも想定されてきます。大陸の人々の多くは、お祖父さんやお祖母さん、おじさんおばさんなど、身内や近隣の人々が日本軍によって酷い目に合わされたことを、決して忘れているわけではありません。そういうことを、日本という国が周辺諸国に対して行ってきていることを、私たちは、忘れてはなりません。

 大陸の人々からしますと、アジア諸国にとっての一番の敵は、北朝鮮どころか日本だということになりかねないのです。

 今進められている憲法を変える動きは、戦後、『反省』したのは、『国体護持』、つまり唐王朝・藤原氏にとってのシンボルである『天皇制』を守るための、その場しのぎの『ポーズ』でしかなかったことを、世界中に知らしめることになります。彼らにとって『反省』とは、『自虐的行為』程度にしか思っていないようです。憲法を変える動きは、そういったことに止まらず、アジアの地に『悪魔』が復活することになります。戦後、『魔法瓶』に封じ込められていた『悪魔』が、『憲法9条』という『栓』が取り外されることにより、再び野に放たれることになるのです。

 ヨーロッパで言えば、『ヒットラー』の完全復活を意味します。アジアで最も危険な勢力である、この列島の中枢に潜む唐王朝・藤原氏の勢力の思惑をストップさせなければ、アジアは再び大きな戦場と化すことになりかねません。

 あるいは、それこそが、彼らの待ち望んでいた好機到来なのかもしれません。混乱に乗じて唐王朝を建国した李淵の手法そのものです。

 その唐王朝・藤原氏

 

   

の大陸侵略の旗印・象徴・シンボルこそが『天皇』なのです。