安政5年 1858年 61歳
1/23 秀司の子 音次郎出生
清水惣助妻ゆきにをびや許し。
7月~ほうき星現れる
9月
9月コロリ病流行
安政6年 1859年 62歳
ゆきに再度をびや許し。
金光教開教
「庄屋敷に珍しいをびや神様が現れた」と言う噂が広まる
7月8日桜井地方に洪水あり
7月コロリ病流行
9月眠病流行
万延元年 1860年 63歳
1/29(2/20)梶本亀蔵出直し(7歳)
3/3 桜田門外の変 、井伊直弼殺される。
文久元年 1861年 64歳
みかぐら歌を文久年間に教えられ、十二下りは慶応三年ごろまでにでき、慶応四年には教祖が自らお手をつけになり、五、六名の人々に直接教えられました。教祖は誰にでも親しめる数え歌で、みかぐらうたを教え、自然会の高遠なる真理を庶民の手元に引きつけて、谷底とさげすまれていた人にも天然自然の理を理解させたのです。その教科書に当たるみかぐらうた十二下りのまなびつとめで普及した。
この年の秀司「万覚日記」に、綿内覚、大工日数控、日雇い使用覚えなど記載。
この頃、梶本村 西田伊三郎入信。
日米親善使節団出発
文久2年 1862年 65歳
安堵村平井伊平の妻女のお救けに赴かれる。
この頃、並松村、現在の生駒郡斑鳩町法隆寺の通称の小字名。松並の稲荷下げをする者が来たときは、教祖は先方の請いに委せて二両二分を与えられた。
6/5(7/1)梶本惣兵衛出直し(62歳)
この頃、前栽村・村田幸右衛門入信
文久3年 1863年 66歳
この頃、「講を結べ」と仰せられる。
安堵村・飯田岩次のお救けに赴かれる。
豊田村・仲田儀三郎(2月)辻忠作(3月。)入信。
2/23上田ナライト出生。
9/10(10/22)梶本ひさ出生
8月天誅組の変
元治元年 1864年 67歳
1月中旬、安堵村飯田宅に赴かれ40日間御逗留。近村より願人続々来る。
春頃より、扇の伺い、肥えのさづけを渡される。
並松村医者古川文吾、奈良金剛院の山伏を同伴して論破に来る。
遠方の村々からも参詣人多数。
大豆越村・山中忠七入信(1月)、新泉村・山沢良治郎、大西村・上田平治、永原村・岡本重治郎入信
櫟本村・飯降伊蔵入信(5月)、伊豆七条村・桝井伊三郎入信(7月)。
この頃、法貴村・前川喜三郎入信。
○7月、禁門の変、長州戦争始まる。
7/26 飯降伊蔵夫妻に扇・御幣のさづけ。
9/13(10/13)つとめ場所の手斧初め
10/26 つとめ場所 棟上
10/27 大和神社事件
12月 中旬つとめ場所落成。
12/26 辻忠作ほか数名にさづけを渡される。
飯降伊蔵夫妻、元治元年より3年間ほど屋敷に常詰
つとめ場所が建てられ建造物は、本来おつとめをつとめる場所として作られたのです。教祖とこかんはつとめ場所に住んでおつとめを教え、準備をしていたのに山澤良治郎にそそのかされた中山家の戸主山中秀司が、教祖とこかんを綿庫と称する納屋に移し、慶応三年つとめ場所には天皇家の祖先十二柱を祀り、「天輪王明神」という神社にしてしまう。
慶応元年 1865年 68歳
はる懐妊中、「真柱の眞之亮やとで」仰せられる。
6月、田村法林寺、田井庄の高蓮寺の僧侶ら論破に来る。
9/20頃より、30日間の断食。
この頃 大和一国神官取締役守屋筑前守、教祖と対面、公許をすすめる。
8/19日大豆越村山中宅へ赴かれ、忠七に肥えのさづけ、おそのに扇のさづけを渡される。(8/25まで、忠七伝)。
10月 針ケ別所へ赴かれ、今井助蔵の妄説を説論。
この頃、こかん、神意を取り次ぐ。この年、山中忠七も扇の伺いをする。
慶応2年 1866年 69歳
「あしきはらいたすけたはへてんりわおうのみこと」を歌とて手振りを教えられる。
2/7 山中忠七に物種を授けられる。
5/7(6/19)初代真柱・眞之亮(梶本3男)出生。
村人、参詣人多数のため迷惑と苦情。
芝村・高取・郡山・柳本の各藩、古市・和邇代官所の武士で参詣する者増加。
この頃、教祖は「天然自然に道や」といつもお話(逸話篇17話)
8/17 飯降よしゑ出生・
10/10 前川菊太郎出生
10月 若井村・松尾市兵衛入信
この年、全国で農民一揆、打ちこわし多発。
慶応3年 1867年 70歳・
みかぐらうた「十二下り」の歌(正月~8月)と手振り(以後3年間)を教えられる。
秀司、教徒吉田神祇管領に公認出願。7/23認可
この年、4~5月に「御神前名記帳」。参拝者は、大和150余ヵ所、河内1ヵ所、大坂3ヵ所、山城3ヵ村、阿波国1ヵ村にわたる。
○8月 ええじゃないか起こる。
○この年、大政奉還。12/9 王政復古を宣言。
天輪王之尊」出現と真宗 (8)
今回の「西本願寺文書」調査で、浄土真宗と天理教に関して従来知られていない事実が発見できた。
それは、5代目眞惠が慶応3年(1867)庄屋敷村(天理市三島町)「天輪王之尊」に関して本願寺に報告し、本願寺がそれに応じて探索している一連の史料である。慶応3年7月9日付けで本山へ「庄屋敷村百姓某」つまり中山みきが「天輪王之尊」と称して、人々を惑わし、その中に門徒も多くいて、「御寺法」に背き嘆かわしく、更に調査して上京の上報告するという書簡を出している。これは、2年前、田原本御坊配下の法林寺・光蓮寺(共に天理市)の両僧が「白刃を突き立て、難問を吹き掛け」て「論難」(『稿本天理教教祖伝』等)していることが影響しているかもしれない。眞恵の報告で使僧妙覚寺へ「淨照寺共篤と示談の上、郡村所名主・領主・地頭等に具に聞き糺し申すべき、その上二而別段御門徒の心得違いの族ハ、追てお取締のご教諭あるべく候」と領主等を巻き込んだその対応策を要請している。
本山から派遣された妙覚寺は、翌月の8日に「取調書」えお提出している。それに「百姓 善右衛門・同人母・并妹」と名指した上で、「医薬療養を相用いずして病気を平らげ、荒れた田畑の水損・干損・蝗虫の患いをなくし、肥養を用いず豊熟にし」等と現世利益を説くと報告している。
幕末のこの段階で天理教に対し既成教団がこのように対応している事例は把握されていない。その意味で近代宗教史上においても、意義のある貴重な文書と推察される。 2001年9月