おふでさき3、4号の背景

明治4年    1871年  74歳        

 

1月新政府は、境内地を除く寺社領地の上地を決定し、5月には、神官の世襲を廃止するとともに、社格および神官職制を制定して神社制度を整え、神社の官立化を推し進めた。これらの政策は、封建制度解体の一環でありつつ、同時に神権的な天皇を頂点に据えた日本近代国家創出に向けての基盤整備の意味を持っていた。この時期に整えられた神社制度は、後の国家神道の重要な骨組みとなった。

 

明治維新にあたり、天皇親政を打ち出した新政府は、維新当初から、古代において特別な地位を占めていた伊勢神宮の改革に着手し、これに再び国家的権威を付与するとともに、全国12万余の神社を規模や格式に応じて系列化し、神宮を本宗とする神社のヒエラルキ-を築いていった。

 

正月、 河内とさえ国教興寺村・松村英治郎、妻きく入信。

 

○4/5 戸籍法制定、

 

前年頃より、河内・摂津・山城・伊賀へ教えが伸びる。

 

/10 新貨条例制定1両=1円とする。)

 

/14 廃藩置県の詔

 

10/3 宗門人別帳廃止。

 

1120日大和一円奈良県となる

 

明治5年    1872年  75歳

 

戸籍法

 

4月教部省設置 三条の教則が国民に示される。これはそのまま神道本局の教憲になる。この教憲が天理人道を掲げる。天理は天皇が支配者になること。それを成就するために命を捧げ、天皇の世界支配を実現するのが人道です

 

天理人道とは、服従、忠義、孝行これらを徹底させること。文部省と教部省は学校教育、社会教育を通して、特に教部省は、芸人、講談師、僧侶まで教導職として使い、徹底的に天理人道を行う。

 

天皇だけが生き神様、あとは黙って仕えなさいという、日本の天皇神道を旧約聖書と同じように作りまして、この天皇の世界支配を天理、そしてそれに仕えろというのを人道、この天理人道教育を明治5年から始める。

 

そして、文部省、教部省が作られる。その文部省が今も続いている。

 

親孝行よりも、兄弟仲よくよりも、夫婦仲よくよりも天皇の戦争に捧げろというが教育勅語だった。

 

学制を発布

 

東京-横浜間に鉄道開通

 

太陽暦の採用

 

この年より日本では、公に太陽暦が採用され12月3日をもって明治6年1月1日と定められた。本年表の記述も明治6年よりこれに従う。なお教会本部の月次祭は、明治43年1月26日の改正まで陰暦を用いて執行されていている。

 

3月神祇省が廃止され、教部省が設置された。

 

教部省は、新政府の政策や政治方針を、国民に浸透させるための教化活動を目的として設けられた。ここに大教宣布運動が全国的に展開する。

 

425日教導職14級の制が定められ、神官や僧侶が教導職に任命され、ついで、28日には教導職の講説の基本として3条の教則が定められた。神道思想と開化思想とでは、一見矛盾しているように思われるが、神権的な天皇というものをいだだいた新政府が、上から専制的に開化政策を進めて行くためには、この両方の思想内容を不可欠とした。教部省は国民教化に役立つと思われる民間の諸宗教を講社として公認していく方針をとったが、教化活動の障害となるものについては取り締まりを教化し弾圧した。

 

学制発布

 

1119日わが国に太陽暦が採用されるようになり、明治5123日を明治六年11日と改め、12時間を24時間にした。

 

天理教が祭典日が太陽暦と替わったのは明治43126日からである

 

○4/25 教導職設置(17年8/11廃止)。

 

○11月大教院設置

 

○この年、初の全国戸籍調査(人口3311万人)。

 

6月頃より、75日間の断食。

 

/2 断食中、若井村松尾宅に徒歩で赴かれ、長男楢蔵の病気を見舞われる。(13日間滞在)

 

9月頃より、別火別鍋との仰せ。

 

  /19 飯降マサエ出生。

 

  /17 梶本惣次郎出生

 

  /18 梶本はる出直し(42歳)

 

  /4 前川杏助出直し(教祖兄)80歳

 

  この年、初の全国戸籍調査(人口3311万人)。

 

明治6年    1873年  76歳

 

飯降伊蔵に命じて簡単なかんろだいの模型を作成。

 

河内国柏原村・山本利八、利三郎入信。

 

1月 梓巫、市子、憑祈祷、狐下げ等の所業禁止。

 

2月 キリスト教禁制の高札撤廃

 

/10 徴兵制制定、

 

5/26 秀司、庄屋敷村戸長となる。

 

11/9 秀司宅で大教宣布説教あり(聴衆150名)

 

12月 秀司、庄屋敷村検証役に任命される。

 

徴兵制が布かれる。(戸籍制度ができたのはそのためだった)

 

その徴兵制ができたときに、教祖は今それを正さねばならぬと言って、大和神社に問答をしかけに行き、おふでさきを提出して、国の方針はこれでいいのか問われた。

 

陰暦八月、大和神社へ「おふでさき」34号を持って仲田、松尾の両名が問答に出かけのですが、その問答は、実はご神体は何かと聞いたのです。というのは大和神社というのは国譲りした大国主命を祀っています。そして、武力で国を譲れと交渉したのは天皇家。

 

大国主命は民を殺され稲を焼かれるよりは王位を譲った方が民も収穫も安全だという、自分の王位やり生命よりも民の幸せを願いました。その大国主命を福の神と讃えていたのが国つ神の神社なのです。

 

大和には天皇を祀った神社はなかったのです。この矛を私と思って祀れば民は反乱しないだろう大国主命の象徴が広矛です。「恵比寿大黒福の神」だ、私たちの神と讃えていのたが大和神社だったのです。

 

そこへ天皇の世になったら、天皇の神よりもありがたいと説いていた神主が邪魔になったのです。その神主さんを罷免して、天皇が任命した神主を据えました。

 

 昔はこのご神体は大国主命が私と思って祀れ、、これを大事にしたら国が反乱しないと言った広矛です。

 

それが昔火事で焼けていこのますから、御神体を新たにくださいという願書をこの神主に出させて、天皇家の三種の神器にします。真ん中は八尺に曲玉一個です。戦争放棄の広矛の替わりにまつろわぬ者を平らげる剣にし、収穫物の稲を祀っていた御歳の神の代わりに収穫をもたらす天照大神の象徴である鏡にします。

 

天皇家の三種の神器に祀り変えさせたのが明治7年6月23日です。

 

このように御神体を変えて、天皇家よりも民の安全と収穫をもたらした恵比寿大黒福の神と説いていた大和神社を、天皇家が一番尊い神であると話を変、えさせるために、大和の神職を集めて講習会をやってるところ教祖は論争を仕掛けたのです。権力で政権を取ったものが神ではない。

をや/\の心ちがいのないよふに  
はやくしやんをするのがよいぞや -三一
神だの親だのと唱えていても、上だからといって心得違いがあってはいけいというのです。
当時の日本は親の言うことは白が黒でもはいと言えと教育していたのです。そこで明治になるともっと
大事に君主への忠義を教えたのです。親だって心得違いがあると言い、神と唱える人間だって間違っている。
このように述べた。

そして、「その証拠は」と言って「おふでさき」を突きつけたのです。仲田儀三郎と松尾市兵衛の二人が大和神社小教院へ持って行きました。

 

 天理人道を教えるため大教院、各県に中教院、奈良では後に興福寺に移りますが初めは紀州屋敷でした。山辺郡の小教院が大和神社です。

 

天皇を神様と言っても何が尊いかという態度を教祖が取ったのです。

 

初め東京に大教院開設され、教導職による教化運動が、この大教院を中心とする神仏合同宣教というかたちで進められることになる。大教院は、教導職の教育機関であり、神仏混合宣教の中央機関でもあった。府県には中教院が設置され、管内の教導職や小教院が統括された。

 

大教院では617日に大祭、毎月17日に小祭を執行、また毎16の日には訓導以上の教導職が説教をなし、中教院もそれに準じて行われ、教導職には説教所を定めさせて一カ月に三度以上の教導を実施させた。

 

明治7年    1874年  77歳

 

おふでさき第3号(1月)第4号(4月)第5号(5月を)第6号(12月)をご執筆。

天皇制軍国主義政府は暴力を背景にして歪んだ教えを説かしている。今は良いけど先は見えない。

徴兵制の布かれる。(戸籍制度ができたのはそのためだった)

 

その徴兵制ができたときに、教祖は今それを正さねばならぬと言って、大和神社に問答をしかけに行き、おふでさきを提出して、国の方針はこれでいいのか問われた。明治7年

2月園原村・西浦弥平入信

3月 大阪空堀町 泉田藤吉入信

 

/17 奈良中教院設置

 

5月台湾出兵(12/3撤退開始)。

 

/26 秀司、庄屋敷村副戸長となる。

 

陽暦(6/18(陰暦5/5)秀司らを伴い、前川宅にかぐら面を受け取りに赴かれる。

 

陰暦6月より、証拠守りを一般に下付される。

 

6月 禁厭祈祷をもって医薬を妨げる者の取締命が出される。

 

12月 河内国大県村・増井りん入信

 

正月、神前に7~8斗の鏡餅を供える。後これを村民や信者にふるまう。後の節会の始まり。

 

10月 仲田と松尾に命じて大和神社に赴かせて神祇問答。これとりにより官憲の圧迫始まる。

 

山村御殿取り調べの翌日(12/24)、御歌3首を仲田らに遣わされる。

 

10月の大和神社神祇問答の直後、石上神官神職論破に来る。数日後、丹波市分署より警察出張、つとめ場所の神具を没収、村惣代にあずける。

 

12/23 奈良県庁から呼び出し、5名を伴い山村御殿に赴かれ、寺社係の取調べを受けられる。

 

山村御殿では役人の要請に応じて、儀三郎は辻の歌に合わせ、おてふりを行った。これ以後県庁でお屋敷のへ参拝人が出入りしないよう厳重な取り締りを始めた。

 

12/25 仲田、辻、松尾3名奈良中教院に召喚、信仰差し止めの厳命を受ける。

 

教祖が急に、「赤衣を着る。」、と仰せられたので、その日の朝から、まつゑとこかんが、奈良へ布地を買いにでかけた。

 

12/26 赤衣を召される。同日、仲田、松尾、辻、桝井にさづけを渡される。

 

教祖はおふでさきに宣言して、行った最初のかぐらつとめは、明治七年陰暦5月5日、所は前川家であることは周知の事実です。おつとめ場所でおつとめができなくなったので、明治8年6月に屋外におつとめのぢば定めを定めた。

 

1月学制にならいおやしき周辺にも次のような学校ができる。

 

名倫舎(石上村)明治7310設立41

 

名徹舎(川原城)〃7331設立71

 

この校舎に秀司が七十五銭寄付する

 

開明舎(丹波市村)〃7331設立112

 

稽徴舎(豊井村)〃7330設立48

 

2月キリシタン解禁

 

12/26日、飯降伊蔵の次男 政甚生まれる。

 

政甚を抱いておぢばへ参詣した伊蔵に、教祖は「この子は前生は破れ衣服を着て長らく苦行したるによって、そのいんねんで元のぢばへつれ帰って楽遊びをさせるのや」とも仰せられた。64歳で出直す。